2話 帰る場所
※
気がつくと颯矢太は、吹雪の中を歩いていた。
うまく息ができないほどの風。白い世界を塗りつぶし続ける雪。
轟音と空白に頭が揺さぶられる。耳が痛い。頭も痛い。手足は感覚が薄い。
それでも、強く息を吐く。
口の中が凍らないように、細く開けてゆっくりと息を吸う。
杖をついて、沈む足を持ちあげて、前に出す。踏みしめる。
歩き続けている間は、生きている。進み続けなければ。辿り着かなければならない。
――どこに。
ふと疑問がよぎった。
――行かなければならない場所なんて、どこにもない。帰るべき場所なんて、どこにもない。
弱さが入り込んだら終わりだ。聞こえないふりをする。
風に逆らって、顔を上げる。
白い視界の中に、ふと別のものが見えた。
雪にかすんでいるけれど、確かに見える。天地を分けるように、横にしっかりと引かれた緑の線。
鮮やかな色彩は、颯矢太の心にじわりとしみ込んだ。
あれは、神垣をぐるりと囲む生垣だ。池野辺の椿の玉垣。いつも鮮やかな緑の葉を輝かせている。
安堵に息が漏れた。杖を握る手に、進む足に力が入る。
緑の玉垣の中に、木の門がある。
少女が駆けだして来た。雪に溶け込むような白い衣服をまとっている。黒々とした髪が、背で踊っている。
その姿を見て、緊迫していた心がゆるんで、涙がにじんだ。
「都波」
思わずもれた声は風にさらわれた。
都波に、聞こえたはずもない。だけど少女は、風も雪も関係ないみたいに、まっすぐに駆けてくる。
人懐こい顔に笑みを浮かべて、颯矢太に飛びついてくる。いつも変わらない。
抱きとめようとした。
けれど、出来なかった。
颯矢太に伸ばされた白い指先が、笑顔が、つややかな髪が、真っ赤な花になってこぼれていった。
細い体も、駆けてきた足も。
椿の花になって、血の染みのように、雪の上に散り落ちた。
凍えきっていたはずなのに、ゾッとした。怖気がついた。
――自分が生まれた場所がどこか知らない。親もいない。家もない。ただこの国で、旅に生きて旅に死ぬ。それが誇りだった。
だけど、都波。
帰る場所は、いつだって、そこにあった。
灯火のように、雪の中に赤く咲く花。
雪の中の道標は、いつだって、そこにあった。
おかえりと、笑う声に。
「導きの鳥」
薄物一枚を纏って、雪の中に白い人が立っていた。青銀の髪をなびかせて、金色の瞳が刺すように颯矢太を見た。
蛇神の、あの底知れない瞳が、ただ静かに颯矢太を見ていた。
「お前はあの小さな子を、どのように導くのか」
いつの間にか雪も風もやんでいた。空はどんよりと暗い雲が覆っている。白い雪の中に、颯矢太は立っていた。
足元に散らばる花を見る。散って消えた笑顔。
そして、思い出した。
最後に見た都波の顔。
腕を掴まれ、引っ立てられていく颯矢太を見て、驚き、ただただ驚き、そして悲鳴を上げるように呼んだ。あの声。
あんな都波をはじめて見た。あんな声を、もう聞きたいとは思わなかった。
争いに巻き込まれて、苦しんでほしくない。裏のない笑顔で、ぼんやりと笑う。それが守られるのならば、国など死んだままでいい。
ただ、あの笑顔があればいい。
「俺は」
白い息がもれる。
顔をあげると、池野辺の緑の玉垣が見える。本当なら燃えて落ちたはずの玉垣だった。
あのままなら神垣の人々はどうなるかわからない。
あの日、「珠纒につれていって」と言った都波は、いろんな感情に揺れているように見えた。
自分のことを知りたい、外を知りたい、珠纒の神秘を知りたいと願う好奇心と憧れ。
生まれ育った里を助けなければという使命感。
そして、里を出たい、ここから逃げたいという気持ち。
池野辺の皆は、都波を尊いものと扱っていた。それは同時に、腫れ物に触るような扱いになった。都波がいつも疎外感を抱いているのを、颯矢太は知っていた。
自分と同じ、親のいない子。
大事にされていて、だけど同時に遠巻きにされていて、寂しがりの女の子。
みんなの前では拗ねた顔をしていることが多かった。けれど、本当は好奇心でいっぱいで、颯矢太の旅の話に、いつも楽しそうに笑った。
走って転んで泣いて、傷つきやすい無垢な少女だということを、どれだけの人が知っているだろう。
そしてあの日、「珠纒につれていって」と言った都波を見て、大駕のことを思い出した。大駕が、俺と来るかと言った時の、自分を。
いま行かなければ、もう何もかも手遅れになる。押しつぶされてしまう。その瀬戸際の、張り詰めた思いを。
都波がいたから、大駕は颯矢太を池野辺に連れて行った。
――都波がいたから、颯矢太は自分の身上を、忘れられた。
トリとして、誇りを持って生きてこられた。
大駕を刺した手を見下す。人を傷つけるためでないトリの短刀で、自分の恩人を、父親のような人を殺そうとした。
これ以上罪を重ねて、人を傷つけてほしくなかったから。
颯矢太の中の父親の像を、壊してほしくなかったから。――自分の身勝手だった。
目的のために人を害した。神喰と何も変わらない。
それでも――。だからこそ。
都波を珠纒に残して来てしまった。取り戻さないといけない。そして、必ず帰してやらないと。
どれだけ外にあこがれていたって、池野辺が雪に埋もれることを、都波が望んでいないことなど知っている。
池野辺だけじゃない。どの場所だって、人が生きている場所が奪われることなんて、望んでいない。
それが都波だから。知っているから、一緒に旅に出た。
「都波の望むままに」
あの笑顔が守られるなら、国など死んだままでいい。
だけど、緑と花に満ちた、明るい野原を都波が望むのなら、そうあればいい。
「都波が行きたいと願うなら、どこにでも連れていく。俺は導く鳥じゃない。一緒に歩いていくだけだ」
先導ではない。
何が正しいかなんてわからない。
だけど都波が望むのなら、一緒に歩いて一緒に苦しむ。それならできる。
――そうやってきた。これからも、変わらない。
「ならば」
蛇神は、しずかな池のような、しずかな声で言った。
「行け。そなたの手を待つ者のもとへ」
あたたかい、と思った。目を開くと、見覚えのある顔がそこにあった。
「おい、颯矢太!」
拓深が颯矢太を抱えあげて、叫んでいる。颯矢太が目を開いたのに気付くと、ほっとしたように言った。
「こんなところで何やってる。傷はどうだ」
傷。殴られたはずのところも、痛めた手首も、折られた足からも、痛みがない。
だが雪の中で感覚が鈍るのはいいことではない。まさか凍傷になったのか。
颯矢太は焦り、足首を動かしてみた。
痛くない。動く。まるで、折られる前のようだ。
身を起こして、痛めたはずの手で拳を握り、試しに足を殴ってみる。痛い。だけど、激痛ではない。
珍しく慌てて拓深が颯矢太の腕を掴んで、振り上げた拳を止めた。
「気でも違ったのか。足を折られたと聞いたぞ」
「……治ってる」
蛇神の起こした不思議なのか。
立ちあがっても、痛みは少しもない。一歩進むごとに体を揺さぶるようだった熱も、引いているようだった。
「この血はなんだ」
颯矢太のそばに、血だまりがある。だが、大駕はそこにいなかった。椿の杖もない。ただ血の跡が、降り続ける雪の向こうにうっすらと続いている。
――無事だ。
大駕は生きてる。何よりもまずホッとした。
そんな場合じゃない、生きているのなら何をしに姿を消したのか分からない。だけど、そんな自分にも、何故か安堵した。
あの杖を持って行ったのなら。
ただ歩くための杖としてではなくて、何らかの意志で持って行ったのなら。
大駕はまだどこかで、飽いてはいないのかもしれない。
颯矢太は拓深の問いには答えなかった。
「都波は無事ですか。珠纒に置き去りにして来たんです」
「大丈夫だ。珠纒を逃げ出して、合流した。今はまた珠纒に向かったが、お前が心配するような事は起きてない」
拓深の言葉を飲み込むのに、少し時間がかかった。
――あの、泣き叫んでいた姿ばかり思い浮かぶ。
無事なのか。
颯矢太は、強張っていた体から、力が抜けおちるのを感じた。
その颯矢太に拓深は言う。
「お前、平気なんだな。俺たちは珠纒に向かう。来れるか」
俺たちという言葉で、颯矢太は拓深のそばに立つ少女に気がついた。
美しい少女は、巫女の白い装束の上に、トリが着るような毛皮の外套を着ている。よく見ると、拓深は外套を着ていなかった。
ふと、池野辺でのことを思い出す。
颯矢太が池野辺へ帰りついた日、都波が門から駆けだして来た日のことを。
凍える都波に、自分の外套を着せかけてあげた。随分と遠い日の出来事に思える。
「あなたが、咲織の姫ですか」
颯矢太は少女に尋ねた。ええ、と咲織の姫はうなづく。
なぜか都波と似ている。顔立ちは全然違うのに。瑞々しい意志の輝きのようなものを感じた。
「俺たち、あなたに会いに珠纒に行った。都波に会ってやってください」
いっせいに咲いた桜の不思議も、凍つる桜の奇跡も見ることはかなわなかったが、せめて、都波と同じ逸話を背負っているこの人に、会わせてやりたい。
「椿の巫女姫ね」
思いもよらない咲織の姫の言葉に、颯矢太は拓深を見た。
だが、拓深は首を横に振る。何も話していないと言うように。咲織の姫は言った。
「わたくし、夢の中で見た気がする。春を呼ぶ椿の花が、灯りのように咲いて、わたくしを呼んでいた。なんだかとても懐かしかった。わたくしも会いたい、会わなければならない気がするの」
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