8話 都波岐


 吹雪がやんでいる。都波たちのまわりだけ、雪も風も途絶えている。颯矢太は、都波のそばに駆け寄った。

「怪我してないか」

 呆けている都波の肩を掴み、顔を覗き込む。


 都波は颯矢太を見て、顔をくしゃりとした。颯矢太の首にしがみついて、抱きしめる。

「颯矢太こそ。こわかった」

 泣きそうだった。けれど都波は泣かなかった。

「池野辺は、どうなったの」

 遠くでゆらめいていた明かりはもう見えない。


「炎も人もわたしが止めた」

 男がしずかな声で言った。その間近で、神喰は血を流して倒れている。積もった雪の中にあふれた血からは、湯気がたっていた。


 ――死んでしまったのだろうか。

 神垣を襲われ、颯矢太を殺そうとした。恐ろしい神喰だとは言え、血を流して無残な姿で横たわっているのを見るのは、ひどくつらかった。

 彼らから憎しみを向けられたのをそのまま返して、同じように憎んで、殺すのは正しかったのか分からなかった。


 都波は颯矢太を離して、男を見上げる。男は静かな目で倒れた神喰を見ていた。奥の感情をうかがわせない、底知れない瞳だった。

 都波は息をひとつふたつ飲み込み、男に問いかける。


「あなたは誰なの。どうして急に現れたの」

「わたしは、あなたのよく知っている者だ。ずっとあなたを見守っていた。この日を待っていた。あなたがわたしを呼ぶのを」

「わたし、呼んでいない。あなたのこと知らないのに、呼べない」

「声ではない。あなたの存在に呼ばれたのだ」

「……何を言っているの」


「わたしは、池の底に眠る蛇。ささやかな水の化生だ」

 さらりと放たれた言葉に、都波は息をのんだ。

 池の底に眠る蛇。それはずっと、ずっと、都波のそばにあったもの。池野辺の神垣を守ってきたもの。


「あなたは、池野辺の神垣の、大池の底に眠る、蛇神だっていうの」

 知らず声が震える。男は静かな金色の瞳で都波を見返して、何も答えない。

 池の底に眠る神がいるのだと、知っていた。だけどそれは言い伝えだった。

「この国は神を捨てた国だ、そんなことがあり得るのか」

 颯矢太が信じられないというように言った。


「そう、ここは神を捨てた国だ。かつての諍いで力を失い、わたしは水の底で閉じこもるので精一杯だった。だが、あなたの強い意志と力に呼ばれたのだ。今もわが身は水底に眠るが、あなたがいなければ、こうして人の姿で幻を結ぶこともできなかっただろう」

 男はそう言って、都波を見た。少しの嘘偽りを感じさせない、静かな眼差しで。

 都波は思わず怯んでしまう。

「わたし、ただの人だよ。人として神垣で育った。それは颯矢太もみんなも知ってる」

「だが、あなたの手で、椿が咲いた」

 言葉に詰まる。目の前で確かに、椿の葉が花が、雪の中に揺れている。

「――でも」


「考えてみよ。椿は春の言触れ。椿はもともと、神籬ひもろぎだった」

 神の天下るもろ。そして椿が咲くことの意味。

 花が咲くのは、豊かさを知らせること。その祝福いわいの前触れ。

 そして椿は、いつの季節も枯れることがない。雪に輝く緑の照葉、冬の寒さの中、鮮やかに咲くともしびの花。

 椿は、春を言触ことぶれる使者。それは復活の象徴しらせだった。


 あかあかと花が照る。

 春の祭り、つらつら椿、列列つらつらと。真椿が燃えるように咲く。


「椿の後には桜が咲く。桜は稲穂の豊かさを祈るもの。兆しの姫。あなたは、すべての先駆けとしてこの世に産み落とされた」

 春に先駆けて咲く花として。

 蛇神はただ静かに続ける。

「あなたがわたしの元に生まれたのには意味がある。人は蛇の姿に、不死を、黄泉返りを見ている。国が生きかえるのを人々が望み、その願いがあなたを生んで、椿が咲いた」


 都波はもう何も言えずに立ち尽くしていた。

 ――そんなの違うと言いたい。

 そんな大それた者じゃない。そんなはずはない。


 自分に神秘の力など感じたことはなかった。

 司は都波の不思議を信じているけれど、少し他の子とは違う生い立ちがあっても、皆と同じようにやって来たはずだったから。たった今まで、神垣の娘として暮らしてきていたのだから。

 だけど、思ってしまう。


 違和感はずっとあった。

 椿の下で見つけられた自分。都波を捨てた親はとうとう見つからなかった。最初から親などいないのだとしたら、見つかるわけもない。

 小さな神垣の中では誰もがどこかつながっていて、その輪に入りたいと願っていた。

 だけど神垣のみんなは、いつも都波を遠巻きにした。そもそも、人ですらなかったのなら、当然だった。


 そして都波の手で椿が咲いた。もう否定しようのない、はっきりとした物事が起きてしまった。

 でも、否定したかった。自分はみんなと同じなんだと。

 ――でも。それでも。都波はその願いを否定する自分を感じていた。それならなぜ、ずっと外のことを知りたがったのだろう。

 都波は隣に立つ颯矢太の手を握り締めた。颯矢太がしっかりと握り返してくれる。


 颯矢太は毅然と顔を上げた。白い息を吐きながら男に問う。

「近頃、神喰の動きが活発なのは関係があるのか」

「人は、罪を繰り返すものだ」

 蛇神は淡々と応えた。冷ややかとも言えるほどに。

「導きの鳥、金烏きんう。そなたが今ここにいるのは、たまさかではない」

 颯矢太は思わずのように、自分の右手を見た。革の手袋の下には、八咫烏が刻まれている。トリの証として。太陽にすむと言う、三本脚の金烏の姿を、刻んでいる。

 そして蛇神は、しずかな目で都波を見る。


「ここは神の住まう国。兆しの姫。春を言触れて、あなたが国を目覚めさせるだろう。人に国に、あなたがその価値を見いだすならば」

 そう言って、蛇神は瞳を閉ざす。現れたときと同じ唐突さで、風に消えてしまった。



 ――国が、よみがえる。

 あまりにも、途方もない話だった。



 椿のまわりは雪も風もやわらいでいる。玉垣がなくても、神の力に守られた神垣にいるようだった。


 守夜が再び、雪の中に吠える。池野辺の神垣の方から、雪煙りを上げて馬が駆けてくるのが見えた。

 馬上には、毛皮の外套を纏って、革の頭巾をかぶった人の姿が見える。神喰かと颯矢太が身構えたが、馬上の人は、都波たちに大きく手を振った。

 ひらりと馬を降りて、気負いのない動作で歩み寄ってくる。


「お前たち、まだ生きてるか」

 拓深はいつもの調子で、さらりと言った。

「拓深さんこそ、無事だったんですか」

「ああ、馬を逃がそうと思って、奴らとやりあっていたんだが、突然大池の水が吹き出したんだ。火を消して、神喰を全部打ちのめした。あれは俺も驚いた」

 あっさりと言うが、都波と颯矢太を逃がしてから、神喰に抵抗する皆にまぎれて奮闘していたのだろう。

「そうしたら、都波がいないと司が騒いで、俺が探しに来る羽目になった。都波は凍えているに違いないと、大騒ぎだ。お前たち何があったんだ」

 言いながら拓深は満秀を見て、神喰の少年を見て、椿を見た。すべて分かったわけではないだろうけれど、ここでも何かの不思議が起きたのだと、察したのかもしれない。


 都波は拓深の問いには答えずに、食いかかるように言った。

「司は無事なの? みんなは?」

「何人かやられはしたが、ほとんどは無事だ。とりあえず今はな」

 持って回ったような言い方に、都波は胸がざわつくのを感じた。

「今はって、どういうこと」

「里長の御館や社は無事だが、皆の家も蓄えも燃えた。いくら神垣の中と言っても、凍える者が出る。食料もない。池野辺は森と水があるから、しばらくはしのげるかもしれないが、次の収穫までもつかわからないな」


「池野辺が滅びるって言うの?」

 高く声を上げる都波に、拓深はめずらしく、厳しい表情で言った。満秀を見て。

「そうだ。俺も颯矢太も、そういう里はいくつも見てきた。神垣も垣離も」


 家を焼かれて、皆が玉垣に閉じこもったまま、雪に埋もれて死んでしまう。

 皆あの状況にあってさえ、外に出るのを恐れた。飢えて凍えても、神垣を捨てようとはしないかもしれない。

 神垣は守られている。

 だけど同時に、閉じ込められている。雪におおわれた国で、玉垣の内側に閉じ込められている。


「神喰がまた襲ってくるかもしれない。池野辺で起きたことを知ったら、余計に敵視するだろう」

 もし再びあの軍がやってきたら。考えるだけでゾッとした。もう十分傷つけられて、奪われたのに、また襲われたら。

 そして、血を流して雪の中に倒れている少年を見た。


 神喰は神の残り香を嫌う。「お前が、椿の巫女姫か」と。神喰は言った。

「……わたし」

 声が震える。もしかしたら、自分のせいなのだろうか。

「わたし狙われていた。池野辺に戻れない」

 神垣のある方角を見て、茫然として、都波はつぶやいた。

「都波の生まれたときのことは、里長が口止めしたはずだ。どうして神喰が知っていたんだ」

 思わずのように、颯矢太がつぶやく。

 トリとは別の手立てで雪を渡っていく神喰には、何か別の手段があるのかもしれない。

 このままでは、駄目だ。


「わたし、珠纒へ行く」

 考えるよりも前に、言葉が口をついて出た。声に出すと、思いは確信になった。

 椿の後には、桜が咲く。蛇神はそう言った。そして都波が国をよみがえらせると言った。そのために生み落とされたのだと。


「珠纒へ行く。椿がよみがえりの言触れなら、桜の祭りが実りの予兆なら、わたし行かなきゃならない」

 椿が都波を産んだというのなら、珠纒にも不思議が起きているはずだ。

 何が起きているのか見なくてはならない。

「池野辺がこのままで生きていけないなら、何か答えを知らなきゃいけない」

 どうすればいいのか分からない。けれど春を呼び覚まして、雪に埋もれた国をよみがえらせる。池野辺の神垣が生きながらえるには、それしかない。少しでも早く。


「それに池野辺の人たちは満秀を受け入れてくれない。わたしたち、満秀が落ち着ける場所を探す約束をした。一緒に行く」

 犬と寄り添って立つ満秀を振り返る。

 こんなところで死んではいけないと言った。だから、池野辺を救うだけではなくて、満秀が生きていける場所も探したい。

 誰もが生きていくために、行かないといけない。


「颯矢太、お願い。わたしを珠纒へつれて行って」

 都波は、鮮やかに咲く椿のそばで、敷き詰められた花の上に立って、まっすぐに颯矢太を見た。

 けれど都波の突然の言葉にも、颯矢太は驚かなかった。

「言うと思った」

 小さく笑う。

「一度戻らなくていいのか。司が心配する」

 颯矢太の言う通りだった。司はひどく心配するだろう。神垣のみんなも、巫女姫がいなくなった不吉に、いっそう不安を覚えるかもしれない。だけど。

「戻ったらきっと外には出してもらえない。今なら、このまま行方知れずになっても、あきらめてくれるかもしれない」


 拓深が荷物を持たせてくれたから、旅に出ることはできる。でも外に慣れていない都波が、どれだけ旅ができるものか、想像もつかない。

 それでも、颯矢太がいれば。一緒に来てくれれば。何があっても平気な気がした。


「そうだな」

 颯矢太は、都波を見て、穏やかに笑ってうなづいた。

「行こう。俺は珠纒への道を知らないから、すんなりは辿り着けないかもしれないけど。必ず都波を守って、珠纒に連れていく。池野辺を助けよう」

 都波は顔を輝かせて、颯矢太の首に飛びついた。


「お前たち、戻らないつもりか?」

 拓深がいぶかしげな声を上げる。

「駆け落ちでもする気か」

「茶化さないで。大事なことなんだから」

 好奇を含んだ声に、都波は颯矢太を離して、頬をふくらませる。拓深は意地の悪い顔で笑った。


「駆け落ちって言えよ、その方がおもしろい。――珠纒に行ったことはないが、途中までなら俺の経路だ」

 思いがけない言葉に、今度は颯矢太が声を上げた。

「拓深さん、一緒に来るつもりですか?」

「そもそもトリは二人で物を運ぶものだろう。俺が行かないで、お前一人でどうやって荷物をふたつも運ぶ。しかもひとつは、都波だぞ」

 もののついでのように都波をからかう拓深は、少しの気負いもない。


「俺も、決まった経路をまわることに飽きていたんだ。本当はいろんなところを見てみたいと思っていた。珠纒の桜は、話の種にもなるだろ」

 拓深にからかわれるのは嫌だったが、拓深のいう通り、トリは二人で旅をするもの。拓深がいてくれると心強い。

「ほんとうにいいの?」

「お前のためじゃない。俺が行きたいから行く」

 勝手気ままな拓深は相変わらずだ。

「ありがとう、拓深」

 いつもいじわるばかりだけど、気負わない言葉が、今は頼もしかった。

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