5話 もうひとりの巫女姫
駅舎に入るといつも安堵に包まれたけれど、今日はいつもにも増してホッとした。扉の閉まる音と同時に、緊張の糸が切れてしまって、膝から崩れ落ちる。
颯矢太が慌てて隣にかがみこんだ。
「都波、どこか痛むのか」
「平気。ちょっと、びっくりしただけ……」
都波は座り込んだまま、布でぐるぐるに巻かれた颯矢太の腕を見た。あんな状態で、一体どれだけ都波を運んでくれたんだろう。
「颯矢太、早く手当てをしないと……」
「そんなに気にすることない。大した怪我じゃないし、これくらいよくあるから」
まただ。仮駅をはじめてみたときと同じような――もっと悲しい気持ちになった。
颯矢太は、池野辺に帰ってくると、旅の間にあったことをたくさん聞かせてくれたけれど、旅の過酷さを都波に話したことがない。
弱音を吐かない颯矢太の性分で、都波を心配させたくないからだ。でもやっぱり、悲しい。そういうことも聞かせて、心配せてほしかった。
「何かあったのか?」
間近に別のトリが立っていて、都波は驚いた。
外の騒ぎを聞きつけて、様子を見に行こうとしていたのだろうか。篝野が最初に都波を見たときのように、まじまじと都波を見ながら答える。
「トリだ。池野辺の神垣の巫女姫を運んでる」
都波の横に立つ篝野の言葉に、もう一人のトリは、不思議そうな顔をした。
「
その言葉に、都波は瞳を瞬いた。
――珠纒の巫女姫。はじめて聞いた言葉だった。
「珠纒に、巫女姫がいらっしゃるの?」
身を乗り出した都波に、トリは驚いた顔をした。
「知らないのか。若いが、珠纒の里長からも民からも信の厚い、立派な巫女姫だ。
十五年前。都波が見つかった年。池野辺の椿がいっせいに咲いたのと同じ年だ。
椿は春を先触れ、桜は実りをもたらす。蛇神はそう言っていた。
――珠纒でも、何かが起きているはずだと思っていた。だけどそれは、きっとそうだろうと思っていただけで、確信ではなかった。
まさか、同じ身の上の子がいるなんて。
「わたし、その人に会ってみたい」
高揚する都波の言葉を継いで、颯矢太が言う。
「この間も、珠纒で桜がいっせいに咲いたと伝達があった。俺たちはそれを見に来たんだ」
颯矢太の言葉に、トリはうなづく。
「ああ、珠纒の巫女姫が生まれた時と同じだ。
「凍つる桜は、滅びの日に咲いて花を散らせたあと、二度と咲かなくなったと聞いたわ。珠纒を守る御神体だって」
「そうだ。かつて神々が地上にいた頃、春を告げる花信風の女神が、その神力でいつも咲かせてきた花だ。大戦の後に女神が去ってから、咲かなくなった。神垣の桜とは別物だ。凍つる桜はずっと女神を待っているんだと、神垣の人は思っている」
「女神が戻ってくるの?」
ここは、神々が去った国だ。人が神を追い出し、そのために見捨てられた国だ。ずっとそう思っていた。
去った神が戻ってくるのを待っている神垣の話など、はじめて聞いた。
「ああ、珠纒の人はそう信じている。花信風の女神には恋人の男神がいたそうだ。ともに人に生まれ直して再会するのを約束して、この国を去ったそうだ。神垣の娘が好きな恋物語だよ」
本当かどうか知らないが、とトリは笑った。
「珠纒にはトリにならなかった雪人が多くいるんだ。その雪人が、巫女姫を守って、神垣の外の宮に行くのを助けてる」
「神垣の巫女姫が、神垣の外に出るの?」
「珠纒はもともと都だった。都のはずれには、神々を祀る多くの宮があったらしい。そういうところに、巫女姫は禊に出かけたり、実りの願いをする。それに珠纒は大きな神垣だから、珠纒を頼りに垣離の者や、神垣を失った者が来ることが多い。そういう人たちを巫女姫が庇護しているおかげで、みな追い出されずにすんでる」
外に出ることを恐れず、外から来た者を守るという、巫女姫。
何もかも、聞いたことのないことばかりだ。
それに珠纒が垣離の人を受け入れてくれるのなら、満秀のことも受け入れてくれるかもしれない。巫女姫に会えれば。
篝野は、都波の前にしゃがみこんだ。膝に頬杖をつくようにして、都波を見ている。
「池野辺は大変だっそうだな。先ごろ来たトリに聞いた。そんな時に、神垣の巫女姫が、神垣を遠く離れるものなのか?」
「椿が咲いて、桜が咲くのは前触れだって言われたの。わたし、桜を見たい。いっせいに咲いたって言う、珠纒の玉垣を。珠纒に行けば、きっと、池野辺を救う手立ても見つかる」
「桜は長く咲かない。もう散ってしまったと思うが」
言われて、都波は目をぱちくりとさせた。そうだ、花はそう長く咲かない。
池野辺にも桜はあるし、いつも儚く咲いては散ってしまう。言われなくても知っていたはずなのに。どうしてそれに思い至らなかったのだろう。
気勢をそがれて、都波は肩を落とした。
でも、もう一人のトリの言う通りなら、珠纒には巫女姫がいる。
「巫女姫にお会いしたら、何か分かるかもしれない」
都波と同じように、不思議を背負って生まれた巫女姫。もし何も変わらなかったとしても、会いたい。
「わたしたちを珠纒まで連れて行ってくれる人を探しているの。あなた、珠纒に詳しいんでしょう?」
顔をあげて言う都波に、篝野は眉をしかめた。
「俺は珠纒には行けない」
「……どうして?」
「あんたたちも、珠纒には行かない方がいい」
「どうして!?」
思わず大きな声が出た。篝野は眉をしかめる。
「悪いが、よく知らない相手に教えることはできない。例えトリにでもだ」
言ったきり難しい顔で口を閉ざした。その意志は堅く、何を言っても錠が開くことはなさそうだった。
「まずはここの里長に顔を見せに行け。そろそろ行かないと、誰かが駅舎の戸を叩きに来るぞ」
都波は慌てて立ち上がった。
「でも、颯矢太の手当てをしないと」
「そうだな、巫女姫を誰かに託して、お前は傷の手当てをしたらどうだ」
篝野も立ちあがる。けれど颯矢太は頑として言った。
「このくらい問題ない」
「手当してもらって。わたし行ってくる」
「だめだ、それなら都波が休んでて。俺が行く」
「わたしは怪我してない。颯矢太はわたしを運んで疲れてるし、手当てをしないと!」
都波は頬をふくらませて、颯矢太を睨みつけた。
本当は、知らない神垣の会ったこともない里長に、一人で挨拶に行って事情を話すなんて、不安で仕方ない。見張り番の態度を考えると怖い。
でも、颯矢太は怪我をして疲れている。
「駅舎にならともかく、知らない場所で都波を一人にするわけにいかない」
颯矢太は譲らない。以前大駕が、颯矢太は決めたら折れないと言った通りだ。篝野が大げさにため息をついた。
「面倒な奴らだ。つきあってやるから、二人で来い」
駅舎から出ると、曇天は暗さを増していた。雲の向こうで日が沈んでいる。
地面や家々の屋根に積もった雪がほの白く光り、里の建物が浮き上がるようだ。集落の向こうには、池野辺と同じように雪をかぶった鎮守の森がある。
この道の向こうに、里長の館が、森の奥には巫女の社があるはずだった。
さっき様子を伺いに来ていた里の人々の姿はなくなっている。だけど、普通なら皆眠りにつく時間だというのに、ところどころから明かりが漏れている。
藁屋根の家々には、分厚い織布が扉のかわりに下がっていて、その隙間から、外をうかがう人々の目を感じた。
外のものへの目は、どの神垣も一緒だ。容赦ない視線は、居心地が悪くて心細い。
本当は休んでいてもらいたかったけど、颯矢太が一緒に来てくれて良かった、と思ってしまった。
里長の館へ続く道は、やはりこの神垣も同じだった。
集落の中を通る大きな道が、神垣の奥に伸びている。この奥に、里長の館と巫女の社があるはずだった。
「あんたは、どうして巫女姫なんだ?」
篝野が先を歩きながら言う。
「珠纒のことを教えてくれないくせに、わたしのことは知りたがるの?」
「巫女姫が珍しいんだ」
咲織の姫以外の、と篝野はつぶやいた。
都波は颯矢太と顔を見合わせる。
都波の生まれのことは池野辺の里長が秘密にした話だから、軽々しく人には言えない。だけど都波自身のことだし、篝野はトリだ。
颯矢太がうなづいたので、都波は声を落として言った。
「わたしが生まれた日に、神垣の椿がいっせいに咲いたと司が言っていた。玉垣の椿も、神垣の内側のも、全部」
「花の祝いのもとに生まれた巫女姫か。そういう巫女姫が、咲織の姫のほかにいるとは知らなかった」
篝野が足を止めて、振り返る。もう何度目か、都波を探るように見た。颯矢太が都波をかばうように前に出る。
「里長が外に広めないよう、トリに釘をさしたからだ。……本当は、駅舎の外で言う話じゃない」
そうか、と篝野はうなづく。
「神垣のために、神垣を出る巫女姫なんて、咲織の姫の他に初めて聞いた」
「あなたは、珠纒の巫女姫を知っているの?」
篝野はくるりと背を向けて、再び歩き出した。
「……ああ、よく知ってる」
その声はどこか暗い。
冴えた空気が、ざわりと動くのを感じた。薄く積もった雪の上を通って、頬を撫でた。
「都波?」
颯矢太が振り返る。そして、ハッとした様子で、遠くに目をやった。
「外に明かりが見える」
都波にはわからない。だけど颯矢太は雪人だ。夜目がきく。
篝野が弾かれたように走り出した。来た道を戻っていく。
「見張りは何やってる。外に何かいるぞ!」
怒鳴り声に、家々から里の人たちが出てくる。少し遅れて、けたたましく板木の音がした。
ざわざわと心が震える。嫌な記憶を呼び起こす。ひょう、と空気を裂く音がした。火矢を放たれた藁ぶきの家が、火を吹き上げる。
神垣の中から悲鳴が、外から怒号が響き渡った。夜の静けさがかき消され、炎と憎悪が、神垣に襲いかかった。
間違いない。――神喰だ。
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