4話 犬と少女

 板木を鳴らす音がする。ゆっくりと三度鳴らして、一息。それから三度。皆を呼び集める音だ。こんな時刻に呼び出しなど珍しい。

「司との話し合いが終わったのかな」

 都波は颯矢太と顔を見合せた。巫女の司は、神垣を守る神の代弁として、里長の相談役のようなものだった。


 門前に駆けつけると、神垣の人々が集まっていた。

 すぐには家を離れられない人を除いて、二、三十人ほど。都波も颯矢太と一緒に、人々の一番後ろに立った。


 皆の前に立つ池野辺の神垣の里長は、白髪と白髭の老人だった。里長のそばには、壮年の男が立っている。里長の息子だ。神垣の長は、ずっと里長の子が継ぐならわしだった。

 司の姿はない。社に戻ったのだろうか。


「珠纒の神垣から、報せがあった」

 里長は、皆を動揺させないよう、静かに語る。

「近頃、神喰かみくらの動きが活発だと。トリの連絡によると、いくつか垣離えんりの里が消えているらしい。山津見やまつみの神垣は、神喰に襲われたそうだ」


 ざわめきが広がる。いい報せではなかった。

 神垣とは別に、厳しい自然と共に暮らす人たちの里を垣離と呼ぶ。そういった里も、神喰たちは容赦なく襲った。

「皆、なるべく外への警戒を怠らないよう。今まで以上にいましめよとの伝令だ」

 里長はそう締めくくった。珠纒の桜の話も伝わっているはずだ。それなのに、里長は桜のことを言わなかった。

 神垣の皆がひそひそと語りあうのを横目に、颯矢太を見上げる。颯矢太も疑問を浮かべた目で、都波を見た。


 その時、獣の遠吠えが聞こえた。

 神垣の中からではない。皆が思わずのように顔を見合わせて、門の方を見る。犬か、狼だろうか。思いのほか近い。


 見張り番が少し遅れて、慌てたように板木を鳴らした。去ろうとした里長が足を止める。都波は人の波をかいくぐって、門の方へ駆けだした。

「都波!」

 慌てて颯矢太が追ってくる。

 だけど今回ばかりは、都波も門を飛び出したりしない。門を遠巻きにざわついている人たちの前に出て、足を止めた。


 門から外を見る。積もった雪は明るくて、その分、空はいっそう暗い。その中に人影が見えた。

 こんな時刻にトリがやってくるとは思えない。

 それでも、もしトリだったとしたら、普通の状況じゃない。里長の報せを聞いたばかりで、皆が戸惑って、ざわめいた。そうしている間にも、犬の声が近付いてくる。

 颯矢太は門の外に出ようとして、都波を見てためらったようだった。


 その直後、駅舎の扉をあけて、毛皮を着込んだ拓深が姿を見せた。杖もない軽装で、するすると人の輪を出て門へ向かう。

「拓深!」

 ひときわ高い声が、彼を呼んだ。都波が顔を向けると、人垣の中に果歩の姿が見えた。不安そうに自分の手を握って拓深を見ている。


 拓深は束の間足を止めて振り返ると、にこりと笑った。心配ないと言うように。

 そして都波と颯矢太の横をするりと通り過ぎた。颯矢太が慌てて声をあげる。

「拓深さん! 俺も行きます!」

 拓深はその声に、今度は唇を片方だけあげて笑う。からかうように。まわりの動揺なんて、まったく気にしていない。

「お前は都波を見張っとけ」

 軽い足取りで、さっさと門を抜けた。



 拓深が戻ってくるのに、大した時はかからなかった。

 都波は安堵の溜息をついたが、周囲で困惑の声があがる。門をくぐった拓深は髪と肩に薄く雪をまとわらせて、大きな犬を連れていた。担いでいたものを地面に置く。


「無茶しないでください」

 駆け寄った颯矢太の言葉に、心外そうに拓深が言う。

「俺を都波と一緒にするな」

 都波は拓深の言葉なんかとりあわなかった。うっすらとつもった雪の上に横たわる人を見て、息をのんだ。


「女の子だ」

 拓深が担いできたのは、都波と同じ年頃の少女だった。

 弓を背負い、毛皮をまとっている。黒々とした髪が毛皮の頭巾からのぞいている。血の気が引いて、ひどい顔色をしていた。身じろぎ一つしない。

「生きているんですか」

 颯矢太の問いかけに、拓深は大したことではないように応えた。

「たぶんな。立ったままで気を失っていたが」


 都波が少女のそばに膝をつくと、犬が威嚇して吠えた。飛びかかってきそうな勢いに、都波は尻餅をついた。

「都波、危ない」

 颯矢太が慌てて犬を抑えようとしたが、都波はそれを止める。

「平気、びっくりしただけ。……もう大丈夫だよ。落ち着いて」

 そっと声をかけながら、犬の下に手を出した。


 犬はまだ顔に皺を寄せて唸っていたが、都波の匂いを嗅ぎ、不思議そうに顔を上げる。だんだんと唸るのをやめた。不思議と昔から、動物は都波になついた。犬の頭を撫でて、落ち着かせる。

 それから、少女の肩を揺さぶった。再び犬が吠え出す。主へ呼びかけるように。けれど、目を覚まさない。


 少女は毛皮の下に、神垣の人たちのような織り物ではなくて、革の衣服を着ている。

 髪は黒くて、雪人には見えない。

 なのに、どうして雪の中、こんな時間に外にいたのだろう。


 颯矢太が都波の隣に屈みこんで、少女を抱えあげた。

「駅舎に運びます」

 納得ずくの顔で拓深がうなづいた。

 同時に、おい、と、遠巻きにしていた人の輪の中から声が上がる。

「里長、いいのですか!」

 黙って見守っていた里長に、誰かが訴えかけた。


 警告がもたらされたのと時を同じくして、外から人が紛れ込んできた。不安と動揺が、皆の間に広がっていくのが分かった。

 みんな、神垣の外は穢れだと思っている。外から来るものは、悪いものを運んでくると思っている。感情の渦が、目に見えるかのようだった。

 里長は、白い眉を動かすことなく、静かに言った。

「トリが連れ帰ったものを、外に追い出すことは出来ぬ」

 白い吐息が、雪明かりに流れていく。

「見張りを増やす。門と、玉垣の四方に、二人ずつ。石笛を忘れずに持つように」




「颯矢太」

 駅舎の前で颯矢太に追いつき、拓深は声を潜めて言った。

「暗くてよく見えなかったが、外に何かいる」

「獣ではないんですか?」

「そういう気配じゃなかった。俺は念のため里長に伝えておく。駅舎に戻って、皆に伝えろ。いつでも外に出られる準備をしておけ」


 都波は驚いて声を上げる。

「何がいるの?」

 振り返って、拓深は少し驚いた顔をしてから、あきれたように都波を見る。都波がそこにいるのに気づいていなかったようだった。

「お前はほんとに、颯矢太の後ろばかりくっついて歩いて。司が心配するだろう、もう社に帰れ」


 邪険にされて、都波は頬をふくらませた。その都波の頭をくしゃくしゃと撫でて、拓深は言う。

「騒ぎになると面倒だ。勝手に言って回るなよ」

 そんなことしない、と唇を尖らせる。

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