2話 巫女の社

 都波は外套をぎゅっと握って、颯矢太の後ろ姿を見送った。その後ろから、さくさくと雪の上を駆けてくる音がする。


「都波! 急にお社を飛びだすから、びっくりしたわ」

 振り返ると、くるくるとした大きな瞳の少女が、大きく白い息を吐いた。白い衣装を着て、肩帯をかけている。都波と同じ巫女の一人だ。手に上着を持っている。多分都波のためのものだ。


果歩かほ、ごめんね」

「外套も着ないでお社を飛び出して行くんだもの。司がびっくりして追いかけようとするから、止めるの大変だったのよ」

 都波が毛皮の外套を着ているのを見て、果歩は不思議そうに問う。

「それ、どうしたの?」

「颯矢太が、拓深と一緒に戻って来たの」


「拓深と?」

 果歩の声が上ずった。駅舎の方へ顔を向け、行きかけてやめる。

「ああ、でもトリは戻ってきたら里長のところに行くから、今行っても会えないな」

「拓深と親しかったの?」

「親しいっていうか」

 果歩は曖昧に笑う。都波は、ふうん、と首を傾けた。

「恋人なの?」


 果歩はびっくりしたようだった。顔を赤くして都波の腕を引く。声をひそめて言った。

「みんなには秘密よ」


 全然気づかなかった。拓深は、背が高くてたくましくて、すっきりとした顔立ちをしているから、女の子たちに人気がある。それは知っている。神垣の女の子に優しくて、みんなと仲がいい。


「でも都波は、ちょっとだけ安心」

「なあに、それ」

「拓深は誰にでも優しいし、あちこちの神垣に恋人がいるって、別のトリから聞いたの。この神垣の子たちだって油断ならないし」


 トリは過酷な旅をする。彼らを迎え入れる神垣の先々に、恋人や妻を持つようなトリもいるらしい、と聞いたことはある。

「でも都波は昔から、颯矢太ばっかりじゃない」

 だって。都波は心の中で答える。だって、颯矢太はみんなとは違う。

「いいから、戻ろう。司が心配してる」


 うながす果歩に、頷いて歩きだす。神垣の赤い門から伸びた道はまっすぐ集落に続き、その先を枝分かれしている。ひとつは社へ続く鎮守の森へ、もうひとつは、里長の御館みたちへ通じている。


 集落の中をいくらかも行かないうち、呼びとめる声があった。

「果歩、何かあったの?」

 藁葺きの三角屋根の家のひとつから、女性が顔を出している。大きな瞳が、果歩とよく似ている。


「お母さん! ……ごめん。都波、先に戻ってて」

 持っていた上着を都波に渡すと、果歩は慌ただしく行ってしまった。果歩の母親は、都波を見てどこかよそよそしく頭をさげる。それから、駆け寄って来た果歩に、優しい笑顔を向けた。

 母親と話している果歩をあまり見ないようにして、都波は走りだした。集落を抜けて、社を囲む山の中に、逃げるように駆け戻った。



 都波たち巫女は、池の神を祀る社に住んでいる。社は里の家とは少し違い、背の高い木造の建物だ。


 神垣では、選ばれた数人の娘が年頃になってから結婚するまで、神の社で巫女として勤める習わしだった。今は、都波のほかに三人の少女が巫女として、社に仕えている。


 かつて巫女は神に嫁いで、ずっと清い身を保つものだと言われていたけれど、今それを守るのは司と呼ばれる巫女の頭ひとりだけだ。だから果歩も今は社に住んでいるけれど、本当は両親と住まう家がある。ここは仮住まいでしかない。みんないずれ家に帰って行ってしまう。


「都波!」

 戻るや否や、老女が大きな声をあげて、駆け寄ってきた。

 穏やかな巫女の司には珍しいことだ。機織りをしていた少女たちが都波を見て、くすくすと笑う。またはじまった、という顔だった。


「板木の音を聞いて飛び出していくから、驚いたじゃないか」

 司の皺だらけの手が、都波の無事を確かめるように、頬を撫でた。

「ごめんなさい」

 都波は他の巫女と違って、生まれた時からこの社に住んでいる。ずっと育ててくれた司は親のような存在だった。司は都波には甘くて、過保護なところがある。玉垣の外に出たなんて、とても言えない。


「来訪の警音だったから、悪いものだったらと心配したよ」

「トリが戻って来ただけだよ。悪いものなんてない」

「都波」

 司は、咎めるような声を出した。 

「神垣の外は、神々の御加護の外だよ。悪いものばかりだ」

 わかっているだろう、と言い聞かせるように、念を押した。



 かつて国には八百万の神が住まい、人は神と共に生きていた。国には美しい季節が巡っていたという。都波はそんな光景を見たことがないけれど、そうだったのだ、と言われている。


 だが人は互いに争い、更に神殺しの罪を犯した。神々はいなくなり、日の神も去り、太陽は分厚い雲の後ろに姿を消してしまった。国は雪で覆われるようになった。

 これは神殺しの罰だ。そう言われている。


 ただ国のあちらこちらに、神の骸や、神器や、神を降ろした神籬ひもろぎが残された。その周囲だけ、雪と風の脅威は和らいだ。争いを生き延びた人々は、わずかに残された神の不思議の力にすがり、そこに里を築いた。

 かつて人が神々と暮らしていた頃、神の住まう社には垣根を巡らせて、神域としていたという。それを模して、玉垣と呼ばれる生垣で境界を築いて、暮らすようになった。今こうして人の住まう神垣とは、神域のことだ。

 だから神垣の人々は守られている。守られているから、外のものを恐れて、玉垣から出ない。外から来るものは、神域に穢れを運びこむと思っている。


「でも、それじゃあ、トリは? 神垣にやってくるけど、ほとんど外にいる」

 都波は強く言い返した。心配してくれているのが分かっているし、いつでも都波の味方でいてくれる司のことは大好きだ。だけど司の言葉は、颯矢太まで悪いものだと言っているように思えた。


 頬をふくらませてむくれる都波に、司は困ったような顔をした。機を織る規則正しい音の後ろで、少女たちのくすくす笑う声がする。

「雪人は特別なんだよ。彼らのことを、この国に順応した民だと言う人もいるけれどね。彼らは、日の神の加護を受けた民だとも言われているんだよ」

「神垣みたいに?」

「そう、神垣みたいに。彼らひとりひとりが、神垣のようなもの。神使しんしのようなものかも知れぬ。だから彼らは、雪の中でも凍えずにいられるし、トリになるときに、八咫烏の文様を刻む。神垣の者が道を間違えぬよう、外のことを知らせてくれる」


 三本脚の八咫烏は導きの鳥。太陽に住まうという金烏きんうだ。

 司は都波の手を取って、なだめるように優しくさすった。


「都波、そなたはこの神垣の大事な授かり子、大事な巫女姫なのだから、我がままを言わないでおくれ」

 困らせているのが分かっていたし、自分が無茶をしたのも分かっていたので、都波はうつむいてしまった。


 司に口答えをしてしまうのは、トリのことかあるからだけじゃない。見張り番や、果歩の母親のような、腫れ物に触るような態度が寂しい。司が優しすぎるのも、今はつらい。


 ――巫女姫、と呼ばれるのは、あまり好きではない。


 どの神垣にも巫女の司がいて、巫女を束ねている。

 巫女姫というのは、それとは別の尊称みたいなもので、そう呼ばれる巫女がいつもいるわけではない。

 特別に敬愛される巫女がそう呼ばれるのだと、颯矢太がいつか言っていた。だけど都波は、自分がそうではないのを分かっている。自分が皆と違うから、そう呼ばれているだけだ。


 ようやく司は、都波が着ている外套に気づいたようだった。小さく目を見開き、笑った。

「ああ、颯矢太か」

 すべて察したという顔で言う。

「あの子は、幼いころに外からやってきたのだったね」

 そう。颯矢太は他のトリとも違う。



 木の扉の外から、呼ばわる声がする。

 巫女が扉を開けると、髪と肩にうっすらと雪を積もらせて、少年が立っていた。


「司、里長が来てほしいって呼んでます」

 ああ、と司は溜息のように応えた。

 里のことは、里長と数人の大人たちが話し合って決める。神垣の皆が心の支えにする司は、里長の相談役のようなものだった。

「トリの報せのことかな」


 司はもう一度、強く都波の手を握ると、子供にするように言い聞かせた。

「暖かいものを飲んで、暖まって風邪をひかないようにしなさい」

 都波が頷くと、分厚い織布を頭からかぶり、少年と一緒に出て行ってしまった。小さな後ろ姿を見送ってから、都波は司を困らせたことを、少し後悔した。


 少女たちの目線を浴びながら、自分の織り機の前に座る。

 だけど糸玉を手にとる気持ちになれない。颯矢太が着せてくれた毛皮の襟に触れてみた。風雪にさらされた毛皮は、柔らかくはないけれど、暖かい。


 都波は勢いよく立ち上がる。そのまま大股に部屋を出て、社の外に飛び出した。今度は誰も都波を呼びとめなかった。

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