2話 未だ悪夢の中
万が一にも颯矢太たちとすれ違わないよう、垣離の入り口を見張れる場所で野営を張った。
葉を落としていない木を雪の上に切り倒す。その枝葉の隙間に、別の木から刈り取った枝を括り付けてかぶせた。これだけでも少しは風を防げるし、目隠しになる。
雪を掘り、その下の地面を掘って、火が目立たないように焚火をたく。煙はたつが、夜なら目立たないはずだ。
狩った狼で腹ごしらえをして、満秀は守夜と寄り添って眠った。
吹き荒れる雪を、炎が赤く照らしている。
夢の中で、炎を目指して、満秀はひたすら駆けていた。
何度も見た夢だ。家が燃えている。里の家がいくつも。逃げ惑う人々の悲鳴と、里を踏み荒らす男たちの怒号が聞こえてくる。
守夜が満秀の前を駆け、うながすように戻って吠える。分かってる、先に進みたいのに、風が邪魔をして進めない。もどかしくて、苛立ちがつのる。
――とにかく前へ。少しでも早く。今度こそ、今度こそ!
でも、間に合わない。
これは夢だ。
里がなくなったあの日、満秀は狩りのために出かけていた。帰ってきて、こんな光景に会うなんて、思っていなかった。
満秀の姿に気づいて、男が向かってくる。
毛皮を着込み、片手に松明を、もう片方に剣を持った男だった。雪明かりに照らされた男の頬には、渦のような赤い紋様が描かれている。
神喰だ。
弓に矢をつがえて、怒りを込めて風上へ向けて放つ。
風に押し戻された矢は、男の肩に突き刺さった。胸を狙ったのに風が強すぎた。
満秀は走りながらもう一度矢をつがえる。男が怒りの声をあげて、身を低くして向かってくる。
弓を構える前に、犬が男の喉元に飛びかかって、引きずり倒した。血が吹き出して雪を染める。
雪に落ちても松明は燃えている。満秀は男に見向きもせずその横を駆け抜けた。あとで血を拭いてやらないと、守夜が凍ってしまう。その方が気がかりだった。
やっと辿り着いた里は、どこもかしこも黒煙をあげていた。
「父さん、母さん!」
燃える家の間を駆ける。炎の煽りで頬が熱い。
――間に合わない、もう遅い。
知っていても、懸命に叫ぶ。知っていても、幾度夢に見ても、心が張り裂けそうだ。
満秀の目の前で、家に隠れていた女性が引きずり出されて、切り殺された。
弓の手入れを教えてくれたお姉さんだ。一緒に引っ立てられた老人が叫ぶ。いつも物語を聞かせてくれたおじいさん。
「ここは、
神喰は御神体を奪う。だけど垣離には、神々の名残は何もない。本来ならば神喰の
雪の中を皆で肩を寄せあって、必死で生きてきただけだ。財産もなければ、食料すらも十分なものはない。神の名残にすがっているのは、神垣の里だ。
老人の目の前には、馬に乗った盗賊がいた。頬に赤い紋様。額にも、ぐるりと冠のような印がある。
満秀はつがえた弓を、馬上の男に向けて放つ。
「王!」
誰かが叫んだ。馬上の男の剣が、矢をはたき落とす。馬が驚きいなないて、男の残虐な瞳が満秀を捕らえた。
「逃げなさい!」
老人が声をあげる、その背に剣が降り下ろされる。神殺しの、鉄の剣だ。
満秀は叫んだ。悲鳴なのか怒りなのかわからない。ただ声が口からあふれた。
燃える家の間を、剣を持った男たちが満秀目指して駆けて来る。みな頬に渦のような赤い紋様が刻まれている。
逃げなければ。だけど、父さんと母さんはどこに。
守夜が満秀を守るように、敵に向けて吠え、満秀に向けて吠えている。うながすように。
わかっている、逃げなければ。
だけど、どこへ。
踵を返して、来た道を戻る。里を燃やす炎の間を抜けると、どこもかしこも、吹き荒れる雪で白い。
国中を雪が覆っている。どこへ行っても、どこへ逃げても。
満秀は喘ぎながら目を覚ました。
目の前に炎が揺れて、雪が降っている。まだ夢の中なのかと困惑した。
おかしなほどに早く脈打つ心の臓を抑えて、懸命に息をした。乱れた白い息が、目の前を泳いでいく。
辺りを見回して、拓深と目が合った。
拓深は何も言わず、小さく揺れる火へ視線を戻す。
あの日のことは、何度も夢に見た。
どんなに駆けても間に合わない。誰も助けられない。
逃げるべきではなかったのかもしれない。神食を一人でも殺すべきだったかもしれない。そうすれば、この先やつらが殺す数を、少しでも減らせた。
近くに気配がある。
満秀と変わらない年頃なのに、人の血をたくさん浴びて、目つきもまとう空気も刃のような少年の。穢れた空気だ。
そこに、それがあるというだけで、満秀は自分の心がざらつき、棘だっていくのを感じていた。
気持ちを落ち着けようと、どれだけゆっくりと呼吸をしても、心臓の音はおかしな早さで打ち続け、心はどんどん刃のようになっていく。
同じ空気に触れていると思うだけで、肌が粟立つようだ。
満秀は、噛みしめた奥歯がギリギリと音を立てているのに気付いた。慰めようと、守夜が鼻を押し付けてくる。柔らかい毛並みを撫でて、気を落ちつけようとした。
「ほら」
拓深が、ちいさな杯を満秀に差し出した。湯気が出ている。
「
少し赤っぽい色のお茶は、甘酸っぱい匂いがした。
「そいつを殺したら、少しは気がまぎれる」
鋼牙をにらみながら杯を受け取ると、そこだけ掌がじんわりと熱い。
「まぎれなかったらどうする」
「神喰を皆殺しにする」
拓深は、眉をあげた。そして唇の端を片方つりあげて笑った。
「まあ、好きにしろ。ただ何度も言うが、俺の前では許さない。俺が拾った命は俺のものだ。こいつが俺の手を離れてからにしろ」
何度も聞いた言葉だ。拓深を無視して、満秀は紫蘇茶をすすった。
寒さにかたくなっていた体に、あたたかい飲み物がしみていく。
※
拓深はふいに、雪の中に何かが動いたのを見た。
降り続ける雪の向こうから、かすかだが音が聞こえる。守夜がぴくりと耳を動かし、顔をもたげる。
「静かにしてろ。火を消せ」
地面を掘った時に積み上げていた土を、急いで焚火にかぶせる。火が消えると同時、寒風が襲い掛かってきた。
風除けにしていた木の陰に身を寄せ、息をひそめる。満秀は唸る守夜を抱きかかえた。
闇に降り続ける雪の中、松明の明かりが見えた。いくつか、列をなして動いていく。ざわざわと、衣ずれとも足音ともつかない音が、あたりに響いた。
馬に乗った男たちが数人、その周囲や後ろを、毛皮を着た男たちが
みな頬に赤い文様があった。押し黙った軍が、雪の上を歩いていく。
――神喰だ。
馬には、狼の死骸が括り付けられている。
様子がおかしかったのは、やつらが狼を狩っていたからなのか。ここにたどり着く前から、随分近くにいたことになる。――都波たちは、無事だろうか。
「……王」
思わずのように、鋼牙がつぶやいた。
「どれだ?」
拓深の問いに、鋼牙は口をつぐんだ。眉根を寄せて、顔をしかめて、抑えた声で答える。
「額に印があるのは、王の証だ。王は軍の長だ。
鋼牙の言うように、先頭を行く男の額には印がある。額の印は確かに、他の者にはない。
「あいつ、殺してやる」
満秀が唸るように言う。
「落ち着け。どう見ても多勢に無勢だ」
「そんなのどうでもいい」
「いいから、ちょっと待て」
拓深は軍の中の、王と並んで馬を進める男を見ていた。
「あれは
毛皮を着て、顔に文様を施した人の中で、その男は確かに違和感があった。
首から肩に毛皮を巻き付けているが、頭巾も、着ている衣も、都波が纏っていた織布に似ている。神垣の中で丹念に作られたものだ。
頭巾で顔を隠していて文様は確かめられないが、神喰に見えない。
「さらわれてきたのかもしれない」
「そうは見えないがな」
縄もうたれていない。神喰たちが、剣で脅しているようでもない。肩を並べて馬に乗る様子は、どう考えてもおかしい。
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