第三章 ほむら

1話 黒煙


 満秀は様子を見るために、拓深たちよりも先に進んでいた。警戒していた狼の遠吠えはいつの間にか聞こえなくなった。

 さっきまでは穏やかだった雪がどんどん強くなってくる。足の踏み場を探しながら山を登っていると、白い息が目の前を踊った。


 木や繁みの間を、守夜と共に登っていくうちに、ささやかな違和感がある。獣が踏み分けたのとは違う、何か覚えのある感覚だった。

 先へ進もうと木に手をついて、気がついた。木の根元、丸い麻縄と、小さな落とし穴が雪に埋もれている。


「罠か」

 守夜が呼ぶ声がして、そちらに向かうと、肉を巻き付けた短刀が雪の上に置かれている。

 肉を食う獣向けの罠だ。肉はすっかり凍っているが。

「危ないから、食べるなよ」

 守夜の頭を撫でてから、満秀は元来た道を駆けだした。木々の間を軽々と走り、馬を連れた拓深のもとに戻る。


「動物を狩る罠があった、きっとそろそろだ」

「本当に垣離が近くにあるのか」

 拓深は、馬上の鋼牙を見上げる。

 都波が見つけた馬を回収して、結局また鋼牙を連れて、雪の中を歩いている。


「都波が離れると、天候が悪くなるな」

 拓深が思わずのようにつぶやいた。

 満秀は彼らに背を向けて、再び山を登り始める。


 少し進んだ山の尾根の向こう、雪の降る白い景色の中に、黒煙が見えた。

 こんな天候で、山火事とも思えない。誰かが火を焚いている。


 山の中腹、小高く切り立った斜面に、大きな穴があった。

 人が何人か通り抜けられるような大きさだ。崩れないように、木枠が門のように支えている。

 垣離の里だ。本当に――ほんとうに、あったのか。


 満秀は駆け寄り、垣離の里の人たちに危険を告げようとした。ここは神喰に知られている、危険だ、と。

 けれど、何か様子がおかしい。

 人の声が少しも聞こえない。穴は暗いだろうに、明かりの一つも見えない。

 黒煙が上がっているのは、入り口とは別のところだ。排気のための穴があるのか。もしかしたら、皆奥にいるのかもしれないが。


 入り口の前は木々が伐られ、少し開けている。そこに飛び出す前に、満秀は足を止める。問うように守夜が見上げてくる。

 満秀は唇をゆがめ、踵を返した。




 拓深たちのところに戻ると、鋼牙は馬を降りて、木の枝で作った杖をついていた。

 満秀が睨みつけると、鋼牙は眉をしかめる。

「言っただろう、俺は垣離に行かない」

 満秀が戻る前に去るつもりだったに違いない。


「入り口らしきところはあったが、様子がおかしい」

 満秀が拓深に告げると、拓深は唇を釣り上げて笑った。

「勝手に中に入らず戻ってきたのか、短気なお前にしては懸命だ」

 うるさい、と言い捨てる。

「人の姿がない。声も物音も聞こえない」

 満秀は大股で近寄って、鋼牙を睨み付けた。


「お前、何か知ってるんじゃないのか」

「俺は王たちと離れて随分たってる。何も知らない」

 ――王。

 その呼び名に、満秀は歯を噛みしめる。


「どうして垣離の場所を知っていたんだ」

「俺たちも意味なく雪を移動しているわけじゃない。狙うべき場所はいくつも把握している」

「お前……!」

 満秀が少年に手を伸ばすと、拓深が満秀の腕を掴んで止めた。


「本当に、何も知らないんだな」

「今まで黙ってくせに、急に教えるなんておかしいだろう!」

 詰め寄る満秀に、鋼牙は眉をしかめた。

「どうしてお前らのためになることを教えないといけない」

 それなら急に気が変わったのはどういうわけか。やはり罠なのか。

 鋼牙は顔をゆがめたまま、雪の降りつもる地面を見て言った。


「二度命を助けられたのは事実だ」

「二度目にしてようやく恩を返そうっていうのか?」

 拓深がおもしろがって言うと、ますます不機嫌になった。

「恩など感じていない」

「だろうな」


「俺たちには使命がある。神の残滓を排除して、国を人の手に取り戻す。そのために戦で死ぬ。つまらないことで命を落とすのは無駄だ」

 鋼牙は頑なに言った。

 池野辺で都波を襲ったとき、神喰を雪の中で拾ったとき、その目は奇妙なほど真っ直ぐに、殺意すらなく真っ直ぐに、同じことを言っていた。

 けれど今鋼牙は唇をゆがめて拓深をにらみつけている。


 弓に手が伸びた満秀を抑えて、拓深はやれやれという調子で言った。

「手のかかる都波がいなくなるとこればっかりだな、お前らは。ここで言い争っていても埒が明かないし、雪をどこかでやりすごしたい。とにかく行ってみるしかないだろう」

 鋼牙は唇をゆがめていた。

 苛立っているような、悔しそうな、どこかつらそうな表情だった。すぐに、表情ごと顔の文様を頭巾で隠し、二人の後に続く。




 垣離の人々は、山の中へ穴を掘り、そこに暮らしていたようだった。

 満秀はさっき見落としていたことに気づいた。入り口を支える木の門が、黒く焦げ付いている。

 嫌な予感がする。

 うずく心臓にせかされるように、満秀は駆けだした。守夜が先を行き、中に吠えかかる。

 入り口には、男たちの死体が転がっている。


 その奥に、柵で囲われた場所がいくつかあったようだった。動物らしき死骸がある。何かを飼っていたのか。焼け落ちていて、想像することしかできない。

 天井にいくつか穴を開けてあって、そこから薄い明かりがさしこんでいた。黒煙はここから外へ流れていたようだった。


 足を踏み入れると、中にはまだ火の熱がこもっているような気がした。

 穴ぐらは奥へ広がっている。いくつかの家のようになっているようだった。

 焼け落ちた木の壁や扉のようなものがあり、その奥に、黒く焼けた死体が転がされてている。大きいものも、小さいものもある。


 ここには人が住んでいたはずだ。

 これでは、逃げられなかっただろう。入り口はほかにもあったのかもしれないが。すべて塞がれて火を放たれれば、もうどうしようもない。

 胃の腑の中が煮えるようだ。こみあげてくるものがあって、懸命に飲み込む。

「勝手に先に行くなって言うのに」

 拓深が追いついてきて、口を閉ざした。さすがに拓深も表情をなくして、燃え跡を見ていた。


 薄い雪明りに照らされて、入り口に鋼牙が立っている。そこで立ち尽くして動かない。

 満秀は地面を蹴りつけ、走る。鋼牙に掴みかかった。

「お前……! お前が、この人たちを!」

「俺は知らない」

 満秀を見返す鋼牙の、顔の文様が憎い。見るたびに、満秀の里を襲った奴らを思い出して、心がざわつく。


 拓深は乱暴に満秀の腕を掴むと、鋼牙から引き離した。

「落ち着け、満秀。こいつはずっと俺たちと一緒にいた。俺も颯矢太も、妙なことをしないか見ていたし、仲間に合図を送った様子もなかった」

「こいつの仲間がここを襲ったんだ! こいつがやったのと同じだ!」

「それは横暴だ。池野辺を襲ったのはこいつの罪だが、全部一緒くたにするな」

「同じだ!」

 吐き捨て、満秀は拓深の腕を振りほどく。


 踵を返して、満秀は焼け焦げた残骸の間を、踏み鳴らして歩く。

 悔しくて悔しくて、涙がにじむ。


 垣離があると聞いて、もしかしたら、今度こそ受け入れてもらえるかもしれないと思った。罠の後を見つけて、懐かしくて、嬉しかった。

 それなのに、またこんなことに。みんなまるで、拒絶するように満秀をひとりぼっちにする。


 けれど神喰の前で泣くのが悔しくて、拳を握って、懸命にこらえた。

 守夜が心配そうに、満秀の脚に頬を摺り寄せた。満秀はその頭を撫でてから、気持ちを鎮めるために、大きく息を吐いた。


「弔ってやりたい」

「みんな外に運び出さないと。この中では無理だ」


 国が雪に覆われる前は、遺体を壺や棺に入れ、殯宮もがりのみやにおさめ、埋葬して奥都城はかを建てたという。

 だが神垣は狭く、凍土に生きる垣離も人を埋めることは厳しい。いつしか、また新たな体を得て国へ戻ることを願い、遺体を焼くのが倣いになった。


 トリが旅の間で死ねば、神垣の駅舎へと遺体を連れ帰ることも難しい。

 トリは旅に生きて旅に死ぬ。その言葉通りに、同行していたトリが、死んだ者を称えるしのびごとをたてまつり、遺体はその場に残して去るのだという。

 その魂が鳥となって旅立ち、彼らのもとへ戻ってくるのを祈って。遺体はそのままいずれ凍って雪の下に沈むか、獣の餌になる。

 そうしてこの国に還る。


 拓深が鋼牙を振り返る。手を貸せと拓深が言い出しそうで、満秀は叫んだ。

「お前は、中に入るな」

 声が穴ぐらの中を反響した。

「お前は、触るな。皆を苦しめた手で、それ以上あたしたちに触れるな」

 鋼牙は何も言わなかった。身動きもしなかった。


 拓深は入り口に鋼牙を残して、焼け落ちた柵や木の黒い煤の間を歩いてくる。

「神喰は、襲ったところに戻ったりしないのか?」

「俺たちは掌握した里を拠点にすることが多い。戻ってくるかもしれない」

 だろうな、と拓深はため息をついた。

 満秀の後ろに立って、満秀の頭巾の上から、頭をくしゃくしゃに撫でる。落ち着け、とは言わなかった。


「弔ってやりたいのは分かるが、今は危ない。少し様子を見よう」

「でも」

「生きてる者の命を危険にさらしてまですることじゃないだろう。様子を見て、また戻ってきたらいい」


 満秀は歯を食いしばって、穴ぐらの中に倒れた人たちを見た。

 黒く焼け焦げて、老人なのか若者かもわからない。もう焼けてわからなくなった遺体でも、このままではあんまりだ。


 拓深は、満秀の頭をポンポンと軽く叩くと、歩き出した。

「颯矢太たちが来たらやっかいだな。とりあえず、今日は近くで休もう」

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