7話 神変の巫女
雪原に、染みのような影が見えた。大きな獣に見えたが、違う。獣の毛皮を着た人だ。
二人が近づいても、少女は身動きしない。ただ雪に埋もれるように立っていた。大きな犬が、少女を守って風上に立ちはだかり、吠え続けている。
「おい! 生きてるか!」
颯矢太は都波を支えながら少女に近寄った。
ぶるぶると震える少女の上に、どんどん雪が降り積もっていく。青ざめた唇を薄く開いて、少女はつぶやいた。
「どうして追ってきた」
「ひとりで行かせられない。颯矢太と、みんなと一緒に逃げよう」
「いやだ」
少女はかたくなに首を横に振った。
ただでさえ、住処を失い、肉親を失って、何もないのに。追い討ちをかけるような仕打ちにあった少女の心は、これ以上傷つくのを恐れていた。
「疑われて、追い出されるなら、わたしが自分で出ていく。もうここで死んでもいい」
受け入れてもらえない。
その痛みも、かたくなさも、わかる気がした。だけど少女の傷は、都波よりもずっと深いはずだ。
「ごめんなさい。みんなひどいことを言ったわ。許してほしいとは言えない」
颯矢太にしがみついていた手を離す。慌てて都波を捕まえようとした颯矢太の手をすり抜けて、都波は雪の中に膝をついた。
颯矢太が包んでくれていた熱が遠くなる。風は刺すように痛い。指はかじかんで震える。髪が凍りついて、息が苦しい。
だけど都波は少女の顔を覗き込んで、微笑んだ。
「ねえ、わたし、都波というの。あなた名前は?」
目線をあわせようとする都波に、力をなくした少女の瞳が静かに動いた。少女は都波の顔を見て、笑みに釣り込まれるように、つぶやいた。
「
「素敵な名前ね。満ちて幸せであるよう、賢くあるように、願いのこめられた名だわ」
少女は戸惑った様子で、都波を見る。目を合わせながら、都波は言った。
「あなたは、生きることを願われたはずよ」
都波の言葉を継いで、颯矢太が言った。
「神垣がだめでも、どこかの垣離なら受け入れてくれるかもしれない。俺が連れて行ってやるから、あきらめるな」
少女はゆっくりと颯矢太を見た。それから、ためらいながらもうなづいた。
ほっとして都波は破顔する。
突然、満秀のそばに控えていた犬が、雪の向こうへ唸りだした。激しく吠え始める。慌てて顔を上げると、明かりが向かってくる。
「立てるか」
雪に膝をついていた都波を、颯矢太が引っ張り上げる。満秀も犬に助けられながら、都波たちのほうへ身を寄せた。
松明を掲げているのは、都波と同じ年頃の少年だった。頬の赤い紋様が、炎にあおられて鮮やかに見える。
「神垣の人間が、まさか外へ逃げるとは」
少年は、嘲笑った。
相手はひとりきりだった、でも都波は雪の上を満足に走れないし、満秀は凍えている。――逃げられない。
颯矢太は、都波をかばいながら、手にしていた椿の杖を構えた。犬は満秀を後ろにして、吠え続けている。
「神垣の子と、離里の娘と、トリか。妙な組み合わせだな。この国の縮図のようだ」
神喰自身を入れれば、まさにその通りだった。人間の狂気に脅かされ、自然に晒され、竦む人の姿だ。
「何がおかしいの。あなたたちは、何がしたいの」
神喰の気配は、満秀とはあまりにも違う。風雪でさえ、少年の纏う害意を飛ばせない。寒気に麻痺したような肌でも、少年から感じるおぞましい気配にピリピリする。颯矢太が、都波を神喰の目から隠すように前に出た。
「神の残り香をすべて取り除く」
神喰は笑って言った。
「お前たちは、この国の有り様を嘆いてはいないのか。恨みに思わないのか。この国は人のものだ」
呪詛のような言葉だった。
「そうやって争ったから、何もかもを失ったんじゃない!」
都波は叫ぶように言った。
だから、国は祝福を失い、雪に閉ざされるようになったのではないのか。
「違うというのなら、止めて見せろ。お前は神垣の巫女だろう」
神喰の少年は、松明を捨てて剣を両手で握りしめた。
「何が俺を罰するというのだ、これ以上!」
この国はもう何もかもを失っている。高みから神々に見張られているわけでもない。罰はいま、受けている。
――もう、見放されているのだから。
神喰が剣を振りかぶる。
守夜が満秀をかばって吠えた。颯矢太は都波を抱えるようにして、雪の中に倒れ込む。ふたりの頭上で、鉄の剣が空を切った。
剣を戻し、ふたたび少年が襲いかかってくる。颯矢太は卯杖を捨てて、腰の短刀を抜いた。剣を受け止める。風の中に金属がぶつかる音が響く。
猛然と向かってくる神喰の少年に比べて、都波と満秀をかばう颯矢太は不利だった。
それに颯矢太の短刀は、人を害するためのものじゃない。旅をするための道具だ。神殺しの剣を持ち、人を殺すことにためらいのない神喰とは違う。
神喰は、颯矢太を蹴り飛ばす。間髪入れず剣を振り上げた。
神喰は神秘を嫌う。だから、神垣の巫女である都波を狙ってくるかと思っていた。
だけど神喰は、颯矢太を狙っている。何よりも邪魔な雪人を。
――そうだ、神秘を嫌う神喰が、日の神の加護をうけるという雪人を、人々をつなぐトリを嫌っていても、おかしくない。
剣の切っ先が颯矢太に向かう。
「颯矢太!」
ゾッとした。都波の体中を、ひどい寒気が駆け巡った。吹雪で凍えた体を、寒さとは違う震えが揺さぶった。
都波はとっさに、颯矢太が落とした杖を拾う。それは椿の枝で作られた杖だった。都波が颯矢太に、旅の助けになるようにあげた
――颯矢太を、失いたくない。
里を失った満秀が悲しかった。池野辺を襲う神喰が許せなかった。都波や満秀を責める神垣の人たちを思うと寂しかった。その池野辺も、炎に巻かれて、どうなるか分からない。
なのに、この上、颯矢太がいなくなるなんて。そんなこと、絶対にあってはいけないことだった。
都波は卯杖を、無我夢中で振りおろした。鈍い音がして、神喰が振り返る。眼は怒りに燃えて都波を睨む。鋭い鉄の刃がきらめいた。
「都波、逃げろ!」
颯矢太が身を起して叫んだ。積もった雪を蹴散らし、駆けつけてくる。でも間に合わない。
雪の中、パッと鮮やかな色が散った。
雪の白さに灼かれた目に、鮮やかに染みた。
赤い
都波が持つ杖に、花が咲き乱れていた。
赤い大きな椿の花は、次から次に咲いて、杖から零れて花首を落とした。まるで赤い敷物のようだった。
目を見開く都波の手で杖は震え、花を咲かせながら伸び始めた。
緑の照り葉を生やし、上へ下へと枝を伸ばしていく。都波が取り落とすと、雪の中へと突き刺さり、根を生やした。
見る見る枝葉が広がっていく。気がつくと、椿の大木が、雪の中に力強く立っていた。
木に防がれて、剣を振り上げた神喰の少年は、そのまま固まっていた。呆気にとられて動けずにいる。
誰もが、動けずにいる。
かつては八百万の神が住まった国だと聞いてはいた。
確かに、見えない壁のようなものが神垣を守っていて、神の息吹を感じてはいた。感じていると思っていた。
でもたぶん、どこかで、分かっていなかった。
これはこの国の、そういった形なのだと、当たり前に受け入れていた。いつも目にする現象を、神秘だと思ってはいなかった。
誰も、これほどにもはっきりとした神変を、神秘を目の当たりにしたことなどないのだから。
誰もがどこかで、お伽噺でしかないと思っていた。
都波の体が震えた。寒さにではない。歓喜ではない。もちろん怒りでもない。
「なんだこれは」
神喰の少年が唸るように言った。
「お前が、椿の巫女姫か。人を惑わす、
神殺しの剣を再び振りかぶる。
「お前は一体、何なんだ」
その問いには、都波自身も答えられない。
「都波、逃げろ!」
颯矢太が都波をかばって腕を引いた。
突然、ほのかな光が、都波の傍にともった。しろく、青く、光が揺らめいた。
「その子を殺すな。本当に、神殺しの罪を着たくなければ」
悠然と声が落ちる。
ふわりと、あたりがさらに温かくなる。炎にあおられる熱さとは違う。まるで都波を避けるように、雪も風もなくなっていた。
都波のそばに男がいた。風に遊ぶ青白い髪は、雪の中でも輝いている。その頬は白い。まるで血が通っていないかのようだ。
金褐色の瞳が、静かに都波を見ていた。
すらりとした男は、その長身に薄物の衣しか身にまとっていない。裸足で雪と椿を踏みしめている。
こんな色を持つ人を、見たことがない。
里の人間はみな都波と同じように、黒い髪と瞳をしている。神喰でさえ。人はそうであると、誰もが思っていた。
雪人である颯矢太たちを除いて。雪人は、赤みかかった茶色の髪と金茶の瞳をしているが、彼らは日の神の加護を受けていると言われている。だから、人と違う色を持ち、人よりも雪に強いのだと。
それなら、このひとは。
「なんだお前は!」
神喰が再び叫ぶ。
「わたしか」
男が腕をゆるりと持ちあげる。
「お前に答える意味がないな」
腕を薙ぐ。
同時に、きらきらと輝く何かかが神喰の少年を取り巻いた。
水だ。大量の水が飛沫を散らしながらぐるぐると取り囲む。そして唐突に止まった。水は音をたてて固まり、氷になり、冷たい刃が容赦なく少年を襲った。
砕けて、血飛沫とともに、雪の中に散った。
そして唐突に、吹雪に負けない轟音が、神垣の方から聞こえた。都波は驚き振り返る。
玉垣の内側で、大量の水が立ち昇っていた。
太く天を突くように昇った水の柱は、神垣の上に降り注いだ。雪を照らしていた赤い炎が消えていく。
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