6話 内側のおそれ
社へ続く道の門をくぐって山を登る。山の中では、枯れ木や椿の葉の影に、人々が息をひそめていた。
都波と一緒に駆けてきた大きな犬に驚きの声が上がる。都波は、社の方から歩いてくる人影に気づいて駆け寄った。果歩たち巫女と、司だ。
巫女たちの白い衣服は、雪明かりの森でも目立った。都波が何か言うよりも先に、司は都波を見て、安堵の息を吐く。
「都波、無事だったか。そなたのことだから、まっさきに異変を見に行ったのではないかと心配だった。良かった」
司が、手にしていた織布を都波に着せかけてくれた。落ちないように、肩帯で結びつける。
椿の繊維から糸を取り出して織った白妙の布だ。椿の花で染めた色糸を織り込んだ織布は、絹綿をつめ、二重になっていて温かい。
「わたしは平気、司の方が寒いでしょう」
「いいから、着ていなさい」
司は、大きな木の根元に座り込んだ。都波が駆け寄って支える。火はそこに迫っているのに、雪の積もった森の中はひどく冷えた。
颯矢太は司の前に立つと、はっきりと言った。
「司、山に隠れていても、火がここまできたら危ない。みんな一緒に外に出たほうがいい」
司はしずかに顔をあげて颯矢太を見る。神の遺した力に守られて、神垣の中にいた巫女の司に、ここを捨てろと言うのは難しいことなのかもしれない。
けれど、司が何か言う前に、森の中で誰かが声を上げた。
「――神垣の外に出ろと言うのか」
他の誰かが言葉を継ぐ。
「外に出てどうするんだ、どこに行けばいい」
颯矢太は顔をあげて、森にいる人々に向けて言った。
「近くの神垣か、垣離の里に受け入れてもらえるかもしれない。それが嫌なら、一度外に出て、神喰をやり過ごしてから、戻ることが出来るかもしれない。とにかくここに固まって、焼け死ぬのを待つよりいい」
「大池はどうなる。蛇神は。神喰は、神垣の神を奪うと聞いた」
「玉垣を壊して、池を埋めるのかも」
「それなら、神垣はもう神垣でなくなってしまう」
神垣は、神の遺した加護のもと、玉垣を作って神域としていた。外の雪や風から守ってくれるものとしてだけでなく、その不思議の力の源は、神垣の人々にとっての拠り所だった。
「でもこのままじゃ、神喰に滅ぼされた他の神垣と同じだ。俺はいくつも滅ぼされた里を見た。同じようになってほしくない!」
颯矢太がもどかしげに声を荒げる。
言い争う間にも、木や藁の燃える臭いが、森の中にも漂ってくる。火はどんどん迫って来て、争う声と雄叫びが近づいてくる。
誰かが、低くつぶやいた。
「今年は、いつになく椿が咲きみだれて、おかしかったんだ」
おい、と颯矢太が声を上げた。
司のそばにいる巫女たちは、都波を見て気まずそうな顔をする。奇妙な静寂が満ちて、神喰と里長たちの争う声がいっそう響いた。
もの言わぬ花が、なぜ突然咲きこぼれたのかなんて、誰にもわからない。
でも、いつもと違うことが起きるのは、おそろしいことだ。特に、変わることが少ない、神垣の内側では。
だから、里長は珠纒の桜の話をしなかったのだろうか。同じような奇異が起きたこの神垣での、みんなの動揺を恐れて。
都波はそばにいる颯矢太の手を握り締める。皆の目が、不穏の気配が怖かった。震える都波の手を、颯矢太が握り返してくれる。
司が大きく息を吸って、いつになく大きな声を上げた。
「花の祝いをそのように言うなど。この冬枯れの国で花が咲くことの喜びを、悪しきもののように言うなど。大池のそばの鎮守の森で、誰が言った。蛇神の加護も失うぞ」
その声は、穏やかな司のものとは思えないほどに厳しかった。皆が居心地悪くうつむいた。言い訳のように、また誰かが声を上げる。
「しかしこのままでは神垣が滅ぶ。あの娘が手引きしたのではないか!」
都波の後ろに立つ少女に、皆の視線が向かう。恐怖や戸惑いや苛立ちが、すべてそこに集っていた。突然奇異の目にさらされて、少女は青ざめた。
「ちがう、あたしは何もしてない。そんなことする理由がない!」
「それならば、つけられていたんだろう。あの娘が、穢れを呼び込んだんだ」
少女の頬が震えた。里を失った悲しみと、少女を追いだした神垣への怒りでいっぱいだった少女は、いわれのない恨みをぶつけられて、言葉も出ないようだった。
少女は踵を返して森の奥へと駆けだした。犬がその後を追う。
「待って!」
追いかけようとした都波の手を、司が掴んで止めた。
「都波、行ってはいけない」
老いた司の力は決して強くはないけれど、振り払えなくて、都波は立ち止まった。
「そなたこそが、池野辺を守る神意のあらわれだ。どこにもいかないでおくれ」
その言葉は、研がれていない刃のように、都波の心を鈍く傷つけた。
みんながいつも都波を遠巻きにする。生まれたときの不思議を恐れて。
司はいつも都波を大事にしてくれる。都波を拾って育ててくれた。でもそれは、都波の生まれが特別だから。椿の授かり子として、尊んでいるから。都波が大事なわけじゃない。
都波は唇を引き結んで、司の手から、自分の手を引き抜いた。
木の根に足を取られながら、道のない森の中を追いかける。
このまま集落と逆に進むと、外に出てしまう。鎮守の森の外側をめぐる椿の玉垣は、森と混じり合っていて分かりにくい。
都波が玉垣まで辿り着いた時には、少女の姿はなかった。少女と犬の足跡だけが外に続いている。
椿の玉垣の外で雪は変わらずに強い。足跡はすぐ消えてしまう。少しでも間をおいたら、見失ってしまう気がした。都波は椿の葉をかきわけて、外に飛びだした。
燃える神垣は悲しかったが、神垣の人たちの言葉も、彼らが少女を責めるのも悲しかった。どの言葉も本意じゃないと思いたい。恐怖に突き動かされただけだ。
でも、里を失ってひとりでさまよっていた少女に、投げかけていい言葉じゃなかった。このままひとりで行かせてはいけない気がした。
なんとなく、少女の姿に自分を重ねてしまった。
雪が顔に叩きつける。都波は風をかき分けるようにして、なんとか前に進んだ。指先が凍えて、あっという間に体が思うように動かなくなる。
「都波、ひとりで行くな!」
振り返ると、颯矢太が赤茶の髪に頭巾をかぶりながら玉垣を出たところだった。都波を引き寄せて、外套の中に入れてくれる。冷え切った体に、とても暖かかった。その後ろで、神垣を燃やす炎が、雲に覆われた空をゆらめかせていた。
「あの子を追わないと。池野辺で嫌な思いをしたまま行ってほしくないの」
「わかってる。ひとりで行かせられない。でも神垣のみんなも逃がさないといけない」
椿の卯杖で体を支えながら、風上に立って颯矢太が言う。
「俺が追うから、都波は戻って皆を玉垣のところまで連れてくるんだ」
都波はうなづいたけれど、自信がなかった。みんな、都波の言うことなんて、聞いてくれないかもしれない。外を穢れだと思っているみんなは、神垣から出ないかもしれない。
――都波が少女を追いかけていきたいのは、逃げ出したいだけなのかもしれない。
都波は神垣を振り返る。そして、玉垣のそばに人影を見つけた。あの少女ではない。
「颯矢太、あれ!」
炎に照らされたあかい雪明かりの中、剣と松明を手にした誰かが向かってくる。
颯矢太は振り返り、すぐに都波の腕をとって駆けだした。神垣を背にして、積もった雪を杖でかき分けるようにして進む。
神喰がいるのは集落だけではなかった。
神垣を取り巻く玉垣をすべて壊して、逃げ出す人たちも殺そうと見張っている。いま戻ったら、追われて森に火を放たれるかもしれない。それよりもここから離れて、森に逃げた人たちから少しでも気をそらした方がいい。
ごうごうと耳元で鳴る風にまぎれて、犬の吠える声が届いた。守夜と呼ばれていた犬の声だ。
「行こう、あの子を見つけてから、みんなのところに戻ろう」
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