3話 謀略
都波は唇を噛みしめて、凍つる桜を見上げる。
ごつごつとした太い幹は、椿とは違う。ずっしりとした存在感があった。
ひとつ大きく息をついて、ざわつく気持ちを落ち着ける。雪に手をついて立ち上がった。それからもう一度、大きく息をする。
咲いてほしいという気持ちと、こんなことをしてはいけないという気持ちがせめぎ合う。でも桜を咲かせないと、颯矢太が何をされるかわからない。
震える指で、そっと幹に触れた。ひやりとして堅い。だけど、生きている。
手のひらのうちに、深い沈黙がある。拒絶とは違う。
眠っているのとも違う。もちろん、凍りついているわけではない。
頑固な桜は、ただただ黙っている。
――なぜあなたは咲かないの。
咲いてほしいと懇願したかった。でも神意は人の勝手で動くものじゃない。火無群の神垣では、神のご遺志が応えてくれたけれど、この桜は違う。咲いてほしいと懇願しても、何も変わらないだろう。
この桜は神垣を守りながら、たただただ待っている。それはとても孤独なようだけれど、この桜にとっては違うようだった。
そのときが来るのは確かなことで、だからいつでも迎えられるように待っている。
花を咲かせる女神が現れるのを、ずっと待っている。
それは、都波ではない。
――まだ、咲かない。
静かに風が流れていく。桜は花をつけず、葉をもたない凍つる桜は、葉鳴りの音さえ響かせなかった。
「やはり、違ったか」
里長の声には、落胆があった。
「咲織の姫が姿を見せず、神垣の皆が不安に思っている。その隙にこの桜を咲かせられると喧伝してくるとは、出来すぎた話だ」
唐突な里長の言葉に、都波は驚き振り返る。
「そんなこと言ってない」
「しかし、この桜に触れた」
それは、里長が強要したから。
「咲織の姫を返すがいい。お前たちがどこかへ連れ去ったのだろう。」
里長自信が、巫女姫は潔斎のさなかだと言ったのに。返せとはどういうことだ。それに来たばかりで、都波たちが何かできるわけもない。
「巫女姫は神垣にいらっしゃらないのですか?」
それならなぜ、最初から言わないのか。
兵に押さえつけられたまま、颯矢太が声を上げる。
「どうして椿の話を知っているんだ。その話は、池野辺の里長が広めるのを嫌ったと聞いている」
珠纒の桜のようには、外へ伝えることを選ばなかった。
都波が生まれたときの椿の話も、ふたつき前に咲いた椿の話も。そして今回も。火無群の神垣のことも。
トリは神垣の者の許しなしに、話を伝搬はしない。自分たちの間で共有はしても、勝手に広めたりはしない。その責を負えないからだ。
だから、都波のおこした不思議を知っているとすれば、トリか。
あるいは。
「――神喰なのか」
颯矢太のつぶやきに、都波はもう一度里長を見る。まさか神垣の里長が、そんなわけはない。顔に紋様もない。だけど。
珠纒の里長は、若く、自信に満ちていた。年老いて、だけどもしっかりと根差した木のような、池野辺の里長とは違う。
若いからこそ、高慢だった。それはどこか、神喰と似ている。自分たちの考えを押し付ける傲慢さが。
「無礼な!」
里長は怒鳴り、そしてなぜか、笑った。唇の端を釣り上げて、楽しげに。
「ああ、だが、そうだな。巫女姫が神垣を出て、遠くこんなところまでやってくるものではないな。そのトリが巫女姫をそそのかしたんだろう。珠纒を混乱に陥れるために」
「違う。神垣を出たのはわたしの意志で、巫女姫のことは何も知らない!」
颯矢太を陥れるような言葉に、都波は叫んだ。
それと同時、颯矢太は兵の拘束を振りほどく。鞘ごと腰から抜いた短刀で、兵の脛を殴りつけた。兵が悲鳴を上げ怯んだ隙に立ち上がり、駆けてくる。都波は結界の中を駆けて、里長から離れた。
「都波、早くこっちに」
颯矢太は無事な手を都波の腰に伸ばして、抱きあげようとした。結界の中から連れだすために。その隙にも、兵が駆けてくる。
だめだ、この結界の縄が邪魔で、都波が外に出る前に捕まってしまう。
「颯矢太逃げて!」
横から駆けてきた別の兵が、槍の柄で颯矢太の頭を殴りつけた。鈍い音がして、こめかみから血が滴り落ちる。
「颯矢太!」
それでも颯矢太はその場にとどまって、都波に手を伸ばした。
「都波、早く」
「いいから逃げて!」
颯矢太だけなら振り切って逃げられるはずだった。神喰にだって吹雪にだって、立ち向かえる強さがあるんだから。
けれど都波の願いも虚しく、兵が再び颯矢太の脇腹を打ちつける。颯矢太は薄く積もった雪の上に突き倒された。
「やめて!」
悲鳴を上げて、都波は結界の縄をくぐろうとした。その眼前に、里長が立ちはだかる。
都波を見下ろして笑う男の姿は威圧的だった。二人の間に縄の結界があっても、普段ならば恐ろしいと思ったかもしれない。
けれど兵が颯矢太を無理矢理立たせて、どこかへ連れていこうとしているのが、都波を急きたてた。里長を押しのけ、叫ぶ。
「やめて、颯矢太をどこに連れていくの!?」
血が、次々に地面の雪に落ちる。颯矢太は、都波を元気づけようとするかのように、笑った。
「都波、俺は大丈夫だ」
――――うそ。
どう見たって、嘘だ。だけどそれを否定するのが怖い。
「逃げろ」
そう言ったのが最後。再び兵が颯矢太を殴りつける。颯矢太は意識を失って、ひきずるように連れて行かれてしまった。
都波の手が力無く落ちる。
神域を守る結界は、まるで都波を閉じ込める戒めのようだった。
「折よく外から人がやってきたものだ。しかも、外の神垣の巫女姫とは」
里長は満足げに言った。その場違いな声に、都波は里長の顔を見る。不気味なほど、里長は笑っていた。
「凍つる桜を咲かせてくれれば良かったのだが仕方ない。不思議を起こした巫女姫は、使い道がある。それが本当でなくてもな」
なんのこと。何を言っているのだろう。
「颯矢太をどうするの!」
「知りすぎたトリは邪魔だ」
淡々とした声が、恐ろしかった。
それなら、どうするというの。問いたいのに、震えて声が出ない。里長の優しくなだめるような声が、上から降ってくる。
「神垣の中での殺生は穢れだ。殺しはしない」
「わたしたち、ここの巫女姫のこと、何も知らない」
「そんなことはわかっている」
平然と言う。里長のしようとしていることが、全然分からなかった。
「それなら、どうして」
驚きと絶望に、息が苦しい。
ようやく珠纒へ来て、大きな神垣の家々を見て、高揚と不安でいっぱいだった気持ちがどこかに消え失せた。慣れない旅を支えていた希望が、折れてしまった。
桜は咲いていない。巫女姫もいない。珠纒は何かがおかしい。
篝野の言うことを聞くべきだったのだろうか。でも、ここに来なければ、何も納得なんかできなかった。
「どうして、人を陥れて、傷つけるの」
こんなのおかしい。
強い怒りが、都波の中にわき上がっていた。体中を黒い感情が渦巻いて、息が乱れた。頭が痛い。体が重い。
どうして、人を傷つけて、苦しめて平気でいられるのか。
ふさわしくない。神々の住まう国に生きるのには。だから、閉じ込められたのだ。雪の中に。白い、空白の中に。
やっぱりこの国を覆う雪は、罰だ。人はどうしても繰り返す。
「颯矢太……」
涙がにじむ。体が震えて、思うように動かない。
都波はその中に、うずくまるようにして倒れ込んでいた。
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