第四章 ただあなたを待つ
1話 桜の里
分厚い雲の向こうでぼんやりとした日の光が頭上に来た頃、
遠くに、白い雪原を真横に裂く塀が見える。
「このまま真っ直ぐあの塀の東へ向かえ。少し行けば
珠纒の玉垣は桜だと聞いたけれど、木立のようなものは少しも見えなかった。
篝野は少し考える様子を見せてから、颯矢太に言う。
「できれば、珠纒の様子を教えてほしい。俺はだいたいあの火無群の神垣か、珠纒の近くにいる。どこかで会えると思うが」
不確かな言葉だった。
「どこかへ渡っていってしまったりしないの?」
「俺は、咲織の姫のために働く。遠くへ渡ったりはしない」
断固とした篝野の言葉に、颯矢太はしっかりとうなづいた。
「わかった。ここまでありがとう」
「気をつけろよ。しっかり巫女姫を守れ」
強く言い置いて、篝野は、珠纒とは反対の方向へと歩いて行った。
雪は静かに降り続けている。珠纒の門へ向けて、颯矢太は都波の手を取って歩いていく。
門は見えているけれどまだまだ遠く、たどり着くまでだいぶかかるだろう。
近づくにつれて、珠纒を取り囲む塀が大きく感じられた。こんなに立派なものを他の神垣で見たことがない。珠纒がどれだけ豊かで人が多いのか、それだけで分かる。
前を行く颯矢太の背に、都波は語りかける。
「わたし、知らないことばっかりで、外に出たいってわがままを言っていたけれど、外はほんとうに大変だった」
その言葉に、颯矢太は笑った。
「後悔してるだろ」
「つらいけどしてないよ。颯矢太たちがどれだけ大変なのか、少しだけでも知ることができたし。たくさん迷惑をかけちゃったけど」
知らない神垣に行って、知らない玉垣を見て。外はとても広くて、それを知ることができて嬉しかった。
拓深は、外だって雪に閉ざされて、閉塞感でいっぱいだと言ったけれど。都波にとって白い世界は広くて、ただただ広くて途方もなかった。
もっとたくさんのことを知りたいと思った。たくさんの人に会って、たくさんの思いを知りたい。
「わたし、神垣の中にいて、少し不安だったの。神垣の中は、みんなどこかでつながっているのに、わたしだけが違ってた。――でも池野辺が大変なことになって、すごく怖くなった。外にいると、やっぱりわたしあの神垣が大好きだなって思うの。みんなが故郷を失って、雪の中で生きていかないといけないかもしれないと思うと、つらい」
ゆっくりと雪の中を進む。冷たい風が口に入って苦しいけれど、言葉がついて出た。
ずっと目指してきたところが、目の前にある。それが嬉しいのと同時に、不安だった。
「ああ、そうだな」
颯矢太は、ちいさく笑いながら言った。
「雪の中を歩いて、神垣にたどり着くと、すごくほっとする。どこの神垣についたってほっとするけど、やっぱり池野辺が一番ほっとする」
「ほんと?」
「旅に生きて旅に死ぬのが、俺たちトリだ。神垣の人たちより、垣離の人たちよりも、トリこそが一番この国と共にあるんだと思っていた。どこにも、本当の家なんてないし、この国のどこかで死ぬだけだって。でも、池野辺があんな目にあって、池野辺がなくなるのは本当に嫌だなって思ったよ」
そうだ。池野辺が、育った場所が、雪に飲まれてなくなるのは嫌だった。
都波は旅の間を思い出して、それから少しすねたように言った。
「トリはみんなただいまって言うし、神垣のみんなはおかえりって迎えるけど、颯矢太が別の神垣でただいまって言うの、なんだか変な感じだった」
見ていないけれど、拓深だって大駕だって、どこの神垣でも、同じように挨拶をするんだろう。
だけど颯矢太は子供のころに池野辺にやって来て、十四で颯矢太がトリになって出ていくまで、一緒に遊んで育った。だから、よそで「ただいま」と言っているのを見ると変な気持ちになる。
颯矢太は少し考えるようにした後で、笑った。
「そうか」
「拓深がどこの神垣でも女の子に優しいって聞いて、果歩が嫌な気持ちになるのと一緒なのかな」
「……また都波は、急に変なこと言うなあ」
笑顔が苦笑になる。
「珠纒で池野辺を助ける手掛かりを見つけて、一緒に帰ろう」
一緒に帰ろう。その言葉が何よりうれしい。
都波はつないだ手を強く握り、うなづいた。
珠纒の神垣の門は、どの神垣とも比べられないほど大きい。土塀の中の木枠に屋根が被せてあり、門扉があって、今は開かれていた。
その両脇に、剣を携えた見張り番が立っている。多くの神垣では男たちが交代で見張りに立つけれど、ここにいるのは革の鎧を着た、れっきとした兵だ。
颯矢太はすぐに頭巾を脱いで、雪人であることを見せると、手袋を脱いだ。
八咫烏の紋様を見て、見張り番はじろじろと颯矢太の顔を見た。火無群の神垣ほど露骨ではないけれど、不審に思っているのが分かる顔だ。
「池野辺の神垣から、巫女姫を連れてきました。俺たちの先導として、別のトリが来ているはずです」
「……ああ」
門番たちが、目配せをする。きちんと知らせは届いているようだった。篝野の口ぶりで少し心配だったけれど、大駕はここまでたどり着けたのだろう。
「ひとりで巫女姫を連れてきたのか?」
「もうひとりとは、はぐれました」
「それは大変だったな」
同情する口調に嘘はないようだった。
「では、そちらは」
「池野辺の神垣の巫女姫だ」
都波は、頭からかぶっていた織布をずらして、門番たちに笑いかけた。門番たちは再び顔を見合わせる。
もしまた証を見せろと言われても、何もない。
入れてもらえないだろうかと思った時、門番たちは雪の上に膝をついた。
「ようこそお越しくださいました、巫女姫」
都波は目を見開いて、大きな声をあげた。
「どうしたの?」
「巫女姫に礼をとってるんだよ」
颯矢太がそっと言うと、都波は慌てて門番たちの腕を掴んだ。
「わたしそんなに偉くないわ。そんなことしないで」
巫女姫に突然触れられて、門番たちの方こそ驚いたようだった。困惑気味に都波に頭をさげ、颯矢太に向けて言った。
「おかえり」
戸惑いはあるものの、迎え入れてくれる心を感じる声だった。
門をくぐって神垣の中に入る。門の内側は、変わらず風も雪も強かった。
目の前には、外と変わらず雪の積もった平地が広がっている。雪をかき分けられた道がひとつ、門から伸びている。道の先を見遣ると、遠くにも塀が見えた。その塀の向こうには、森も見える。
いつものように、駅舎へ立ち寄る。門のそばのトリの駅舎も、他の神垣より大きかった。
颯矢太が事情を説明すると、近くにいた女性の雪人が、里長の
肩にかかる髪は明るい赤茶色、都波と颯矢太を珍しげに見る瞳は金茶。毛織物の衣服一枚で、防寒具のようなものは着けていない。
雪人であるのは間違いないのに、駅舎の前に立つ女性の手の甲に、八咫烏の紋様がない。
「……トリじゃないの?」
都波の問いに、女性は快活に笑う。
「この神垣には、トリにならなかったり、トリをやめた雪人が多くいるんですよ、巫女姫。咲織の姫から、神垣の周囲の見回りなどのお役目はいただいているけれど、わたしは旅をしない。雪人にも、旅に向く性質の者と、そうでないものがいますから。わたしは巫女姫をお守りするのを使命と感じているので、トリにならなかった」
雪人は、当たり前にトリになって、旅に出るものだと思っていた。
時折駅舎にとどまっているトリもいるけれど、それは怪我を負ったり、病で旅に耐えられなくなった人だった。
「俺たちの先触れに来たトリは、ここにはいないんですか?」
「ああ、数日前に来たよ。ここに立ち寄ってから里長のところへ行って、その後は姿を見ないね。何か用事を言いつかったのかもしれない」
見慣れないトリを、すぐに使うものだろうか。大駕の普段の経路に用事があったのだろうか。
颯矢太は少し気落ちしたようだったけど、ひとりで先に来た大駕が、無事にここまでたどり着いたのは確かだ。
「またすぐ会えるよ」
都波の言葉に、颯矢太はうなづいた。
雪人の女は都波たちに先立って、雪の中の道を歩いていく。周囲には人の気配があまりない。
「すごく広いのね」
雪と風の中、あたりを見回しながら歩く都波に、雪人は金茶の瞳を愉快そうに和ませて言った。
「このあたりは、もともと人が住む場所ではないのです。雪の少ない時期には、神垣の中央から水路に水を流して、寒さに強い食べ物を植えたりするんですが、今はほとんど何もない」
向かう先には板塀が巡らされていた。
道の先には堅牢な木造の門があって、その脇にも門番が二人立っている。この板塀には、他にも四つ門があって、それぞれに門番がいるのだと言う。
門番たちがまた都波に膝をつこうとするので、慌てて止めた。雪の上だと言うのに、彼らは少しも気にした様子がない。
「巫女姫だからって、他の神垣であんな風にされなかった。よそから来た人は、怖がられるんだと思ってた」
困惑する都波に、雪人は笑う。
「咲織の姫が、みんなに慕われているからですよ」
板塀の内側に足を踏み入れても、雪は変わらず降り続けている。
「神垣の中なのに、雪が強いね」
「よく珠纒には
途方もない話だった。そして珠纒が、他の神垣よりも強気でいられるのが分かった気がした。しっかりとした備えと、兵たちがこの神垣を守っている。
板塀の内側も変わらず雪は強いけれど、そこには、打って変わってたくさんの人がいた。
池野辺と同じように、地面に屋根をかぶせたような家々が並んで、人々は雪をかき分けたり、家畜の世話をしている。道から離れた場所には畑も見える。
「このあたりにいるのは、ほとんど外から来た人です。何らかの事情で故郷を失った人たちが、豊かな珠纒の噂を聞き付けてやってくるんです。桜の玉垣の内側には入りにくいから、ここにこうして家を建てて住まっている。わたしが普段住まう家もこのあたりです」
「でも、ここは神垣の外なんでしょう?」
「塀は人を守る。吹きさらしで住まいを求めてさまようよりは、ずっといい。目の前に神垣もある。外から来た垣離の人は雪に慣れているし」
人々は、巫女の衣装を着た都波を、遠巻きに見ている。
時折雪人の女や颯矢太に声をかけて事情を聞こうとする人がいて、他の神垣の巫女姫だと言うと、皆うやうやしく礼をとろうとした。そのたび慌てる都波に、雪人の女は愉快そうだった。そしてどこか誇らしげだった。
「特に咲織の姫がここの者たちを気にかけて、燃料や明かりを分けてくださるから、神垣の人間も我々を疎まずにいてくれる」
「わたしたち、神喰に垣離の里を焼かれた子と一緒だったの。ここなら、落ち着くことができるかな」
「普段なら問題ないでしょう。今は機が悪いですが、少し様子を見れば、あるいは」
雪人は歯切れが悪かった。
すぐに緑の木立が見えてくる。桜の玉垣だ。
他の神垣では見られないくらい、葉は瑞々しく風に揺れている。
桜の木立は、玉垣というよりも林のようだ。見上げると、薄墨の空の下で、葉の群れが重なり合って影を作っている。
その木立の中に、他の神垣と同じような、赤い門がある。
「やっぱり、もう咲いていないね」
花はとっくに散った後だ。わかっていても、がっかりした。
先を歩く雪人は、都波を振り返って、少し驚いたように言った。
「桜を見に来たのですか」
「俺が池野辺に、珠纒の桜の話を伝えたんです。それで、巫女姫が見に来たいと」
「それは残念だったな。――しかし、そうか。見に来る巫女姫がいるとは思わなかった」
雪人は戸惑ったようだった。
「まるで咲織の姫がお生まれになった時のようでしたよ。わたしは子供だったけど、あの日のことはよく覚えています。今年も、十五年前も、見た人間は忘れないでしょう。ほんとうに美しかった。木が薄紅の雲をかぶったようで、雪と花びらが舞うさまは、幻のようでした。咲織の姫は、玉垣の桜がいっせいに咲いた日に、凍つる桜の根元で見つけられたそうです」
どこかで聞いたような話だった。
「桜の咲いた日にお生まれになったのだと聞いてた。そうじゃないの?」
花の祝いのもとに生まれた巫女姫。勝手に自分の身の上と重ねていた。でも、その曰くまで同じとは思わなかった。
「この神垣を守る桜の話は聞きましたか。まるで、凍つる桜が生み落としたように、そこにいらしたそうですよ。神垣の人たちは、みんな花信風の女神が帰ってきたのだと思いました。はるか昔の約束の通りに、人に生まれ直して帰って来たんだと」
「――違うの?」
「凍つる桜は、ずっと咲きません。姫が見つかった日にも、その後もずっと。咲織の姫は、毎年の田植えの前の
赤い門をくぐり、さわさわと葉鳴りの音をさせる桜の下を過ぎると、雪はやんでいた。うっすらと地面につもってはいるものの、歩くのに少しの不自由もない。
桜の玉垣の内側も、他の神垣とは違う。門から伸びる道の先に、たくさんの路地が交わっていて、集落はとても広い。しっかりとした柱と壁を持った背の高い建物が並んでいる。
そんな建物、他の神垣では、里長の家や巫女の社しかなかった。けれどここでは、そういった家ばかりが並んでいる。
滅びた都の跡にある神垣は、今も都がそこにあるかのように、栄えていた。
「女神が戻っていらっしゃるには、男神がいないといけないのかもしれないな。男神との再会を願って、争いのなくなった世で結ばれるのを願っていらしたそうだから」
神垣の中心に、木組みの大きな門がある。鎮守の森への入り口のようだった。その先に里長の御館があるのだという。
門をくぐると、冬枯れの木が都波たちを包み込む。その先に、土塀が見えてきた。
里長の御館は、ぐるりと鎮守の森と土塀に囲まれていて、塀の向こうにたくさんの建物が見える。巫女たちの住まう社もこの中にあるのだと言う。
まるで、大きな神垣の中に、小さな神垣があるようだった。
門の前で雪人は、金茶の瞳を和ませて、丁寧に言った。
「わたしはここまでです、巫女姫。何か困ったことがあったら、雪人を頼ってください。みな必ず力になります」
「咲織の姫がそう望むから?」
都波の言葉に雪人は破顔した。
「そうです」
やはりその顔は誇らしげだった。
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