7話 遠慮と配慮
※
咲織の姫は、拓深の背中を見ながら、降り続ける雪の上を歩いていた。
風雪が二人に強く吹き付けることはなかったが、周囲には暴風が吹き荒れて、新しい雪で足場は悪い。爪先が刺すように冷たい。
ふいに拓深が強く手を引いた。見上げると、前を指さす。雪に白く霞む視界に、大きな影が見えた。
「目印だ。あそこまで行ったら、少しだけ休む」
拓深は風の音に負けないよう、叫ぶように言った。金茶の瞳を見返し、咲織の姫は首を振った。
「いえ、休んでいる暇など……」
言いかけた言葉など聞かず、拓深は顔を前へ向ける。
雪の中に雄々しく立つ松の風下で足を止める。
拓深は慎重に咲織の姫の様子を見た。頭や肩に積もった雪を払い落としてくれる。
「平気か?」
「わたくしは問題ありません。だから、こんなところで休む前に、早く珠纒に戻らなくては」
「あんたを送り届ける。これはトリとして俺が請け負った、俺の役目だ。焦るのはわかるが、俺の指示には従ってくれないと困る。あんたが、巫女姫としての務めを果たそうとするのと同じだ」
厳しい言葉に、何も言い返せなかった。
拓深は咲織の姫の役目を理解して、意を汲んで、無茶な願いを聞いてくれたのだから。咲織の姫自身が、拓深の務めを踏みにじるわけにはいかない。
「でも、あなたは……」
拓深の頬が、寒さで白い。トリだからといって、外套を咲織の姫に渡してしまった拓深が心配だった。
「やはり、これは返します」
外套を脱ごうとした咲織の姫の手を握って、拓深が止める。
「いいから着ておけ。俺は珠纒までくらいならもつ」
拓深は咲織の姫の顔を、探るように見る。
「ひとつきも眠っていて、尋常の体のわけがない。慎重になった方がいい」
真剣なまなざしは、少しの二心もないのがわかるが、遠慮のなさにたじろいだ。
巫女姫を、こんな風に見る者は、今までいなかった。禊ぎの社へ不躾に踏み込んできた、里長以外は。思わず目を伏せる。
そしてやはり、拓深の言葉は正しい。
体の感覚が自分のものでないかのように、どこか鈍いのは確かだった。病で寝込んだときのように、手足が衰えているとは感じないが。
いつもなら上着がなくても平気なのに、今は心許ないのも事実だ。
「少しでもおかしなところがあったら、必ず言え。無茶したら後で余計に手間取るだけだ」
「わかりました。……ありがとう」
ようやく頷くと、拓深は笑ったようだった。咲織の姫がかぶった領巾の上から、くしゃくしゃと頭を撫でた。
「巫女姫というのは、強情な生き物なのか」
一変して、からかうような声だった。
驚いて、背の高い拓深を見上げる。そんな反応を予想していなかったのか、拓深はすぐに手をどけ、その手をあげたまま言った。
「悪い。不快だったら謝る」
咲織の姫は、目を瞬いた。
「いいえ、驚いただけ」
「そうか」
拓深は笑ってから、咲織の姫の手をとる。
「知らないうちに倒れられたら困るから、このまま行くが、平気か」
拓深は、しっかりとつないだ手を見て言った。
今更のことだった。何故そのようなことを聞くのかと思ったが、里長のことを気にしているのだろうか。――それならば、本当に今更だ。
「問題ありません。気にしないで」
「分かった。じゃあ、行くか」
気負わずに言って、拓深は咲織の姫の領巾を整えた。
木の陰を出て、再び雪の中を歩き出す。ただ拓深の背中を見て、それだけを頼りに、ましろな中を歩いてく。
そして咲織の姫はもう一度、拓深がしっかりと握った手を見た。少しも不安にも不快にもならないのが、自分でも不思議だった。
拓深は少しの遠慮もなく、こうして触れてくるのに。――あのようなことがあったのに。
拓深がトリだからだろうか。咲織の姫が神垣の外を行くとき、はぐれないようトリに掴まって歩くのはいつものことだった。
この深雪の国で、トリを信じられなければ、生きてはいけない。たとえ神垣の外に出なくたって、トリが運んできてくれる外の物を、外とのつながりを疑っては、生きていけない。
ただ――快活な態度に、振り回される。
何故だろう。やはり、少しも不快ではないのだけれど。
咲織の姫は、ひとつき前のことを思い出していた。
その朝、咲織の姫はいつものように、薄明のうちに目を覚ました。
身を起こし、寝具から出る。年が明けてまだひとつき、空気は冷たく、木の床はひやりと爪先を凍らせた。
寝間着を脱いで、白い麻の衣に袖を通す。薄紅と濃い藍に染められた飾りの帯を結び、肩襷をかけてから、毛織物の上掛けを羽織る。
「咲織の姫、お目覚めですか」
布の帳を下ろしただけの入り口から、若い娘の声がする。
「起きております」
返事をすると、遠慮がちに巫女が入ってきた。身支度を整えた咲織の姫を見て、ちいさくため息をつく。
「いつもお早いですね。お起こしして、身支度をお手伝いするのもわたくしの役割ですのに。形無しですわ」
「これくらいのこと、皆の手をわずらわせるわけにいきませんから」
「いつか、あなたが眠っておられる間に起こしに参りたいものです」
巫女は苦笑する。少し嬉しそうに。
咲織の姫は、かつて王宮のあった跡に建てられた御館に住まっている。
そこは塀に囲まれたいくつかの棟が連なる場所で、そのうちひとつが、巫女たちの住まう社だ。同じ塀のうちには、里長の住まう棟もある。
塀を出て、鎮守の森へ向かう。ここには、凍つる桜が座している。毎朝この桜のもとを訪れるのが習慣になっていた。
都が焼かれ、かつての王宮も焼かれた後、ただひとつ残ったと言われる桜。今はその大木の周囲に杭をたて、注連縄が渡されて、人が近づかないようにされている。
杭に手をおいて、大きく広げる枝を見上げた。焦げ茶の枝にうっすらと雪をかぶって白い。
「まだ春を告げてはくれないわね」
年が明けて、まだひとつき。桜が咲く季節ではないのはわかっているけれど。
咲織の姫は共の巫女と一緒に、珠纒の神垣の玉垣を通りすぎる。
桜の木立は凍つる桜と同じように、白い雪をかぶっていた。
ただ凍つる桜と違い、あとふたつきもすれば、薄紅の花を咲かせて葉を繁らせるだろう。桜が咲けば、実りの祭りだ。
板塀の玉垣の門を通り過ぎ、雪かきをする人々に声をかけながら歩く。手にしていた
土塀がぐるりと神垣を包んでいる。そこにある門の屋根の上には、ずっしりと雪が積もっている。
門の側の駅舎の前では、トリがふたり、馬を一頭つれて待っている。今日は壮年のトリと、若いトリの組み合わせ。
「直杜どの、篝野どの、今日もお願いします」
はい、とふたりとも、明るい顔でうなづく。
「馬にお乗りになりますか」
「いいえ、歩きます」
毎朝のやりとりだ。
共の巫女とは、ここで別れる。何度か一緒に行くと言われたが、危険な目にあわせるわけにはいかなかった。神垣の巫女は、社の中の井戸で禊をする。
咲織の姫は雪人ではないけれど、なぜか他の里人よりも、外での寒さに耐えることができた。トリたちが、咲織の姫と一緒にいると、外の空気がやわらかく感じると言うほど。
「寒い中、警衛ご苦労様です」
門番が雪の上に膝をつこうとするのを、咲織の姫は微笑みながら止める。いつも止めるのにやめてくれない。
「咲織の姫、お目見えできて光栄です。今日もどうぞご無事で」
「ありがとう。皆も体を壊さぬよう、気を付けて」
声と共に、白い息がもれる。門番たちは、寒さでこわばった頬に笑みを浮かべ、頭を下げた。
見送られて、トリに続いて神垣の門を出た。
途端に、激しい風が吹き付けてくる。風上に立ってくれるトリの腕に捕まって、行く方を見失わないよう、歩き出す。
咲織の姫は毎朝こうして、神垣の外に出る。水の神を祀っていた水の宮に出向き、その泉で禊をするのが習わしだった。
「姫」
咲織の姫の耳元で、直杜が声をあげた。
「すこし先に、人がいます」
咲織の姫は、迷わずに言った。
「直杜どの、迷い人ならば助けて」
「いや、どうもおかしい。このまま進みましょう。神垣へ戻るよりも早い」
雪人ほどの目を持たない咲織の姫には、詳しい様子が分からない。手慣れた直杜に判断を任せ、咲織の姫は頷いた。
雪の中に小さな建物が見えてきた。簡素な木枠の門が建っている。背は高いが、人がひとり通り過ぎられるだけの、扉を持たない小さな門だ。その脇から細い枝の生け垣が続いている。
門を潜り抜けると、神垣の中のように、体を包んでいた寒気がやわらかくなった。
トリは門の内側にはいると、いつもそこで外を見張っていてくれる。
「外にいた人は平気かしら」
「わたしだけで少し探しに出ます。馬と篝野をおいていきますから」
直杜は外を行くときの装備をとかないままで言った。
「お願い。でも無理はしないで」
はい、と無精髭をほころばせ、直杜は再び吹雪の中へ戻っていった。
背中を見送って、咲織の姫は頭にかけていた領巾を脱いだ。頭や肩にかかっていた雪を払い落としてから、うっすらと雪の積もった道を歩き、建物へと向かう。
水の宮と呼んではいるが、ここにあるのは、ちいさなお社だ。かつては大きな宮が建ち、水の神を崇めていたというが、その面影はない。
ちいさな社の裏手には、ちいさな泉がある。
この泉は凍らない。いつも透明な水をこんこんと湧かせている。
桶に水をくんで社に戻ると、咲織の姫はちいさな社の床や壁を清めた。
それから、着込んでいた上着を脱ぐ。薄物の着物一枚になると、再び社を出て、階段を降りる。
ゆっくりと、泉の中に足を進めた。
凍っていなくても、雪が舞い降りる泉は冷たい。けれど、刺すような鋭さはなくて、どこかじわりと肌に馴染む。
泉は小さいが、とても深い。水の中に肩までひたして、ひとつ、
身を清く保つことを誓い、この絶えない水の恵みを、そして実りを、神垣にもたらされるよう願って。
「咲織の姫!」
トリが叫ぶ声がする。ただならない声音に、咲織の姫は顔を上げた。
怒号が聞こえる。この聖域で、あってはならないことだ。
咲織の姫は社を振り返り、慌てて水からあがる。途端に、冷たい風が濡れた体をさいなんだ。まとわりつく髪や着物が重い。
階段を駆け上がり、社の扉を開く。
社は、巫女以外は足を踏み入れてはいけない場所だ。なのに、いるはずのない人がいた。
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