第二章 はてなきましろ

1話 トリの旅路

 見渡す限りの白い風景は、都波がいつも神垣の玉垣の内から眺めていたものだった。

 木々も、岩も山も、雪をかぶって白い。囲いのない外は、どこまでも続いていて、遠くの山が灰色の雲と混ざっている。


 神垣を出たときにかぶっていた織布を、頭からぐるぐる体に巻きつけて、都波は雪の中を歩いていた。

 白い織布は、椿の木の繊維を織り込んだ布に、椿の赤い染め糸で紋様を織りこんだものだ。絹綿を詰めて二重に縫い合わせてある。

 神垣の中ならそれで充分あたたかいのに、寒さが鋭い刃のように体中をさいなんだ。


「今日は風があまりないから楽だな。雪も少ないし」

 馬を連れた拓深が先頭に立っている。馬の背には、荷物が括りつけられていた。

 都波のそば、風上には、常に颯矢太が寄り添っていた。都波はふたりが踏み固めてくれた雪の上を歩く。

 その後ろを、守夜と一緒に満秀が続く。


 旅立つ前、颯矢太はあの椿の木から、いくらか枝を切り分けて持ってきた。

 颯矢太は杖と、枝と縄を組み合わせてカンジキも作ってくれた。都波のために、自分が履いていた藁沓を貸してくれた。

 気を砕いてもらって、歩きやすくなっているはずなのに、深い雪を歩き慣れていない都波は、一歩一歩、足をとられてしまう。前に進むのに難儀した。

 身に着けるものまで颯矢太に助けてもらって、それだけでもう、随分と無茶を言ったのだと気づいたけれど、引き返すことなどできなかった。


 都波は、前を行く拓深に向かって大きな声をあげた。

「これでも楽なの?」

「雪が少ない時期になってきたからな。それでなくても、今日は楽な方だ。帰りたくなったか」

 拓深は振り返ると、意地の悪い顔で笑った。

 トリの拓深や颯矢太は外に慣れているし、満秀は雪の中に作られた垣離の里に住んでいた。

 この中で都波だけが、この国の本当の冬の姿を知らなかった。


 都波は頬をふくらませた。文句を言おうとしたけれど、足がもつれそうになって、出来なかった。

「ほら、もうすぐ着くぞ」

 笑いながら、拓深が先を指さす。雪の中に、木立と岩場が見える。




 木立の影に入ると、少しだけ雪が和らいだ。都波はほんの少しだけ息をつく。

 そのまま進んでいくと、雪に埋もれそうな三角屋根の小屋をみつけた。風をよけて、岩と木の陰に建てられた簡素な小屋は、小さな駅舎のようだった。


「良かった。ここは神喰に見つかってないみたいだ」

 隣で、颯矢太がちいさくつぶやいた。どこかほっとした声に、都波は尋ねる。

「ここは垣離の里?」

 神垣のような玉垣は見当たらない。一軒きりの小さな建屋しかないが、ここはどこかの里なのだろうか。

「いや、あれはトリの仮駅だよ。旅の間に立ち寄って、少し身を休めるのに使うんだ。こういう建物があちこちにあるんだよ」


 言われて初めて、トリが神垣にたどり着くまでの間、どうやって過ごしているのかを知らないのに気が付いた。

 旅の間、どこでどうやって過ごして、雪をやり過ごしているのか、知らなかった。

「そうなんだ」

 少し驚いて、同時にどこか気落ちした。


 颯矢太が大変なことを都波に話さないのは、心配させたくないからだろうけれど。

 そういうことだって教えてほしかった。線引きされてるみたいで、少し寂しい。

 だけど、弱音を言わないのは颯矢太の性分でもある。それを知ってるから、文句も言えない。


 先を行く拓深が、また笑う。

「これはトリの秘密だからな。俺なら、大げさに話して女の子を喜ばせたり心配してもらったりするけど。颯矢太は融通がきかないから、そんな発想ないんだよ」

「拓深さん、神喰を警戒しての秘密なのに、そんなに簡単に人に話していいんですか」

「みんな頭が固いんだよ。神垣の子が神喰に話す機会なんてあるもんか。それに、どこにあるかまでは話していない。そんな細かいこと言ったところで、意味がないからな」


 拓深はあっけらかんとしている。都波は、驚いて声を上げた。

「神喰は、こんなところまで襲うの?」

「当然だ」

 苛立ちにまみれた満秀の声が、後ろから投げられる。

「奴らはなんでも壊していく。何の不思議もない」

 手に弓を持った満秀は、苛立ちまみれに雪を踏みつけるようにして、都波を追い抜いていった。守夜が、寄り添うように後に続いた。





 仮駅は次に使うトリのために、出来るだけ整備して、雪に埋もれないようにしておくのだと言う。

 着いてすぐ、颯矢太と拓深が屋根から雪をおろすのを手伝おうとして、邪魔だと拓深にすげなくされた。


 仕方なく、風雪にさらされた木の扉を開く。中は狭くて暗い。でも、風を防ぐことができる。

 都波が胸をなでおろしていると、満秀が横をするりと入ってきて、守夜が続いた。外を歩きながら拾っていた木の枝を、囲炉裏に放り込む。


 都波は慌てて駆け寄って、火を熾すのを手伝った。

 囲炉裏に火を入れると、暗い小屋が明るくなって、凍えた頬をぬくもりが撫でる。それだけで気持ちが暖かくなった。

 焚火の方に足を向けて座ると、感覚をなくしていた指先に、じわじわと痒いような感覚が戻ってくる。

 雪をおろした颯矢太と拓深が入ってきて、狭い小屋は四人と犬と馬でいっぱいになった。




 ふと守夜が顔をあげる。遅れて拓深と颯矢太も、顔を見合わせ、扉を見た。颯矢太が立ち上がる。

「どうしたの?」

 都波が問いかけると同時、ドンと、扉を叩く大きな音がした。飛びあがらんばかりに驚いて、都波は扉を見る。


 乱暴に扉が開いて、風雪が吹き込んだ。鳥肌が立つ。囲炉裏の炎が揺れて、皆の影も揺れた。ぞわりと心が震える。

 開いた扉の向こうに立っていたのは、頭巾を被って、毛皮をまとった人だった。その後ろに見える景色が暗い。いつの間にかもう夜になっていた。


「大駕さん!」

 身構えていた颯矢太が、慌てて駆け寄った。颯矢太の声に、都波は瞬きをした。

「明かりが見えると思ったら、やっぱりいたな」

 聞き覚えのある声だった。

 大駕は、小屋の前で雪を払い落としてから狭い小屋に入って、頭巾をとった。――なんだ、大駕だ。見慣れたトリの顔に、都波は早鐘を打つ心臓を抑える。

 狭い小屋の、明かりの中に入った大駕は、険しい表情をしていた。


「お前たち、何やってる」

「大駕さん、ひとりなんですか」

「池野辺まで一緒に来たトリは神喰に殺された」

 あっさりと告げられた言葉に、颯矢太は絶句した。その颯矢太に畳みかけるように、大駕は声を上げた。


「神垣の巫女姫を勝手に連れだすなど、何を考えている! お前たちが戻らないから、司も里長も心配しているし、神垣の皆が不安がっている。まだ神喰があたりにいるんじゃないかとな!」

 見知った者の死と、皆が心配し不安がっているという言葉に、都波も言葉を失った。

 心配させることなんて、わかっていたはずなのに。


「トリは、神垣の内側のことには関わらない。住処を持たない我々は、何の責任も持てないからだ。知っているだろう」

 颯矢太にとって大駕は、父親がわりのようなものだった。容赦なく叱りつける声に、颯矢太は食い下がった。


「でもこのままだと池野辺は滅びてしまう。雪で途絶えそうな命を助けるのも、トリの役目でしょう」

「それと巫女姫を連れだすのに、何の関わりがある」

「池野辺の不思議と、珠纒の桜の神垣の話には関わりがある。都波が生まれた時に椿が咲いたのと同じように、珠纒でも何か起きているはずです。珠纒まで行って戻ってくるだけです」

「それがどれほど危険なことか分かっているのか。雪人でもない都波にとっても、どれだけ大変なことか。拓深も何を考えている」


 急に水を向けられても、拓深はつまらなそうに大駕を見ただけだった。少しもこたえていない様子で、小枝を折り、囲炉裏にくべながら拓深は言った。

「頼まれれば神垣をつなぐ糸になるのが、俺たちトリでしょう」


 大駕は苛立ったように応える。

「神垣の外に助けを求めるかどうか決めるのは、里長だ。お前たちじゃない。池野辺の里長は、今回の変異を外に知らせないことを選んだ」

「また、隠すの……?」

 大駕の言葉に、都波は思わず言っていた。どこか、高ぶっていた気持ちが引いていくのを感じていた。大駕が眉をしかめて都波を見た。


 神喰の標的になるのを恐れて、都波が生まれた時の神秘を隠して。

 今年の初めにも、椿が咲き乱れたのを隠して。

 それでも、神喰はやってきたのに。

 里を襲われて、皆が家を焼かれて、雪の中に閉じ込められて、寒さに凍えているのに、それでもまだ隠すのだろうか。


 ――珠纒の桜の神秘は、神垣への啓発として、トリが伝えているのに。

 珠纒は、それを選んだのに。

 都波は立ち上がって、大駕に抗議した。大駕に言っても仕方ないのに、冷静になれなかった。


「隠してどうするの? どうやって、雪の中を耐えるの? 神喰の襲撃を逃れて、せっかく助かったのに!」

「話が広まって、神喰が再びやってくるのを恐れている。それに、神垣で起きた異変を、畏れてる」

「池の蛇神が、神垣を助けてくれたのに、怖がるの?」

「……なぜ、蛇神が助けてくれたとわかる。神々はいなくなって久しい。蛇神は眠ったままだ」


 蛇神は、都波たちにしか姿を見せなかった。神垣の人たちは、神喰を追い払ったのが誰か、知らないのだ。何が起きたのかを。

 池野辺の皆にとっては、池が突然水を吹き上げたのも、年の初めに椿がいっせいに咲いたのも、司が都波を椿の下で拾ったもの、同じこと。


 雪から神垣を守る神秘のことは、疑問に思わない。いつも当たり前に、そこにあったことだから。でも、大きすぎる変異は怖いのだ。

 日常から外れることは、手に余ることは、簡単には受け入れられない。


 都波は、とっさに言っていた。

「神垣の外から、水柱が見えた。池に蛇神が眠っているのは、みんな知ってることでしょ。神垣の危機を悟って、蛇神が目覚めて、助けてくれたんじゃ何かと思っただけ。違うの?」

「司はそう言っていたが、蛇神が目覚めたかどうかなんて、わからないだろう。再び守ってくれるのかだって」


 大きな力への恐怖――蛇神への畏れは、まるでそのまま都波へ向けられた恐れのようにも思えた。異質なものへの、無意識の拒絶。

 自分の気持ちを飲み込むようにして、唾を飲み込む。それから、強く言った。

「でも、助けを求められないのなら、ゆるやかに滅びるだけじゃない!」

「里長が選んだことだ」

 大駕の厳かな声に、都波は口を閉ざす。


 だからと言って。ただ静かに、滅びるのを待つなんて。

 いつもどこか、疎外感があった。

 寂しくて、颯矢太やトリとかかわる方が、気が楽だった。今だって、神垣のみんなを代弁するような、大駕の言葉に傷ついている。

 神垣の外に行きたいのも、自分や世界で起きていることを知りたいのも、全部本当のこと。でも、それだけじゃない。


 池野辺は生まれ育った場所だ。雪に埋もれるのを、黙っていられない。

 それに池野辺は、颯矢太が帰ってくる場所だ。池野辺がなくなったら、どこでお帰りを言えばいい。


「でも、わたしは行きたい。行かなきゃならない。神垣の巫女姫だからこそ、わたしはわたしの考えで、神垣のためにトリに願ったことなの。里長は関係ない」

「それでも、きちんと手順を踏むべきだと思わないのか。颯矢太がお前をさらったのだと思われれば、トリや颯矢太の名誉にもかかわる」

 自分勝手だと詰る大駕に、都波は言葉を無くした。


 自分が去った後の神垣のことは、考えていたつもりだった。だけど颯矢太のことをそんなふうに、罪人のようにとらえられるとは思っていなかった。

 拓深が「駆け落ちか」と言ったのは、あながち冗談でもないのだ。


「大駕さん、話が飛躍してる」

 拓深がうんざりしたように口をはさんだ。

「颯矢太が都波を連れ去ったとは誰も思わないでしょう。都波が満秀を追って行ったのは、皆が見ている。二人とも雪の中に出て行って、行方知れずになった。そういうことは無い話じゃない。吹雪の中に人を探しに行って、トリが戻らないのも珍しくはない」

 いつも気負わない拓深の言葉に、大駕はあきれた顔をした。

 けれど、都波を支持する言葉が、今はありがたかった。この外の世界の厳しさを淡々と物語るものだとしても。


 颯矢太は、しっかりと顔をあげて、大駕に言う。

「俺は池野辺で育ったけど、池野辺の駅舎が俺たちにとって仮の住まいでしかないことくらい、分かってます。そのくせ肩入れしすぎだってことも。無理をして珠纒に行っても、何も変わらないかもしれない」

 颯矢太は都波よりもずっと、状況を見ている。自分の立場も、都波の身上も。わかっていて、颯矢太は言った。


「俺の名誉なんてどうでもいい。でも、都波の願いをかなえてやりたい」

 いつも決してわがままを言わない颯矢太の言葉に、大駕は驚いたようだった。まっすぐに大駕を見る金茶の瞳を見返して、眉間にしわを寄せる。

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