第一章 ともしびの花
1話 帰郷
小さなお
たわまないように巡らせた、たくさんの縦糸の間に、横の糸巻きを通し、打込棒で抑え、糸巻きを通し、打込棒で抑える、その繰り返し。
少女が三人、
みんな巫女の白い衣服を着て、色とりどりの文様の織り込まれた肩帯をしている。そして老女の額には、飾りの帯が結ばれている。巫女を束ねる司の証だ。
都波はすっかり飽きてしまって、皆が手際よく布を織り続けるのをぼんやり見ていた。
「ほら、手が休んでいるよ。それでは田植えの祭りに間に合わないだろう」
老女に言われて都波は頬をふくらませた。
「飽きたんだもの」
里の田植えの祭りでは、巫女が新しく織った布で、新しい衣服を作る。その真新しい衣を着た巫女たちが、稲田の神霊に、大地の神に、里を守る神に祈りを捧げて、最初の稲を植える決まりだった。
巫女が着た衣服は、里の者たちに下げ渡される。貧しい里で、とてもめでたいものとして、みんなそれを喜んだ。
「大事な田植えの祭りなのだから、気持ちを込めて織りなさい」
老女の言葉は強くないけれど、叱られて都波は、唇を尖らせた。
椿の繊維から白い糸を取り出して、巫女が織った白妙の布。
どうせみんな、都波が織った布なんてほしがらないのに。
少女たちが顔を見合わせて、くすくす笑っている。
拗ねた気持ちで、横糸巻きを引っ張った。
ふいに、板木を打ち鳴らす音が、遠くかすかに聞こえた。
二度叩いて、一息置いて、もう一度。それを繰り返す音。里に人が近づいているのを、皆に知らせる叩き方だ。
都波は、織り機から顔をあげた。まわりの少女たちもお互いに見合わせたものの、すぐ元の作業に戻ってしまう。
だけど板木を鳴らす音は続いている。都波は糸玉を放り出して立ち上がった。そのまま駆けだして、呼びとめる声に構わず、巫女の社を飛び出す。
途端に寒気が体中を包み込んだ。巫女がいる社は山の中にあって、木に囲まれている。外は雪がちらついて、風は頬を切るように冷たい。都波は白い息を弾ませながら、山を下っていく。
細い道を駆けて行くと、森の木が途切れる先には、簡素な木枠の門がある。神域の山と人里を分ける境目だ。そこを抜けると、里の人たちが住む集落が見えてくる。地面を掘って屋根をかぶせたような家々の間を縫って、ひたすら里の門へ向けて駆けた。
道の先はまっすぐに、里と外をへだてる門へ続いている。人の出入りの少ない木造の門は、小さくて扉もない。この門は、社へ続く門とは違い、魔除けに赤く塗られていた。
門の前にはいつも交代で男たちが見張りに立つのが里の決まりだった。門の冠木から大きな板木が釣られていて、音が響くように中は空洞になっている。今は見張り番が、台座に乗って板木を叩いている。
赤い門の両脇からは、緑色も眩しい椿の生垣が伸びていて、ぐるりと里を囲んでいる。生け垣は、人の住む集落も、巫女たちのいる山も、神を祀る大池も包み込んで、外と里を分けていた。それは
人の住む場所のうち、玉垣に守られた里のことを
都波は門の前に立ち止まる。
門の向こうは、雪が吹き荒れて真っ白だった。ほとんど何もわからない。目を凝らすと、雪原の中に馬と人影がふたつ、染みのようにある。
都波は顔を輝かせて、見張り番の横を駆け抜けた。呼びとめる声が聞こえたけれど、気にしない。
赤い門をぐぐり抜けた途端、神垣には吹いていなかった暴風が都波の頬を殴りつけ、髪をなびかせた。まるで引きちぎるような雪と風が強くて、目を開けられない。息ができない。もがくようにして進めたのは少しだけ。顔をかばって腕をあげたまま、身動きが取れなくなってしまった。しかも板木の音を聞いてから、上着も羽織らず飛び出したので、吹雪の中にいるにはひどい薄着だ。
玉垣の内側は、守られている。だけど外は、まだこんなにも雪が強い。
ふと、ほんの少し風がやわらいだ。腕を引っ張られる。
「こら! 考えなしに飛び出すな!」
ごうごうと吹き荒れる風の音にまぎれて、耳元で強い声が言った。
だけど都波は、凍えかけた頬をほころばせる。顔をあげると、都波をかばうように、風上に少年が立っていた。都波が何か言うよりも先に、鹿の毛皮の外套をかけてくれる。少年の体温が残った外套は、凍える都波の体をじわりと暖めてくれた。
少年は片手で都波を支え、杖を雪に突き立て、ゆっくりと歩き出す。
門を通り抜けて神垣に戻ると、途端に風がやんだ。体を包んでいた力から解き放たれて、都波はよろけてしまった。叩きつけてきていた雪は、ひらひらと舞う綿雪に変わっている。膝をつきそうになったところ、力強い手に引き上げられる。革の手袋をした手が、髪や肩にまとわりついた雪を、そっと払ってくれた。
顔を上げると、優しい仕種とは裏腹に、憤慨した声が降ってきた。
「いっつも、もうちょっと考えてから動けって言ってるのに。簡単に玉垣の外に出たら駄目だろ」
都波は少年の、頭巾の下の顔を覗き込んだ。明るい金茶色の瞳を見る。
「
首に飛びついた。しがみつく都波に、颯矢太は戸惑いとあきれの混じった声を出す。
「怒ってるの、分かってるのか?」
分かっている。びっくりして心配したから、怒っていることも。
「うん、ごめんなさい」
溜息が、耳元で聞こえた。
「いいから、手を離せ。巫女姫なんだから、軽々しいことしたら駄目だろ」
「でも、
矢継ぎ早の言葉に、颯矢太は思わずのように笑った。
「大丈夫だよ」
颯矢太が被っていた頭巾を取る。明るい色の髪があらわになった。
都波のような里人はみんな、黒い髪と黒い瞳をしているが、颯矢太は違う。颯矢太の髪は赤みかかった茶色をしている。瞳の色も、黒ではなく茶色だ。それも光の加減では金に見える。
国が雪に覆われて長く、その間に、寒さと過酷な環境に強い体質の人間が生まれるようになった。颯矢太はそういう人のひとりだ。彼らのような体質の人間のことは、
「これじゃ、俺が後で司に怒られる」
頭巾の下でぎゅうぎゅうになっていた髪を片手でかきまわしながら、颯矢太はひとりごちた。
「おい、都波は無事か」
声を掛けられて、颯矢太は慌てて顔を向ける。さっきまで板木を叩いていた見張り番だ。踏み台を降りて、腰に手を当てて颯矢太を見ている。
「すみません。渡りで来ました。都波は無事です」
颯矢太は革の手袋をはずして、手の甲に彫られた文様を見せた。三本脚の
「お前も大変だな、颯矢太。おかえり」
見張り番のあきれたような声に、颯矢太は苦笑する。
「俺が見張りの時に面倒をおこしてくれるなよ」
見張り番は独り言のようにつぶやいた。都波は頬をふくらませて無言の抗議をする。
国中を雪が覆うようになって、人は玉垣の中にこもるようになった。雪人ほど体が強くないからというだけでなく、玉垣の外を恐れている。そのため颯矢太のような雪人が、神垣を渡って歩き、手紙や物を運ぶ。
そういった役目を負う者たちのことをトリと呼んだ。八咫烏は、雪人がトリになる時に手の甲に刻む印だった。
国を旅し続けるトリにとって、どの神垣も家ではなくて、止まり木だった。けれど、神垣の人はみんなトリに「おかえり」と言う。ねぎらいと敬意をこめて。トリがいなければ、どの里も雪の中に孤立してしまう。災厄に見舞われたり、食料が底をついたりしたら、玉垣と雪に囲まれたまま神垣は滅びてしまう。
「来て早々、お前は飽きないよな」
颯矢太の後ろから、背の高いトリが手を伸ばして、都波の頭をくしゃくしゃに撫でた。都波は意地悪く笑う顔を見上げて睨む。
「拓深。もう、意地悪ばっかり」
トリは二人以上で組み、馬を連れて行く。
託されたものを確実に届けるために。
道中で助け合い、もし一人が倒れても先へ進めるように。馬は、足になるだけでなく、身を寄せ合い暖をとって眠ることができる。馬には帰巣本能があって、それに助けられることも珍しくないのだと、以前颯矢太が言っていた。万が一の時には食糧にもなる。
颯矢太より少し年上の拓深は、赤茶の髪を無造作に後ろで束ねている。整った顔立ちをしていて、神垣の女の子に人気があるし、女の子みんなに優しい。ただ、都波だけはいつも子供扱いだ。
拓深は笑いながら馬をなだめると、手綱を引いてさっさと行ってしまう。
「ねえ颯矢太。わたしもそのうち、外に連れて行って」
都波は弾んだ声を出した。だけど颯矢太は苦笑して、都波のくしゃくしゃの髪を整えてくれながら、いつものすげない言葉を返す。
「都波が雪人なら、いつでも連れて行ってあげるよ。ちょっと散歩して帰るくらいならね」
「いっつもそれ」
都波はまたぷぅと頬をふくらませて、拗ねて見せた。都波は雪人ではないし、散歩をしたいわけじゃない。
「ここに用で来たの? 別のとこへの伝書を持ってきた途中? しばらくいるの?」
「ここにも用だし、別のところにも用があるよ。あとは、ここに留まっているトリと相談してみないと、どれだけここにいるかはわからないな」
「なあに、それ。決まっていないの?」
久しぶりに顔を見たのに、すぐに発ってしまってはつまらない。トリは旅をするものだし、颯矢太はその役割を大事に思っているから、仕方ないけど。
神垣の門のそばには、颯矢太たちトリがとどまるための、箱のような形をした建物がある。駅舎と呼ばれる建屋の戸が大きく開いて、壮年のトリが顔を出した。騒ぎを聞きつけたのか、厳しい顔をしている。
「颯矢太、と……拓深、お前たちか」
「
壮年のトリに、颯矢太は慌てて向き直る。大駕は、颯矢太と都波を見て、すこしあきれた顔になった。拓深は馬を厩に連れて行ったきり、返事もない。
「急ぎの便ではないのか?」
「状況伝達みたいなものです。取り急ぎの便がない者は、自分の
そうか、と大駕は頷いた。
「都波の気がすんだら、中に入って報せてくれ。里長にも伝達が必要だろう」
見張り番が警告の木板を鳴らすと、神垣の皆を不安にさせるから、トリはすぐに里長に挨拶に行くことになっている。すみません、と頭を下げた颯矢太に大駕はうなづいて、駅舎に戻って行った。
「颯矢太、これ」
着せかけてくれた毛皮の外套を脱ごうとする都波を、颯矢太は止める。
「神垣の中なら俺は平気だから。都波が体を壊すと困る。後で返してくれればいいよ」
「うん、ありがとう」
都波は歩き出した颯矢太の背を追おうとして、やめた。颯矢太には役目がある。邪魔をしてはいけない。
「颯矢太」
だけどひとつだけ、まだ言っていない。
ちらほらと雪の舞う中、颯矢太は足を止めて振り返った。
その手に木の杖を持っている。数年前、颯矢太がトリになって旅立った日に贈った
それをずっと持ってくれているのが嬉しくて、魔除けの卯杖が、都波のかわりに颯矢太を守って、連れて帰ってくれたのが嬉しくて、誇らしい。
「おかえり」
誰もが、トリをねぎらって「おかえり」と言う。だけど都波は、もっとずっとたくさんの、会いたかった気持ちと、無事で良かったと言う安心をこめて、微笑んだ。
颯矢太は小さく笑う。白い息を吐いて、ゆっくりと応える。
「ただいま」
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