9話 願うもの


 ※


「……思い出したわ」

 咲織の姫は思わず、言葉を落とした。

「全部、思い出したわ」

 今度は顔をあげて強く。都波を見て、微笑みかけた。戸惑う都波の手を離して、凍つる桜へ歩み寄る。


 ずっと、違和感があった。

 ここは守るべき故郷、それに変わりはない。それは生まれた時から、ずっと変わりはない。

 だけど、違和感があった。

 何かを、ずっと待っていた気がしていた。そのために生まれた気がしていた。


「待っていたのね」

 桜の大木を見上げる。生まれた時からずっとそばにあった木だった。

 滅びの日に一度咲いてから、二度と花をつけなくなった桜。大きく地に根ざして、生きているのに、決して花をつけない、頑固な巨木。


 幾度願っても、祈っても、咲いてはくれなかった。

 この木は、約束の日をただただ待ちわびていた。


「わたくしが思い出すのを、待っていたのね」

 ――この桜のことを。あのひとのことを。


 この桜を咲かせ続けた花信風の女神。それは決して、力の強い、大きな神ではなかった。

 人々に春の訪れを告げ、祝福と共に、その年の実りを願う。それだけの存在だった。

 だから人とちかしくて、争いの中にあってでさえ共にあった。誰もが争いを願い、神を嫌ったわけでないと知っていたから。

 恋した男神と離れても、人と離れることを選ばなかった。


 かつて祝福いわいと光に満ちて、豊かだった大地は失われてしまった。

 けれど、願った通り、またここに帰ってきた。


 ――あなたが春を謡う日が楽しみだ。

 幸せだった頃の、優しい囁きを思い出す。

 いとおしむ気持ちと同時に、悲しみがあふれてくる。はるか昔のことだ。


 また出会いからやり直すと約束した。そのために生まれ直すのだと。

 願った通り、またここに帰ってきた。

 そして、拓深の言ったことは間違いではないのかもしれない。咲織の姫に会うため、雪人に生まれたのだと。

 どこにいても探せるように。


「ただいま」

 咲織の姫はそっと桜の幹に触れて、額を寄せる。空気が歓喜に打ち震えたかのようだった。風もないのに枝が鳴る。


 凍つる桜は、吹き零れるように花を咲かせた。

 花びらが溢れて、雪の中を舞った。


 周囲に集った神垣の人々が、兵が、雪人たちが、あっけにとられて花霞を見上げていた。炎の燃える音も怒号もどこか遠い。


 咲織の姫は花を咲かせる木のそばに寄り添っていた。かつて人が神々と共にあった頃のように。

 花信風の女神が、春を告げていた頃のように。


 ――新しく謡う春が、国をよみがえらせることを、ただ願って。



 ※



 都波は、桜を見上げていた。

 黒い雲が空を覆い尽くしている。太陽はいない。空から雪と煤が落ちてくる。桜の花びらと一緒に。

 たったひとりで、空を見上げている。


 ――これは、女神を見送った誰かの記憶だ。

 どこかで分かっていた。

 だけど、それが自分の意識と重なって、自分が誰で、どこにいるのか、何をしているのか分からなくなった。

 もしかしたらこれは、かつての自分の記憶なのかもしれない。


 辺りには、焼け落ちた柱や屋根や、人の死骸ばかり転がっている。華やかな玉城の王宮、人々が多く住まっていた都は、見渡す限りの焼け野原になっていた。

 争いを生き残り、神々を見送り、そしてこの滅びた国に取り残された。

 神無き国は祝福のすべてを失い、実りも失うだろう。自分は、これからどうやって生きていくのだろう。


 ただひとつ残ったこの桜の木。絶望の上にただ、雪と花びらが降ってくる。


 雪の深い年にはたくさんの実りがあるのだと、誰かが言っていた。

 雪が土壌を潤して、恵みを受けた大地がたくさんの緑を茂らせるのだと。春を告げる女神がいつもそう言っていた気がする。

 寒さをしのげば、喜びがあると。


「兆しの姫」

 気がつくと、女神がいた場所に、銀色の髪の男が立っていた。黒い暗い景色の中で、ひとりだけ輝くように白い。


「蛇神様……」

 池野辺の神垣を守る、蛇神だった。

「あなたが国を目覚めさせるだろう。人に国に、あなたがその価値を見いだすならば」

 はじめに言ったのと同じことを、蛇神は言った。



「都波」

 呼ぶ声がする。誰かの優しい手を感じる。ここにはいないけれど、確かにそこにある。

「颯矢太」

 励ますようなぬくもりに、力強さに、都波はつぶやいた。


 泣きたいくらいの安堵。これも、なぜか覚えている。

 焼けおちた都、女神を見送った絶望。

 そのただ中にあったときも、そばに寄り添ってくれる誰かがいた。ひとりきりじゃなかった。だから生きてこられた。

 だからすべてを失っても、人は再び家を築いて、立ちあがって生きてきた。

 一緒にいてくれる人がいれば、ずっと雪の中でも、きっと平気だ。……だけど。


「わたし、すごく人が憎かった」

 都波はまっすぐに蛇神を見て言った。

 池野辺にいたときは知らなかった。自分の望みのために人を陥れる心、平気で傷つける人。外は欺瞞と疑いで満ちていた。

 この桜の前で颯矢太が傷つけられた時、颯矢太が死んでしまったかもしれないと思った時、それを里長が命じたと知った時、とても憎くて苦しかった。


「はじめて誰かのこと憎いと思った。許せなかったの。こんなひどいことばかり、どうして出来るんだろうって。どうして起きるんだろうって思った」

 神垣の塀も家も焼かれ、たくさんの人が傷ついて、死んでしまった。


「だけど、ひどいことばっかりじゃないの」

 行く先々の神垣で、食料を分けてもらった。雪人に何度も助けてもらった。この国で生きるために、皆助け合っていた。


「だが人は繰り返した」

 蛇神は水鏡のような、たいらかな目で都波を見て言った。都波は目をそらさず、はっきりと言う。

「まだ、繰り返したわけじゃない」

「このままならば繰り返しただろう」

「だけど、繰り返したわけじゃないわ」


 人は過ちを犯す。

 神々がそれを憂い、悲しみ、憤った通りに。

 神々を殺し、自分たちを殺し、国を殺しても尚。この苦しくつらい冬の国の中でも繰り返された。

 でも。


「みんな、願うものは一緒だった」

 暖かな春。凍えることのない、飢えることのない、豊かな国。

 それだけだった。悩んで苦しんで、自分がより良い方法を選んだのだと、信じていた。それゆえに、過ちを侵した。

 ――だけど、正そうとする意志がある。あがいて、そうやって、自分たちで道を正すことができる。


「間違いは、わたしたちの手で止められるわ。雪がやんで、雲がいなくなって、太陽がのぞいて、春になっても。神垣の囲いから出て、知らない人たちにたくさん会って、たくさんのすれ違いや誤解があっても、わたしたち間違えながら学んでいける」

 都波の願いはただひとつだ。


「わたし、帰りたい」

 心配してくれる人も、大好きな人も、大好きな場所も。あるのは池野辺だった。育った場所はそこだった。

 皆が戸惑いを持っていたとしても、都波はやはり、池野辺の神垣の子供のひとりだった。


 池野辺を守りたい。それは旅の初めから変わらない。あの神垣を、みんなを守りたい。

 颯矢太たちトリが帰ってくる場所を。


「わたし甘えてばかりだった。わたしも、もっと池野辺のためにできることがあるはずなのに、何もしてこなかった。だから、帰ったらもっとがんばるの」

 姉妹のようだと言ってくれた咲織の姫のように。

「だから、ほんとうの春を見たい」

 みんなと同じことを願う。


 輝く太陽を、緑の山や花の続く野原、実りのあふれる大地、それを見たい。

 豊葦原の瑞穂の国と呼ばれていた頃の姿を。

 過ちを踏み越えて、新しく迎えた春で、もう一度やりおなす。


「国がよみがえるのを見たい」

 蛇神はしずかに目を閉じた。そうか、と微笑む気配がした。

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