3話 幼なじみ

 池野辺いけのべの神垣は、大池を祀っている。


 水底で眠る神は蛇神だと言うが、それを見た人はいない。

 でもその蛇神の力で神垣は吹雪から守られている。大池から北へ、巫女の社がある山がそびえ、さらに集落がある。南の方へは田畑が広がる。そのまわりをぐるりと玉垣が取り囲み、神垣となっていた。


 大池は御神体そのものだが、里の人間にとっては生活の源でもあった。

 そのため、水を汲む足場として、敷石を置いた場所がいくつかある。集落のそば、田畑のそば。そして山の中、巫女たちが禊へ通う道のところ。


 森の敷石の近くには、ひときわ大きな椿の木があった。緑の葉を輝かせて、静かにそこにある

 都波は薄く積もった雪を手で払って、木の下に座り込んだ。ここに集落の人は来ないし、巫女も朝の禊の他にやってくることはない。


 冴えた空気の中、ただ静か雪が降っている。どんよりとした雲の向こうで日が沈んで、辺りが暗くなってきた。


 都波が膝を抱えて座っていると、人が来ないはずなのに、サクサクと歩く音が聞こえてきた。赤茶色の髪の少年が歩いてくる。毛織物の衣を着ただけなのに、少しも寒そうではない。


「全然変わらないな、都波は。気がつくといつもここに隠れてた」

 椿の下の都波を見つけて、颯矢太は笑った。

「寂しがりのくせに、ひとりになりたがる」

 果歩やみんなは集落に家があって、いつか帰ってしまう。生涯巫女として仕える司だって血縁がいる。都波だけがひとりぼっちだ。


「颯矢太がいてくれたら寂しくないもん。里長とお話は終わったの?」

「ああ、あとは司と相談があるって言うから、出てきた」

 ふと思い出して、都波はあわてて毛皮の外套を脱ごうとした。

「これ、返さないと」

「いま脱いだら寒いだろう。俺が池野辺を出る時までに返してくれればいいよ」

 笑いながら颯矢太は、都波の横に腰を下ろした。触れそうで触れない肩から、あたたかい体温が伝わってくる。

「池野辺に来たら都波に旅の話をする習慣になってたから、都波がいないと物足りなくて探してた。俺が運んできた報せを、都波に話したかったんだ」


 小さい頃はよく、こうして肩を並べて話をした。鎮守の森で、大池で一緒に遊んだ。


 颯矢太は幼い頃、トリに連られて池野辺にやってきた。自分がどこの神垣で生まれたのか、覚えていないと言っていた。

 トリは、トリ同士で子をなすか、訪れた神垣の人と子供をなす。

 神垣の娘はトリと夫婦になると、駅舎に移り住むのがほとんどだった。生まれた雪人の子供は駅舎で育てられて、いずれトリになる。


 颯矢太の父親のトリは、颯矢太が七歳の時に旅の途中で死んでしまった。神垣の娘だった颯矢太の母は、悲しみのあまりに体を壊して、そのまま儚くなったという。

 両親を亡くして、誰とも話さなくなった颯矢太を心配して、父親と親しかったトリが、その神垣を連れだした。今日颯矢太を出迎えた大駕だ。


 神垣は、玉垣がくるりと取り囲んで守っている。だけど、みんなの心も閉じ込めているようだった。

 その内側にずっといると、目の前で起きたことから、逃げられないような気持ちにさせる。だから連れだしたんだ、と大駕は言っていた。


 大駕が池野辺に颯矢太を連れて来たのは、都波がいたから。

 都波も、自分の親を知らない。同じ、親なしの子供だった。


 颯矢太がトリになってから、会えることが少なくなって、寂しかった。だけど神垣にいる間は、都波がつきまとっても構ってくれるし、旅の話をたくさん聞かせてくれるから、それはとても嬉しい。


「いいの? トリが運ぶ言伝ことづては、誰にも言っちゃいけないって言ってたのに」

 トリは託されたものを、勝手に別の人間に渡したりしない。神垣そのものへの伝言は里長にしか伝えない。トリの間では話を共有するけれど、決して、神垣の秩序を乱すような事はしない。どんなに小さな人の集まりでも、政治や権力からは、切り離された存在でいることが彼らの信念だった。

「本当は駄目なんだけど、特別。里長か司がみんなに話すまで、誰にも言ったら駄目だぞ」

「うん」

 ふたりだけの秘め事のようで、なんだか嬉しい。沈んでいた気持ちが、明るくなる。



 颯矢太は小さく笑うと、暗い池に雪が落ちるのを見ながら、話しだした。

「前に話した珠纒たまきという名前の神垣は覚えてるか? ここからもっと東の方にある、大きな神垣だ」

「うん。昔の争いで滅んだ都の跡に、人が集まって作られた神垣だって」

 俺も行ってみたことはないけどね、と颯矢太は頷く。


「昔は神々の住まう珠城たまき王宮みやがあったらしい。それが全部、昔の争いで焼かれたって聞いてる。でも、そこに一つだけ残ったものがある。桜の木だ」

「――桜?」

「都が焼かれた時、雪の中に咲いて、それから二度と花も葉もつけなくなったそうだよ。『つる桜』と呼ばれている、珠纒の御神体だ。本当は凍りついてなんかないけど、咲かないんだ。枯れていないのに、花も葉もつけない」


 生きているのに咲かない桜。それはとても悲しい不思議だけれど、確かに神の残り香のひとつなのかもしれない。


「神々がいたころは、花信風かしんふうの女神が、神力でその桜を咲かせて、春を知らせていたそうだよ。争いで女神が去ってから、咲かなくなったそうだ」

 花信風は、花が咲くのを伝える風。春が来ることを伝える風のことだ。

 春を告げる女神が、神力で花を咲かせる。それはどんなにきれいで、喜ばしい光景だろう。


「それに、いまの珠纒を守る玉垣は、桜の木なんだそうだ。桜の木がぐるりと取り囲んでる。その桜の木が、つい先頃、いっせいに咲き乱れたそうだよ。春を迎える前に」


 桜はどの神垣にもあると、前に颯矢太は言っていた。里長の館に、鎮守の森に。池野辺の神垣にも桜はある。

 サの音は早苗、稲田の神霊に通ずる。クラは御座みくらのこと。稲田の神霊の座する花、と言われている。


 桜がたくさん咲けば、その年は実りが多いはず。みんながそう願って、ささやかな花の数を占うように見る。桜は実りの豊かさを祈る花だった。


 国中を重い雲が覆っているけれど、神垣の中は少しだけ雪の途切れる時期がある。

 人々は痩せた田畑でささやかな実りを得る。外ほど雪も風もないけれど、日の光の恵みがないのに変わりはない。だから、そういった花へかける思いは、どの神垣でも、誰もが強く抱いている。


「枝に雲が下りたかのような、見事な咲きぶりだったそうだよ。雪と一緒に花びらを舞わせていたって」

 颯矢太はそう言うけれど、想像もつかなかった。

 花が枝いっぱいに咲いた姿なんて見たことがない。それよりも、雪をかぶっている姿ばかり思い浮かぶ。

「都波が生まれた時にも、ここの椿がいっせいに咲いたって聞いたのを思い出したんだ」

 だから都波に話したくて、と颯矢太は笑った。


 この池野辺の椿は神籬ひもろぎだった。神を降ろす依り代だ。

 生まれた日、と颯矢太は言ったけれど、本当は「見つかった日」だ。都波は、この椿の下で泣いているところを、司が見つけた。


 神垣では、子供はとても大切にされる。

 過酷な国に生まれてきて、大人になることができる子供は、決して多くなかったから。夫婦の子としてだけではなく、神垣の子として、大切にされる。授かりものとして、神垣の先を担う者として。

 何より閉ざされたこの場所で、誰が身ごもり、誰が捨てたかを隠すなんて難しい。もし産むことが難しくても、必ず誰かが助けた。それすら拒む事情があるならば、死産として子を里の外に捨てるだろう。


 都波を捨てた人間は、ついに見つからなかった。

 トリがこっそり運んで来てそこに置いたのではと疑われたが、そんなことをする理由がない。


 ただその日、椿が鮮やかに咲いていたのだと、司は誇らしげに言う。司ですら見たことがないくらいに、咲き乱れたのだと。

 司は、都波を椿の授かり子だと言う。神が下された希望のぞみなのだと。巫女姫として扱われるのはそのためだ。


「あのね、今年わたし十五になったの」

 うん、と颯矢太はただ頷く。知っているよ、と言うように。

「新しい年があけて、わたしが見つかったのと同じ日に、神垣の椿がたくさん咲いたの。山の椿も、玉垣の椿も、全部ぜんぶいっせいに咲いたの。珠纒の桜がどれくらい咲いたのかわからないけど、たぶんそれと同じくらい」


 普段はやはり、御神木でも、神垣の垣根であっても、花が咲き乱れることはない。

 それなのに、白い雪の中、いっせいに咲いた。

 緑の葉が鮮やかに照り、赤い花が煌々と灯るようだった。


 珠纒の桜よりも先に、ここの椿が咲き乱れた。それから二ヶ月ふたつき。花はすっかり落ちて、山も玉垣も、静かに葉を揺らすだけだ。


「わたしが見つかった時とおなじだって、司が言ってた。すごくきれいだったの。目が覚めて、雪の中に咲いた椿を見た時は、びっくりして、嬉しかった」

 都波にとって、変わらない日々の中にまぎれこんだ不思議は、楽しいものだった。

 だけど、みんなにとっては少し違う。


 颯矢太は、驚いたように目を瞬いた。

「知らなかった。見たかったなあ」

 声に残念そうな響きがある。都波はそれが少し嬉しかった。

「里長は隠してるの。外に知られないように、トリに口止めしたの。どうしてかな。悪いことなのかな」


 どうして、珠纒のように外に伝えないのだろう。

「花が咲くことに、悪いことなんてない。花の後には実りがあるんだから。司はなんて言ってたんだ?」

「瑞兆だって喜んでた」

 ほら、と颯矢太は笑う。

「珠纒のことも、桜が咲くにはまだ早いけれど、花が咲く事で悪いことはないと皆が言っていた。でも、何らかの予兆かもしれないから、注意して見ておくようにと。神喰かみくらの動きが近頃活発なのもあって、俺たちが伝達にまわってるんだ」


 桜は春を告げるものだ。年が明けてふたつき、暖かくなるにはまだ早い。ただ喜ぶには違和感が残る。


 それに見放された国で生きる人々が戦っているのは、厳しい自然だけではない。

 昔から変わらず、人は人を恐れ、怯えながら生きている。

 神垣は神喰と呼ばれる盗賊集団の標的となっていた。彼らは神の力を嫌っている。神垣を襲って食料を奪い、御霊代みたましろを破壊していく。


「わたし、珠纒の桜を見てみたいな」

 暗い空を見上げながら、都波はつぶやいた。

 雲の向こうに月明かりがぼんやりと見えていた。ひらひらと雪がおりてくる。珠纒の桜の花びらは、神垣の雪よりもたくさん降ったのだろうか。

 都波が生まれた時と、ついふたつき前と同じような不思議が起きたと言うのなら、見てみたい。


 かつてこの国では、神は万物に宿ると言われていた。

 太陽に、土地に、風に、神がいた。言葉にすら魂が宿った。豊葦原の瑞穂の国と呼ばれるほどに、神々の祝福いわいで、人は満ちていたはずだった。

 人々はその豊かさを、自分達の功績と考えるようになった。独占しようと争い、略奪し、まつろわぬ者たちを虐げた。人を戒めた神々をも疎み、人も神も殺した。

 国中は戦に焼け、神々の祝福も失って、太陽は分厚い雲の向こうに隠れた。すべてを雪が覆うようになった。そう言われている。


 花の祝いも、実りも、失われてしまった。

 誰も、昔語りに聞かされるような、花の咲き乱れる野山を知らない。

 雪が溶け、暖かな日が差して、寒さに縮こまった体を解いてくれる、祝福の春を知らない。

 ――誰も本当の春を知らない。夏を知らない。秋を知らない。ただ冬の寒さだけを知っている。

 ここは神無き国。自ら神を捨て、神を殺し、罰を与えられた国。そう言われている。


 そんな国に、桜が、椿が咲き乱れる不思議。何を告げようとしているのか、何が起きようとしているのか、知りたい。


「外に行ってみたい。本当に外は良くないものばかりで、恐ろしいところなのか、知りたい」

 司は、我儘を言わないでおくれと言っていた。いつも都波の気持ちが外へ向いていることなど、お見通しだ。

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