5話 どこにもいない
正面とは違う小さな門を抜けて、鎮守の森を少し行ったところに、人影があった。
巫女はびくりとして足を止める。
「都波」
聞き覚えのある声がした。闇の中の人影は、神垣の人とは違う毛皮を着ている。
「大駕!」
都波は声の主に駆け寄った。見知った顔にほっとした。
大駕は颯矢太の父親がわりのような人だ。颯矢太のことを知っていて、颯矢太の身を案じる人に会えたことも、都波のこわばっていた心を少し解かせた。
「ねえ、颯矢太が連れて行かれたの。颯矢太は追放されたと聞いたけど、本当なの? 大駕は大丈夫だったの?」
矢継ぎ早の問いかけにも、大駕は冷静だった。都波には応えず、慌てて駆けてきた巫女に言う。
「あとは俺に任せろ。巫女どのは、早く戻ったほうがいい」
振り返ると、巫女は不安そうに都波と大駕を見ていた。都波は巫女の元に駆け戻った。
「助けてくれてありがとう」
その両手を取る。感謝の気持ちを込めて、両手で握りしめた。祈るように。
戸惑った様子で、巫女は笑う。
「ご無事で。咲織の姫をどうか見つけてください」
「うん。わたしもお会いしたいもの。約束する」
最後にもう一度、強く握りしめて、巫女の手を離す。
「見つかるとまずい。急いで行くぞ」
大駕は厳しく言った。
大股で歩き出す彼の後ろを、小走りでついていく。振り返ると、巫女の白い衣装がずっと都波を見送ってくれていた。
都波を逃がしたのが見つかったらいけないはずなのに。都波は巫女に手を振る。
わずかな雪明かりの中、神垣の家々の間を抜けて、桜の木立の下を駆け抜ける。途端に、風が冴えた。
都波は手に抱えていた織布を、頭からかぶって体に巻きつける。この布は目立つかもしれないが、気にしていられなかった。
久しぶりに駆けたせいで、息が乱れて白い息が踊る。
板塀を抜けて、神垣の一番外の土塀に辿り着く。門には見張りの兵がいるはずだ。どうするのだろうと思っていたが、大駕の選ぶ道は、来た時に通ったものと違う。
「颯矢太のことは、俺も聞いた。誰かが、外に運び出したようだ」
懸命についていく都波に、大駕は前を向いたままで、そう言った。
「追放されたって聞いた。でも、颯矢太は雪人でしょ? トリは、大丈夫だよね」
「颯矢太の父親はトリだったが、雪の中で死んだ。雪人と言っても、少し寒さに強いだけだ。傷を負って雪の中に放り出されれば死ぬ。そもそも、殺して捨てられたのかもしれない」
颯矢太はトリだから大丈夫だと言い聞かせ続けた、それをトリの大駕が否定した。都波の体が震えだす。
「でも、颯矢太は平気よね……? 里長は殺さないって言った」
「神垣の内側で人を殺して、穢れを招くのを嫌ったんだろう。里長が気にしなくても、神垣の人間はよく思わないからな」
「それなら」
「トリを追放するなら、足を折って外に放り出す。外で身動きが取れなければ、トリでも危うい」
足を折る。
想像もしなかった言葉に、ゾッとした。
信じられなかった。人が、人をそんなふうに害するなんて。捕えた人をただ痛めつけるなんて。
「誰が、どうして、そんなひどいことをするの?」
「皆、自分たちのよく知らない者は恐ろしいんだ。疑い始めたら止まらない。特に今は、ここの神垣にもよくないことが起きているようだからな」
巫女姫がいない。
大駕は、土塀に添って歩いていく。やがて、目立たない
都波が入って来た門には屋根があったが、ここは土塀の中に隠すように、木の板の扉がある。外から見たら、少しも気がつかないかもしれない。
大駕は、扉を内側に力いっぱい引いた。軋んだ音をたてて、分厚い扉が開く。扉の外は、膝のあたりまで雪が積もっていた。
雪に手をついて、這うようにして外に出る。
途端に雪が頬を叩きつけた。針のようだ。
この神垣まで履いてきた藁の靴もカンジキもない。雪の上はひどく冷たかった。長くはいられそうにない。
後ろから出てきた大駕が扉を閉める。すぐに都波の先に立って歩き出した。
「都波、拓深たちはどうしてる」
風に負けじと、大駕は声を張り上げた。都波は懸命にその後ろをついて歩いた。
杖もなく、一歩一歩を前に進むのが、ひどく困難だった。こんなに風や雪が強いのは、今までの旅の間でもなかった。
「近くの垣離で待ってる予定だったけど、どうなったかわからない」
「そうか」
大駕はちらりと都波を振り返る。
降り続ける雪の中、歩いてくる人影が見えた。都波は思わず叫ぶ。
「颯矢太!」
大きな口をあけたせいで、喉の奥に空気が突き刺さる。でも構わずに駆けだした。
「おい、都波。勝手に行くな!」
大駕が怒鳴る。だけど、雪をかき分けるようにして、もがきながら進んで、都波は気がついた。
違う、颯矢太じゃない。颯矢太よりも背の高い、見慣れた姿だ。
一瞬がっかりした。そんな自分を叱咤して、都波は声を上げる。
「拓深!」
都波は拓深に駆け寄った。
「颯矢太は? 颯矢太に会わなかった?」
拓深は不信そうに眉を寄せて都波を見ただけだった。何を言っているのか、と言うように。そして、都波の後ろの大駕を見る。
「大駕さん?」
「拓深、無事だったのか」
大駕は安堵したように言う。けれど都波は、拓深の腕を掴んで、ゆさぶった。
「ねえ、ひとりなの……?」
「お前こそ、なんでこんなとこにいる。颯矢太はどうした」
拓深の言葉に、都波は固まってしまった。
「ねえ、颯矢太と会わなかった? ひとりなの? 満秀と鋼牙はどうしたの?」
何かがおかしい。押し隠そうとした不安が、抑えきれずにあふれてくる。
ひとりで先に様子を見に来たのかもと思ったけれど、拓深が、満秀と鋼牙をふたりきりにして、放っておくとは思えない。
荷物すら持っていない。守夜も馬もいない。
でも、そんなにおかしなことが、立て続けに起こるはずがない。
都波はなんとか、嫌な考えをもう一度追いやろうとした。けれど、拓深は厳しい顔で言った。
「神喰に襲われた。満秀はどうなったか分からない。多分鋼牙は連れて行かれた。少なくとも俺が通ってきたところに、人は見当たらなかった。お前と会えただけでも良かった。なんでこんなとこにいるんだ」
颯矢太と入れ違ったんだろうか。まったく別の方向に追放されたんだろうか。
――でも、でも。もしかしたら、近くの神垣に逃げたのかもしれない。
颯矢太が、都波や拓深を残して?
「……いないの?」
拓深の腕を掴んだ手から、力が抜ける。
「どうして?」
風にあらがって立ち続ける気力も体力も、どこかに消えた。雪の重さに負けて、膝から崩れ落ちる。
「立て。都波、お前、そんな軽装で出てきたのか。何があった」
「巫女姫はいなかった。颯矢太は、追放されたって聞いた。もしかしたら……」
声が震えた。なんてひどい。なんてひどいことになったんだろう。
「もしかしたら、足を折られてるかもしれないって、大駕が……」
都波が閉じ込められて、もう三日もたっている。
捕まってすぐに外に放り出されたのなら、三日。身を隠すことのできない雪の中で生き延びられるものだろうか。寒さに強い雪人でも。
「いやだ、颯矢太。颯矢太。探しに行かなきゃ。いやだ!」
都波は雪をかき分けて、とにかく歩きだそうとした。新しい雪はやわらかくて、病み上がりの都波の体力を奪う。
「都波、落ち着け」
拓深は泣き叫ぶ都波の腕を掴んで、なんとか引き止める。
「颯矢太はトリだ、雪人だ、お前よりもなんとかなる。自力でどこかに逃げたのかもしれない」
「でも、怪我をしていたらトリだって死ぬって。拓深は会っていないんでしょう!? 探しに行かなくちゃ」
助けに行かないと。
「わたしが珠纒に行きたいって、我儘を言ったの。颯矢太は優しいから、わたしの無茶を聞いてくれただけなの。それなのに、わたしじゃなくて、颯矢太が危ない目にあうの!?」
「颯矢太は確かに優しいが、馬鹿じゃない。優しいだけでお前の無茶なんか聞かない。お前と池野辺を助けたいと思ったから、お前の我儘を聞いてやったんだ。そのために、ここまで連れて来てやった。人の思いを勝手に無駄にするな」
拓深だって、つらくないはずがないのに、その言葉は冷静で、正しくて、だから苦しい。
都波は顔をおおって、雪の上にくずおれた。
「どうして颯矢太なの」
珠纒の里長が
風がますます強くなる。ごおごおと耳の奥で鳴っている。
「なんだこの風。おい、お前がやってるのか」
拓深の声が聞こえるけれど、何を言っているのかわからない。考えられない。
体が凍える。顔をおおって突っ伏した手の、指先が凍える。だけど、それだけ。
凍えて固まって動かなくても、何も感じない。痛いほどに寒いはずなのに、何も感じない。身が千切れても、きっと何も感じない。
ただ、恐怖に震える。
自分の愚かさが憎かった。珠纒の里長のあの高慢な笑顔が、憎かった。人を陥れて、傷つけて、死ぬように仕向けるなんて。今まで抱いたことないくらい、激しい感情で息が苦しい。
ただ足元に広がる雪。魂をも、言葉をも、吸いこんでいくような白。
雪で空白に塗りつぶされる。抗うことを嘲笑うように。次から次に降り注いで、都波たちを押しつぶそうとしている。
「颯矢太はなんとかなる。その前に、お前がここでくたばってどうする。お前は何のためにここまで来たんだ」
――何をしに、ここに来たのだろう。
池野辺の神垣を救う術が、そのために国をよみがえらせるようなものが、ここに来れば見つかると思っていた。
なのに桜はもう咲いていないし、巫女姫もいない。
凍つる桜も咲かない。春は来ない。
出来ることなんて、何もない。何も変わらなかった。何も分からなかった。
こんなことになると思わなかった。
椿を咲かせた時の驚きが、高揚が、むなしい。国はよみがえるのかもしれないと、希望を抱いていた。でもそんなもの、何の根拠もなかった。
何もできずに、故郷を失うかもしれない。
その上、颯矢太まで、いなくなった。
――何も、なくなってしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます