7話 神意
※
桜の玉垣の中では、巫女たちが怪我人を運び込み、人々が逃げるのを手伝っていた。
里長の御館へ運び込んでいる。
それを乱暴にかき分けるようにして里長は門をくぐり、門衛へ叫んだ。
「ここを開けるな。凍つる桜を守るため、このあたりを兵で固めろ」
「どこへ行かれるのです。助けてくださらないのですか。神垣の皆を見捨てると言うのですか!」
巫女が叫んだ。神垣の人々も兵も戸惑っている。
「御神体あっての神垣だ!」
里長は近衛の兵を従え、都波を引っ立てて鎮守の森へ向かう。
そこにはすでに、逃げてきた神垣の人たちが集まりつつあった。
神垣をまもる神の依代にすがり、身を隠そうと森の中に逃げたのだろう。
里長の姿を見て、ざわめきが広がる。喜びの声と、戸惑いの声と。
「里長、珠纒は持ちこたえられますよね!?」
すがるように言う男に強く笑いかけ、里長は押しのける。
「何の問題もない。この桜が咲けば。神垣を守ってくださる」
凍つる桜を囲む杭を蹴り倒した。
小さく悲鳴が上がる。結界の縄を踏みつけ、神域に踏み込んで、凍つる桜の元に、都波を突き倒す。
「さあ、この桜を咲かせて見せろ」
木の根に倒れ込んだ都波の前に立ちはだかり、剣を抜いた。
広がるどよめきの中、身を起こして、都波は強く言い放った。
「咲かないわ。わたしでは咲かない」
「そんなはずがない。お前がここに入って、この周囲だけ雪が降らない。できるはずだ。この桜さえ咲けば、何もかもの悪いことが消え失せる。神の意志を示せば」
「神意は、あなたの勝手で起こせるものじゃない。御神体の前でさえ平気で人を傷つけて、殺そうとして、願いが聞き届けられると本当に思っているの?」
「応えるはずだ。この神垣は特別だ。桜が祝い、咲織の姫を生み落した。神意があるからこそ、俺はこの神垣を豊かにして、国を豊かにすべきだと思った。俺が導くべきだと」
なんて勝手な言い分だろう。
神垣のためと言いながら、神垣の人々を守ろうとしない里長に、怒りで身が震えた。
「満秀に、約束した。安心して住める場所を見つけるって。ここがそうだと思ったけど、全然違う」
「ここより良い場所などない」
「違うわ! 争いを起こそうとする人のいるところなんて、どの神垣よりも、ずっと悪い!」
「神垣のためだ、この国のために!」
「そうやって国が滅んだのを、あなたは分かっていないの!? 独善で神垣を荒らしておいて、神変にすがるなんて、身勝手よ」
たった数日前に颯矢太と一緒に歩いた時、珠纒は豊かで大きくて、圧倒された。
その珠纒の神垣まで、池野辺のように蹂躙されようとしている。
ここまで豊かな神垣を築くのに、どれだけの人が尽力して、どれだけ長い間守り続けてきたのだろう。それがたった一日で、燃やされようとしている。
元凶となった男は身勝手で、颯矢太を傷つけただけでなく、神喰を呼びこんで神垣を滅ぼそうとしている。
人が人を殺し、神を殺し、争いの果てにこの国は雪に閉じ込められた。
人が神を排そうとしたとか、従えようとしたとか言われているけれど、本当のところは分からない。
里長のしたことだって、彼が何をどうやって国のためを成そうとしたのか、都波には分からない。
けれど、こんなにも人がたくさん死んで、豊かだった神垣は蹂躙されて、それがいいこととは決して思えない。
どういう思いがあったって、いいことだとは、認められない。
そのとき、言い争う声が聞こえた。止まれ、と叫ぶ兵の声がする。それから。
「都波から離れろ!」
聞き慣れた声が、聞いたことがないような怒りを込めて叫んだ。
都波はハッと顔を向ける。心臓を打たれたような気がした。
颯矢太が、桜のもとに駆けてくる。
張り詰めていた気持ちがゆるんで、涙がこぼれた。
颯矢太だ。
涙でよく見えなくて、都波は懸命に目を拭った。颯矢太だ。
脚を折られたと聞いたのに、危なげない足取りで駆けてくる。
そして都波のそばで、里長の前に立ちはだかった。
「颯矢太……!」
都波は颯矢太の首にしがみついた。
旅に出る前、颯矢太が池野辺へやって来た時と同じように。
――いつもと、同じように。
「良かった。無事だった。良かった……」
あたたかい。
颯矢太の外套は血で汚れてごわごわになって、頭巾も血まみれになっていたけれど、抱きしめた体が温かい。
それだけでもう、何もかもが大丈夫だと言う気がした。
池野辺から珠纒まで、都波を支えて一緒に来てくれた。
あんなふうに傷つけられても、都波のところに来てくれた。
颯矢太がいてくれれば、どんな理不尽も耐えられる気がした。
「ひとりにしてごめん」
颯矢太は優しい声で言った。都波は颯矢太の肩に額を押しつけたまま、首を横に振る。
「怪我は大丈夫なの? 足は?」
「心配ない。蛇神が治してくれた。多分」
その言葉の意味を問う前に、里長がうめくような声をもらした。
「お前……。何故生きている。痛めつけて、追放したはずだ」
まっすぐに自分の力で立つ颯矢太を見て、里長は畏れるように後ずさった。
颯矢太は都波を片手で支えて、残った手で剣を掲げる。
「御神体の前で、巫女姫に刃を向けるなんて、どういうつもりなんだ」
「お前こそ、その罪深い剣はなんだ」
颯矢太は、鉄の剣を握りしめる手に力を込めた。
「あんたが、人の罪を言うのか。あんたは神喰と同じだ。自分たちの道理を押しつけて、他の者を苦しめてるだけだ」
「同じなはずがない! 神々を排除しようとする奴らと、国を救おうとする俺が。この神垣を強くして国を救う。そのためには手段など選ばない」
「それが、同じだと言うんだ」
「何の責も持たない者に何が分かる。お前のような雪人に、神垣の人間の何が分かるというのだ。お前が珠纒の何を知っている」
里長は、怒りを吐き出した。
「この神垣の、桜の誉れを知らぬくせに。かつての王宮があった都、珠纒こそが、この国を統べるにふさわしい」
里長の全身から噴き出すような憎悪を、颯矢太はまっすぐに受け止めて、睨み返した。
「あんたが何を知ってる」
低く抑えた声で、そっくり言葉を返した。静かな怒りを込めて。そんな颯矢太を見るのは、初めてだった。
「この国の雪の、何を知ってる。貧しい垣離の、神垣の何を知ってる。地べたに這いつくばって、それでも生きようとしてる人たちの、何を知ってる。そういった人たちを兵で蹂躙して、従えて、どうやって豊かにしてやるつもりなんだ。立て直す前に死ぬ者がどれだけいると思っている。どれだけの里が、そのまま雪に埋もれて滅びるか分かっているのか」
――池野辺が、火無群が、まさに危機に瀕しているように。
都波と旅に出る前、雪に埋もれてしまった里をいくつも見たと、颯矢太は言っていた。
みんな、そうなりたくてなったわけじゃない。絶対に、そんなはずがない。
神喰に滅ぼされてしまった満秀の里だってそうだ。
訪れる神垣は皆、穢れを恐れていた。
自分たちを守りたい気持ちの裏返しだ。
争いを恐れ、変わるのを恐れながらも、トリを迎え入れて、外とのつながりにすがりついて、生き延びようとしていた。
「わずかばかりの犠牲など、国の豊かさを思えば仕方がない。珠纒は、この神無き国にあって、未だ神意あらたかな里だ。俺に従えば、必ず同じように加護が得られる」
その珠纒が今、彼の身勝手で、炎に蹂躙されようとしている。
突然、里長の御館のあたりから喧噪が聞こえた。
悲鳴や怒号が響き、地響きのような音が、鎮守の森へなだれ込んでくる。
騎乗して手に松明を持ち、頬に赤い紋様を描いた男たちが三人、雪を踏み荒らし、集った人々を蹴散らして嘲笑った。
そのうち一人は額にも、ぐるりと紋様がある。
この桜を燃やす気だ。
神垣を守る御神体。これが無くなったら、玉垣の内側も吹雪に埋もれてしまう。
都波は颯矢太にしがみつく手を離した。
凍つる桜を背に、地面を踏みしめるようにして立つ。
「わたしが、あなたの待ってるひとじゃないのは分かってる」
掌を、凍つる桜の冷たい幹にあてて、都波は静かに言う。
以前この桜に呼びかけた時は、ただ颯矢太を助けたかった。
だけど、それはこの桜にとって、身勝手な願いだっただろう。脅されて、それに従って、咲くのを願うなんて。
でも今は違う。
「力を貸して。この神垣を守るために。あなたがいつか、春を告げる日のために」
ふわりと風が吹き下ろした。
凍つる桜を中心に、まるく地面の雪が吹きあがる。
鎮守の森の枯れた木々がざわざわと音を立てた。呼び合うように広がっていく。
里長がたじろいで、後ずさる。
木々のざわめきは、まるで桜が、大地が怒っているようだった。
※
空気が鳴動した。
咲織の姫は顔をあげて、板塀を見上げた。桜の玉垣から離れていてもわかるほど、葉鳴りの音が聞こえる。
ぶわりと風が動いた。
とっさに拓深が咲織の姫の腕を引き寄せてかばう。
神喰たちを薙ぎ倒し、水路をふさいでいた氷雪が粉々に砕けた。破片は煙のように舞い上がり、きらきらと光った。
あたたかい風が開いた穴から吹いてきて、氷雪のかけらを拭き散らした。
咲織の姫は、彼女を抱え込んだ拓深の腕を解く。導くような風に誘われて、水路を抜けた。
溜まっていたはずの雪はすべて取り除かれて、水路は道のように伸びていた。
周囲の家々が黒煙を上げている。逃げ遅れた人たちのたくさんの死体が転がっていた。
この辺りには、住む場所を失って、珠纒に辿り着いた人たちが住んでいた。そんな彼らが、また居場所を奪われている。
守るべき故郷の無残な姿に、咲織の姫は言いようのない怒りと悲しみにかられていた。
風がまだ震えている。嘆くように、怒るように。
炎までもが、風に震える。
異様な光景に、兵も神喰も戸惑っていた。雪人も神垣の人々も。
「おい、何してる」
拓深は姫の手を引っ張って、水路に隠そうとした。
けれど、咲織の姫はその手を握り返して、強く引いた。
「呼んでる」
炎の向こう、ざわめく桜の玉垣を見て、つぶやく。
「行かなくては」
隠れている場合ではない。
咲織の姫が水路をあがろうとすると、拓深がまた膝を抱えて、押し上げてくれた。
雪の上に手をついて、起き上がる。続いて拓深が上がるのを待ってから、咲織の姫は歩き出した。
「皆、桜の神垣の内側へ」
声をかけながら、炎の中を進んでいく。
ひとつき前、禊のために通った時は、穏やかに朝を迎えていたのに。
「咲織の姫」
火を消そうと家に雪をかけていた何人かが気づいた。
咲織の姫の姿に、その声に気づいて、人々がざわざわと色めきたった。
「姫!」
逃げる人たちを誘導していた篝野が、駆けてきた。泣き出しそうな顔をしていた。
「気がつかれたのですか、よかった。ほんとうに」
「このような最中に駆けるつけるなど、危険です」
言葉を継いだのは直杜だった。
「わたくしがここに来ないでどうするのです。――ふたりとも、よかった。あの時ちゃんと逃げられたのね」
咲織の姫は篝野を見て、眉を寄せた。
「ひどく殴られたようだったけれど、平気なの?」
「あのくらい、なんともありません」
よかった、と咲織の姫は、ちいさく安堵の息をついた。
けれど、再会を喜んでいる場合ではない。すぐに厳しい表情で顔をあげて、二人に問うた。
「里長は」
「椿の巫女姫を連れて、たぶん凍つる桜の元へ」
「わたくしも向かいます。ふたりは、皆を誘導して、怪我人は里長の屋敷に運んでください」
「俺は姫の共を」
篝野の声に、咲織の姫は拓深を振り返り、気負わないその目を見て微笑んでから、頷いた。
「彼が来てくれるから大丈夫」
篝野が、姫のそばに立つ拓深を睨み付ける。
「しかし、里長が受け入れるとは思えません」
「かならず、受け入れてもらうわ」
強く断言する。
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