10話 言触れの日
気がつくと、都波は雪の中に立っていた。颯矢太の手を握り締めて。
花を咲かせた凍つる桜も、珠纒の人々も兵も、咲織の姫もいない。
目の前でただ、椿の巨木が花を咲かせている。赤い花首をたくさんその根元に積もらせて。
これは、都波が咲かせた椿だ。
顔を見あわせる。颯矢太も困惑しているようだった。目を瞬いて、辺りを見回す。
雪の中に、緑色の玉垣が見えた。
「池野辺だ」
颯矢太が驚きの声を上げる。
まだ幻の中だろうか。だけど池野辺の真新しい木の門には門扉がついて、閉ざされていた。
ところどころ焼けおちてしまった椿のかわりに、板塀が立てかけられている。痛々しく、物々しい。
神喰に襲われた後で、神垣の人がした処置だろう。夢でも幻でもない。池野辺はまだ無事だ。
池野辺を旅立って、何日も、雪の中をもがきながら旅をした。それを颯矢太とふたりきり、一息の間に戻ってきていたようだった。
雪を照り返す明かりに気づいて、都波はもう一度辺りを見回した。
人の姿がいくつも、雪原の中に染みのように見える。彼らは手に松明と剣を持っていた。
以前、池野辺を襲った時のように。今日、珠纒を焼きはらおうとしたように。
だけど何かがおかしい。
いつも神喰は、声を荒げ、天を突くような気勢があった。だけど今彼らは、所在なさそうに雪原をうろうろとしているように見える。
「颯矢太、行かなくちゃ」
今のうちに神垣に戻って、みんなに警告しないといけない。今度こそ、みんなを玉垣の外に逃がさないと。
颯矢太の手を強く引いて、神垣へ駆けだそうとした。だけど颯矢太は動かない。
「都波」
颯矢太が、立ち尽くして都波を見ている。戸惑う金茶色の目がよく見えた。
ああ、そうだ。都波は違和感に気づいた。ここは神垣の外なのに、まるで玉垣の内側みたいに視界が開けている。
雪がやんでいた。刺すようだった風がゆるやかになって、凍えた頬を優しくなでる。
分厚い灰色の雲が、帳が開くように動いている。雲の切れ間から、光の切れ端が地面に落ちる。光芒が少しずつ増えていく。
まぶしい。
自分の周りに降りてくる光を、都波は目を瞬いて見ていた。
手をかざして、空を見上げる。雲の動きはとまらず、灰色の雲は薄れて、青い色が広がっていく。
遠く高く、澄んだ青い色。
まるい光が、そこにあった。
都波は大きく息を吸った。あたたかな風が、胸の内に満ちていく。
「颯矢太」
握った颯矢太の手を引く。
「あれ、なあに」
同じように空を見上げた颯矢太が、吐息をもらした。
「あれは……」
誰も見たことがないもの。
ずっとずっと前に、雲の向こうに隠れて、姿を見せなくなった。
「太陽だ」
たぶん、と颯矢太も、自信なさそうにつぶやいた。
きっと遠く珠纒でも、道中立ちよった神垣でも、この国のどこでも、皆が同じように空を見上げているだろう。
神垣の人も、垣離でも、雪人も、そして神喰も。
池野辺へ迫って来ていた神喰を思い出し、都波は辺りを見回した。明るい太陽の下では、松明の火は恐ろしさを感じない。
たくさんの人影が、戸惑うように去っていくのが見える。
困惑して退いただけで、また襲ってくるのかもしれない。けれどその日は、当分来ないだろうと思った。
神々の罰を取り除こうとした彼らの大義が消えたのだから。
板木を打ち鳴らす音と声が聞こえる。つないだ手をほどいて、都波は駆けだした。
「ただいま!」
神垣に向かって叫ぶ。声にこたえるように、門が開け放たれる。そこに集った人たちがよく見えた。
見知ったたくさんの顔が都波を見て驚き、笑った。手を振って、口々に、おかえりと言う。
司の姿はないけれど、きっと社にいて、都波の帰りを待っている。
皆に手を振って応えて、都波は振り返った。織布がひるがえる。
雪は眩しく輝いていた。
旅に出る前、門を飛び出して颯矢太を迎えようとした時とは、あまりにも違う。
青空のもと、真っ白な雪の上を、颯矢太が歩いてくる。
「おかえり、颯矢太」
都波は、いつものように言った。
一緒に帰って来た。だけど颯矢太にこれを言うのは、都波の役目だ。
国はよみがえり、人は滅びがあったことを、雪に閉ざされたことを、神の技を忘れていくのかもしれない。
神垣を守る神秘も、トリももう必要ない。
里の垣根は消えて、誰もが自由に国を行き来する。
それはいい事だけではないのかもしれない。雪に閉ざされても人は奪い合おうとした。
だからまたかつてのように、軍も行きかうようになるのかもしれない。
だけど、行きかうものはそれだけではない。
「うん」
都波の元にたどり着いて、颯矢太は頷いた。両手を伸ばして都波を抱きしめる。
「ただいま」
国は雪の下で清められ、罪も穢れも消え、新しく日が昇る。
花と光と笑顔に満ちて。
慶びの、春が来る。
了
神無き国 言触れの日 作楽シン @mmsakura
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