7話 火の神の里

 巫女の社の、そのさらに奥。

 森に埋もれるようにして、子供の背丈ほどの小さな石の祠がある。

 薄く雪の積もる森の中、祠とそのまわりは、きれいに掃き清められていた。巫女たちや神垣の人たちが、この御神体をいかに大切に扱っているかがわかる。


「逸話がございます。神々がおわした頃、このあたりには、火の神に仕えていた一族がいたそうです」

 石の祠の扉は思ったよりも軽いようで、司が開くと、中は人の腕ほどの広さの空洞があった。

 その中に、ひっそりと置かれた石がある。


「動乱の起こる前、凍える人の子を憐れんで、火の神が下されたものだとか。一度打ち鳴らせば、たちまちに炎が盛り、人を温め、明かりを与え、迷いを晴らしてくれると。常にこれを持てば、困ることはないだろうと」

 子供の拳のような小さな石だった。

 ――火打ちの石。


「今はもう、誰が触れても、打ち鳴らしても、火花が散るのみです。ここは火無群ほむらの神垣。かつては、炎が守っていたために、今は失われてしまったがために、そのように呼びます」

 それでも、火の神の御心を信じて、神垣の人たちはこの石を祀ってきた。

「どうぞ、お手に」

 司がその石を取り、都波に差し出す。都波は颯矢太に椿の杖を預けて、両手を重ねて受け取った。

 小さな黒い石。ひんやりとして軽い。



 ――あなたがそう、望むのなら。

 蛇神の言葉が、脳裏によみがえる。

 兆しの姫、と蛇神は言った。兆しとは、目に見えない先触れのことだ。


「あなたは、眠っているの?」

 逸話が本当なのかわからない。

 ただの火打ちの石なのかもしれない。でも、そこにすがる人の思いが確かならば、これは本物の神宝かむたからだ。


 この凍えた国で、吹きつける雪の中で、生き延びるために必要な炎を生み出すもの。火を呼び起こす石へ、日々の安寧の、ぬくもりを、糧を求める人々の思いは強い。

 もうこの国に、火の神はいなくても。かつての火の神が分け与えたという力が、失われているとしても。

 ――神垣を守る力を、どうかもう一度。



 誰かの声が聞こえた気がした。

「もう闇に怯えることの無いように。風に凍えることの無いように、これをやろう。その手から火が絶えることはない。明かりが絶えることはない。人の命の息吹が絶えることはない」

 蛇神か――火の神か。



 石が、内側から赤く光った。脈打つように。

 焼き石のように、赤い鉱石のように、石が輝いた。その内側から漏れた熱があふれて、凍えた空気を追いやった。雪をあかあかと照らす。

 都波の手の上に炎があふれて、蛇のようにうねり、体を包み込んだ。


「都波!」

 驚いて颯矢太が声を上げる。周囲で悲鳴があがった。

「平気、熱くない」

 振り返ると、皆が驚きに目を瞠って都波を見ていた。颯矢太だけがそばに立って、都波を心配そうに見ている。


 恐れの目は、今は気にしない。都波はそのまま駆けだした。炎が帯のように後ろへなびいていく。

 神垣の人々が森へ逃げ込むのに行きあった。追い立てられて逃げてきた人々は、都波を見て別の悲鳴を上げる。

 怯え、そして唖然とした。立ち尽くして見送る者もある。


 社と集落を分ける木の門を抜けた時に見えたのは、池野辺と同じように、炎に包まれた集落だった。男たちが手に農具や武器を持って、神喰と争っている。

 火を消さないといけない。


 ――どうか、神垣を、みんなを守って。

 ちいさな火打石を握って、ぎゅうと目をつぶる。蛇神が鋼牙に容赦なく手を下したのを思い出した。

 ――でも、殺さないで。

 目を開いて、目の前の争いを見る。何をなすべきか、何を守るべきか、見極めないといけない。



 一番近くの家を燃やしていた炎が、根こそぎ千切り取られて、都波のもとにやってきた。ちいさな石に吸い込まれて、その周りを踊る。

 見る間に炎が、次から次へと都波の元にやってくる。家を人を焼く炎も、神喰が掲げる松明も、火矢も、すべての炎を吸い上げて、神垣は闇に沈んだ。

 都波が手に持つ石だけが、赤く光り、雪を照らしている。


「この、妖異め……!」

 唸るような声が間近で聞こえた。

「人の世を乱し、心狂わせる異物め!」

 赤い光の中に、いくつも刃が閃いた。都波は唇を引き結ぶ。


 再び、炎が宙を踊った。

 夜の闇を払い、雪を照らし、業火が都波と男たちの間に割って入る。

「立ち去りなさい」

 都波は火無群ほむらの火打石を掲げて、言い渡した。


 はじめと同じように、都波の手の石は、揺らめく炎を帯びて、あたりを照らしている。

 恐怖に、畏怖に、怯え驚き、怒る人々の顔を照らしている。安堵し、放心したように都波を見る顔も。

 息絶えてもう動かない、人の顔も。


「神の残滓を消し去り、この国を人の手に取り戻すのだ! お前のようなものなどいらぬ!」

 顔に文様を描いた神喰が、叫んだ。否定する言葉が突き刺さる。でも譲らなかった。

「あなたたちが何をやったって、わたしたちが願う限り、敬う限り、神々は応えてくださるわ」

 また炎が大きく膨らんだ。


 その刹那、鋭い石笛の音が神垣に響き渡った。

 鉄の剣を持った神喰たちが、ハッとした様子で音の方を探る。炎が彼らに襲い掛かる前に、身を翻した。

 神喰たちは、現れたときと同じように、唐突にいなくなった。



 静けさに包まれた神垣の中で、ほっとして体中の力が抜けた。座り込むのをなんとかこらえる。都波のまとっていた炎の舌は、石に吸い込まれるようにして消えた。

 神垣は束の間また闇に包まれたた。けれどすぐに、誰かの灯した松明が集落を照らし出す。

 揺れる炎の元、神垣は跡形もなく蹂躙されていた。家は燃え落ちて、誰もが帰る場所を失っていた。うめき声が、あたりに満ちていた。


「巫女の社と、里長の館は無事だ。皆ひとまず、そちらに身を寄せろ」

 生き残った神垣の人たちに指示を出す里長の声がする。

 人々は支えあいながら、怪我人を助け出していた。途方に暮れて座りこむ人の姿もある。恐る恐る森から戻ってくる人たちの姿も。


 神垣の誰も、都波に近づこうとはしない。

 誰もが、この神垣の御神体のことを知っているはずだ。都波が手にしたものがそれかも知れないと思ったはずだ。

 だけど皆、見知らぬ巫女を恐れて、知らぬ顔をする。


「都波、大丈夫か」

 颯矢太が駆けてきて、石を握りしめる都波の手を取った。

 都波の手の中の黒い石は、もうただの石に戻っていた。

「うん、大丈夫。大丈夫だけど……」

 焼け落ちた集落を見ると、考えてしまう。


 池野辺が燃えた後、里に戻らなかった。

 里の様子をちゃんと見なかった。炎を、争う声を、倒れた人を見たけれど、そのあとを見なかった。

 司は無事だと拓深は言ったけれど、無事でない人もたくさんいるはずだ。


 神垣は守られている。外の過酷な世界からは。だけど、これでは、生きていけない。神垣の中だって雪は降る。

「わたしが、ここに来たから」

「違う、都波」

「みんな、何にも悪くないのに。生きていただけなのに」

 今なら満秀の怒りがわかる。


 ――池野辺。

 都波が戻る前に、みんな寒さに倒れてしまわないだろうか。

「こんなの、許せない」

 ――珠纒なら。

 どの神垣も、自分たちが生きていくので精いっぱいだ。人々に警告を発した珠纒ならば。他の神垣を助けることができるかもしれない。


「珠纒に行って、助けを求める。行きたい人は一緒に行こう」

 声を上げる都波に、里長が近づいてくる。

「もう余計なことをするのはやめろ、珠纒はあてにならない」

 吐き捨てた。



 火打ち石を司に返した後、都波は駅舎の燃え落ちた後に座りこみ、膝に顔をうずめて泣いていた。

 里長と違い、司は都波に感謝して、巫女姫として社で休むように言ってくれた。都波を敬い、遠巻きにして、頭を下げる人たちもいた。


 けれどもう、どうしたらいいのかわからなかった。寄り添ってくれる颯矢太の手を、ぎゅう、と握りしめてから、都波は顔を上げた。

「颯矢太、手当てしてない!」

「自分でやったから、平気だ。雪人は体が強いし、傷の治りも早い」

「そんなの関係ない。ちゃんとしなきゃ!」

 声を上げた都波のもとにやってくる足音がある。


「怪我の手当はできるときにしておけ。外で何か起きたときに、対処できなくなる。トリならわかってるだろう」

 篝野がふてぶてしく言った。

「これが、ひとつき前ならば、俺もこの神垣の皆を助けて珠纒に連れていく。咲織の姫ならば、助けてくださるだろう。だが、今はだめだ」

「どうしてなの」


 篝野は都波の前に立って、腰に手を当てて見下している。

「お前たちの連れのトリとはどうやって合流するんだ」

「近くに垣離があるとかで、そこで落ち合うことになっている」

 答えた颯矢太に、篝野は眉をしかめた。

「近くの垣離……山半やまなかの垣離か……」

「知ってるのか。せめて、そこまで案内をしてもらえないか」

 立ち上がった颯矢太を見て、篝野は首を横に振った。


「ここに来る前に寄ったんだが、神喰に襲われたようだった。行かないほうがいい。神喰は襲った垣離を根城にすることがある」

 都波は思わず息をのんだ。颯矢太が言葉を詰まらせる。

 拓深たちも襲われたかもしれない。

 都波も立ち上がり、颯矢太に寄り添った。再び手を握りしめる。慰めるように、すがるように。


 きっと大丈夫、拓深も満秀も目端がきくし、迂闊に危険に近寄ったりしない。神喰の気配があれば、別の場所に行くはずだ。

 だけどそれなら、どうやったらまた会えるんだろう。――鋼牙はどうしただろう。

 颯矢太は篝野を見据えて、はっきりと言った。


「それでも、都波を珠纒へ連れていく。それが俺の役目だ。俺は、トリだから」

 篝野はまた口を引き結んで、颯矢太を見た。そして睨み付けるような目で都波を見た。探るように。

「どうあっても、珠纒に行くのか」

「わたし、珠纒の神変を見たいの。もう桜が咲いていなくても、玉垣を見たい。巫女姫にお会いしたい」


 そうしないといけない。それしかない。どうしたらいいのかわからない困惑が、その願いを強くした。

 池野辺を助けるのも、この神垣を助けるのも、満秀を助けるのも、珠纒に行かなくてはならない気がした。珠纒へ向かえば、拓深たちと合流できるかもしれない。

 行くなと言われても、あてにできないと言われても、納得できない。


 かつて春を告げたという、咲かない桜を見たい。巫女姫に会って、話をしたい。すがるように思った。

 篝野はひとつ大きく息を吸って、重々しく言う。

「椿の巫女姫か。――お前たちが風穴になるかもしれない」

 今度は大きくため息をつく。それから、つぶやいた。

「俺は珠纒に戻れない。目の前までなら連れて行ってやる」

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