8話 春を謳う姫
里長の館は、神垣の中の小さな神垣のように、塀に囲まれている。
人々が辺りを逃げ惑うのなどまるで別の世界のことのように、門を堅く閉ざしていた。まわりを兵が固めて、里長の館と、凍つる桜への道を守っている。
「門を開けて」
塀の上から矢をつがえて雪人たちを狙う兵に、咲織の姫は静かに言った。
頭からかぶっていた領布を取り払う。黒い髪が風に流れた。
毛皮の下には白い衣装を纏っている。それは身の清さをしめすもの。色とりどりの糸で織られた襷と帯は、結界を示すもの。
ひとつき、人々の前に姿をみせることのなかった巫女姫の帰還に、兵たちは息をのんだ。慌てて門を開ける。
「怪我人を中へ入れてください。逃げてくる人たちを受け入れて」
確固とした声に、兵たちは逆らう理由もない。
咲織の姫に従ってきていた人々を、次々に里長の館へ迎え入れる。塀の中の宮から巫女たちが駆けてきて、人々の手助けをする。
すぐそこに、神喰たちが迫っている。兵たちは門を閉めて守るのをやめ、人々を迎え入れるために討って出た。
入れ違いのように咲織の姫は、まっすぐに鎮守の森へ向かう。
※
馬がいなないて、前足を蹴りあげる。
鎮守の森へ駆けこんだ三騎のうち、ふたりが馬から振り落とされ、神垣の兵が取り押さえた。
松明は雪の上に落ち、馬は怯え、外へ駆けだして行く。
額に印のある神喰の王は、それでも手綱を繰り、馬上にあった。
怯えて興奮する馬をなだめ、腰の剣を抜いた。
「人を罰するものにすがるなど」
都波を憤怒の顔で見下ろした。
とっさに颯矢太が都波を後ろに突き飛ばした。
倒れ込んだ都波の前で、颯矢太の手の剣が受け止める。馬上からの力任せの一撃は重く、剣が下がった。
再び、神喰の王が剣を振り上げる。
ひょうと空気を裂く音がして、神喰の王の肩がガクンと下がる。矢が突き刺さっていた。
駆けながら、満秀が立て続けに矢をつがえる。
「お前だけは、絶対に許さない」
再び放たれた矢は、鉄の剣に弾き飛ばされた。
神喰を追ってきた兵たちが駆けこんでくる。多勢に無勢の事態に、神喰の王は手綱を繰り、馬が前足を蹴りあげる。
少数で駆けこんできて、素早く目的を果たすつもりだったのだろう。
凍つる桜が焼かれていたなら、どうなったか分からない。だが失敗した。
手綱を引いて、神喰の王は馬首を返した。
「待て!」
馬で兵を蹴散らし、横を通り過ぎる神喰の王に、里長が叫ぶ。
ひるがえった王の剣の切っ先が、里長の胸を刺した。
そのまま、突き倒す。
あっという間の出来事だった。
里長は地面に倒れ、兵たちが一瞬ひるむ。その隙に、神喰の王は鎮守の森を駆けだしていた。兵たちと争う声が遠ざかっていく。
まるで嵐が去った後のように、凍つる桜のまわりは、静まり返っていた。
里長は踏み荒らされた地面の上に、仰向けに倒れていた。
重い灰色の空から雪が落ちてくる。見飽きた雪、望んだのはこれではない。
そっと膝をつく人の気配に、里長は目を向ける。
咲織の姫は、悲しい瞳で里長を見た。
巫女の衣装は泥に汚れ、毛皮の外套を羽織っている。だが相変わらず、清らかで鮮やかだった。
まるで神意そのもののように。
「姫、俺は、神垣のために」
言葉を発するのが苦しい。冷たい大地に、体の熱が吸い取られるようだった。酷く寒い。
「里長。……
その声は、とても静かだった。名を呼ぶのは、親しみを込めたからではない。その役目を認めない証だった。
言い聞かせるように、彼女は言った。
「あなたは、してはならないことをした。自分の欲と大義を履き違えたの」
そんなはずがない。
この誉れある珠纒の神垣。未だ神意のあらたかな里を、強く大きくしようとした。それを国に広げようとした。
だが、巫女姫が間違いだと断言した。
神意を背負って生まれた、誉れ高き咲織の姫が。
突きつけられた言葉に、憐れみの瞳に耐えられなかった。
怒りの眼差しであれば、こらえられたかもしれない。罵りだったなら、反論できたかもしれない。
だが、憐れみ言い聞かせるような声には、耐えられなかった。
人々の刺すような目より、争いの物音より、炎より、雪よりも。
神垣は火に蹂躙され、桜の玉垣をも脅かす。神喰たちは人々を次々に殺していった。かつての都が滅びたように。
凍つる桜まで、脅かされた。
「……こんなはずではなかった」
里長の言葉に、巫女姫は悲しげに瞳を伏せた。
里長は、その肩を支える雪人を見る。
まとう空気が、腹が立つほどに気負いがない。寄り添うような咲織の姫が、どれだけその男を信頼しているかが分かってしまう。
神垣の巫女ですら、あれほど咲織の姫のそば近くにいる者など、いなかったのに。
巫女姫を傍らに置いて、誉れを受けるのは、己のはずだった。
暗い空の下、凍つる桜が枝を広げている。あの桜が咲くのを、見るはずだった。かつて桜の玉垣が咲き誇ったように。
「珠纒は守ります。必ず。……だから、安心して」
※
里長の御館の門を抜け、神垣の兵を蹴散らして神喰の王は駆けていた。兵に馬を射られ、馬がいなないて倒れた。
神垣は炎に焼かれ、人々は逃げ惑い、神喰が蹂躙している。――はずだった。
椿の巫女姫が、凍つる桜を起こさなければ。
空気のざわめきに、神垣の人間は神変を感じ取っていた。里長の裏切りに動揺していた兵たちは、明らかに士気を取り戻していた。
このままでは、こちらが全滅する。
門のそばに誰かが立っている。
毛皮を着た姿は、神喰かと思ったが。違う。頭巾をかぶっていない髪は赤茶色で、顔に紋様もない。
「お前か」
神喰の軍を池野辺へ、珠纒や他の神垣へ導いたトリは、今更のように神喰の王の前に立っていた。
「一度退く。軍が身を寄せられる場所へ連れて行け」
身を寄せられる神垣か、垣離か。どちらでもいい。そこを襲ってしばらく身を寄せる。
神喰の王の言葉に、大駕は笑った。
「逃げるのか」
「立て直して、いくらでもやり直す。神垣はもろい」
珠纒ですら。立て直し、隠された門から忍びこんで内と外から襲えば、まだ勝機がある。凍つる桜さえ燃やしてしまえば。
「珠纒の里長はどうした」
「殺した」
そうか、と。何の感慨もない声で、大駕は応える。
皮肉に唇を歪めて笑った。
「やっぱり俺は間違えていた。他を蹂躙して何かを得ようとする者に、何も築けるわけがない」
不穏な空気に、神喰の王は剣を掲げる。
「何がおかしい」
「おかしくはない。嬉しいだけだ。友人の忘れ形見が――俺の子が、間違えなかったことが」
大駕は笑いながら、椿の杖を捨てる。腰の短刀を抜いた。
大駕自身の血に濡れた短刀。普段なら、血を拭いもせず、刀を鞘におさめたりしない。
トリは旅の助けになる道具を、粗末に扱ったりはしない。
――だが、もう必要ない。
※
「都波、大丈夫か?」
座り込んだままの都波を、颯矢太が助け起こしてくれた。
「池野辺に帰ろう。神喰がもう一度池野辺も襲うと言っていた。帰って、みんなを助けないと」
都波は息をのむ。何よりも恐れていたことだった。
それを嫌って、池野辺の里長は周囲の神垣へ助けを求めなかったと、大駕は言っていたのに。
「いつなの。間に合うの?」
「――たぶん、間に合わない」
慌てて帰っても、間に合わない。ここに来るまで何十日とかかった。
トリが言伝を継いで、休みなく報せを運んでも、その半分はかかる。
「それでも、帰ろう。誰かが助けを待ってるかもしれない」
弓を握りしめて立つ満秀を振り返る。
「満秀はどうする」
「ここで神喰を追い払う」
颯矢太はうなづいて、咲織の姫のそばにいる拓深に呼びかける。
「拓深さん」
「ああ、蛇神がまた助けてくれるとは限らない。だが……」
珠纒はまだ争乱の最中だ。
凍つる桜の鳴動に神喰は動揺し、王は傷を負ってどこかへ去ったけれど、未だ争う声は聞こえる。
たくさんの人が傷ついて、住処を失った。――池野辺と同じに。今ここを去っていいものか、迷っているのが分かった。
「気をつけて」
里長のそばに膝をついたままの咲織の姫は、ただそう言った。
「珠纒はもちこたえる。凍つる桜さえあれば、何があっても立て直す。救える命があれば、珠纒で迎え入れるわ。だから、行って」
そして拓深を真っ直ぐに見あげた。
「必ず戻って来て」
「――ああ」
問うように見る拓深に、咲織の姫は少し怒ったような顔をする。
「生涯をもってわたくしを
面喰らったような顔をしてから、拓深は破顔する。そんな拓深の表情を、都波は初めて見た気がした。
「言ったな。必ず戻る」
――池野辺に帰る。
ここに来たのは、池野辺を救うためだった。
どうにかして雪を取り除いて、春を呼び起こして、国をよみがえらせることができればと、思ったからだった。
椿が咲いて、珠纒の桜の不思議を聞いて、何かが起きていると、起こせると思ったからだった。
都波は立ちあがり、咲織の姫のそばへ歩み寄る。
「咲織の姫……?」
そっと呼びかける。
「わたし、あなたに会いたかった」
何かを教えてもらえるかもしれないと思って。
都波と同じ神秘の元に生まれて、神垣のために生きてきた巫女姫に、会ってみたかった。
座ったままの咲織の姫に、手を差し伸べる。
「あなたが、椿の巫女君ね」
優しい声と共に、白い顔が微笑んだ。
「わたくし、あなたのことを知っている気がするわ」
そう、なぜか知っている気がする。懐かしい。暖かくて優しい。
「わたくしたち、離れて生まれた姉妹のようなものかもしれないわね」
咲織の姫は、都波の手を取る。
瞬く間に、まわりのものが消えた。
颯矢太も拓深も、誰もいない。
かわりに現われたものは、ただただ焼け野原だった。何もかもが黒く焦げて、池野辺のようだった。――否や、池野辺よりずっとひどい。
見渡す限り煤けた大地の上に、灰か雪か、白いものが天から降ってくる。
もう、何もない。動くものも、動かないものも。
ただひとつ、焼けてしまった大木が、すぐそばにある。
銀の長い髪の少女が、その下にたたずんでいた。
咲織の姫と同じ顔をしている。瞳の強さも、微笑みの優しさも同じ。
だけど美しい顔も、身にまとう衣服も手足も何もかも、血と泥と煤に汚れていた。
悲しげな表情で少女は幹に寄り添った。黒く煤けた幹に、そっと触れる。
冴えた空気の中を、あたたかな花信の風が通り過ぎた。
刹那、桜が、ぶるりと震えたかのようだった。まるで時が戻ったかのように、みるみるうちに木肌は艶を取り戻す。
枝という枝に蕾をつけ、花を開かせた。
暗い雲の下、黒く堕ち、白く塗りつぶされようとしていた世界に、薄紅の花びらが舞う。
銀の髪の少女は、こちらを見て微笑んだ。
あたたかな風は消えて、冴えた空気が戻ってくる。容赦のない風にさらわれて、その姿が透けていく。
けれど少女の笑みは、儚げな姿を否定するように、強かった。
「生きなさい」
滅びた国を去っていく女神の、最後の言葉は、願いだった。
そして、実りを祈る桜は、優しいはなむけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます