046 2028年8月2日 浦部純
「もう砂の病気を怖がる必要はありません! もう大丈夫です! 外に出て来てください! ユグルタ王子の魔法で、病気から身を守る事ができますよ! 病気はもう怖くありません! いま、咳の症状が出ている人でも、助かりますよ!」
午前9時17分。拡声器によって無闇に大きくなった
世界がこんな風になる前なら、付近を走るバイクの音、近くの幹線道路を通る車の音、洗濯機が動く音、テレビが鳴る音、そんな雑多な人々の営みが生み出す音があったはずなのだが、今はもう、純の耳には一切の音が聞こえてはこなかった。
しているのは微かな風の音と、背後の車いすの車輪がアスファルトを踏む音だけだった。
純は一度大きく息を吐いて、また同じ言葉を叫んだ。歩きながら繰り返し呼びかけ続けた。しかし、いくら叫んでみても、ただ自分の大きな声が、無為に自分の鼓膜を揺らすだけだった。
1時間ほど前、浦安駅前の電気屋で拡声器を手に入れてからというもの、こうしてずっと呼びかけ続けているのだが、誰一人として外に出てくる気配はなかった。
純のように病気に耐性を持たず、室内にこもりっきりでここまで耐えてきた同じ境遇の人間が、それほど大勢ではなくとも現れるものだと思っていたのだが――そういった人間は、思っていたよりも遥かに少ないのだろうか。
いや、そもそも『病気から身を守れる』などという呼びかけは、頭のおかしくなった人間の妄言だと思われているのかもしれない。呼びかけを聞いた相手は、正体不明の言葉だけを信じて、窓を開けるという自身の死に直結する行動を取らねばならないのだ。少しでも怪しいと思われてしまえば、命を賭けるに値しないと思われれば、それまでだろう。
ただでさえ外にはサル化した人や、昨日から突如現れ始めた多様な怪物、奇妙な建物、それに今朝になってから空に現れた不老の異邦人だとかいう大量の空飛ぶ人影と、得体の知れないものが多すぎるのだ。これまで安全だった室内を捨ててまで、外に出たいとはとても思えないだろう。
とはいっても、屋内にいる人たちは、すでに籠り始めてから10日近く経っているはずなのだ。たとえ純の言葉が信じ難かったとしても、胡散臭かったとしても、限界に達し、祈るような気持ちで飛び出してくる人が居たっていいようにも思えた。しかし、実際は未だひとりも現れない、という現実に直面しただけだった。
それでも純は呼びかけ続けた。ぐだぐだと考え時間を無駄にするくらいなら、いつか誰かが自分の声を信じてくれると信じて、呼びかけ続けることのほうが大切だと思えた。 それに、ある程度の人数が集まれば、より信じてもらいやすくなるはずだ。
純が額からこぼれる汗を拭いていると、ずっと後ろからついてきていた車いすが、すぐ隣までやって来た。
「これほど沢山の建物があるというのに、どこまで行っても人の気配がしないというのは、不気味なものだね」
車いすに腰かけていたユグルタは周囲に並ぶ家々を見回して言った。
「ほとんど死んでしまったんだと思います……。私みたいに最初っからずっと籠っていた人なんて、珍しいでしょうから」
純は汗を拭ったタオルを首にかけながら言った。
「いったいどれ程の人々が命を落としてしまったというんだ……」
目の前の2階建てのアパートを見上げていたユグルタは顔を曇らせた。
アパートの部屋の扉は一部が開きっぱなしになっており、よく見ると壁にはところどころ血痕が付着し、乾いて黒ずんでいる。
「……さあ、見当もつかないです……」
これだけ叫んでも人がひとりも顔を出さないのだ。それに、どこからか救援がやってきている気配もないし、空を飛行機なりが飛んでいる様子もない。本当に、本当に、まったく人の気配がない。
たしか日本の人口は1億2千万人ほどだったはずだが、その人たちのほとんどが、死んでしまったというのだろうか。
純は疲れきった頭で、ぼんやりと思い浮かべた言葉の意味を考えて、はっとした。
1億2千万の、そのほとんどが?
ほとんどって、どのくらいなのだろうか。
ほとんど全部、という事になるのだろうか。
つまり1億2千万人が死んだ、という事になるのだろうか。
そう考えてから、純は愕然とした。もう10日以上、この異常な状況に身を置いていたにもかかわらず、どれだけの人が死んだのかということを、具体的に考えたのはこれが初めてだった。
いやいや、1億2千万人の全員が死んでしまったなんていうのは、あまりにも考えが短絡的すぎる。いくらなんでも悪い方向に考えすぎている。
生き残りはどれくらいいるのだろう。
まず、絶対に病気にかからないのは、アニマ・ムンディの一部のプレイヤーらしいが、それはどの程度いるのだろうか。
あのゲームはどれくらい売れたのだったか。
アニマ・ムンディは自分もキャラクターモデル制作に携わったゲームではあったが、データを納品して以降のことはほとんど分からなかった。ただ、ほかのゲームの広告などでは、よく『ユーザー登録200万人突破!』だとか言っているのを目にしていた。しかし、その数字が1千万やそれに近い数字になっているのを純は見たことがなかった。つまり、どんなに人気のゲームだとしても、それ以下だということだ。
ひどく大雑把ではあるが、とりあえず500万人ユーザーがいたとして、さらにその中で生き残れるのは、砂に耐性があるという特殊な理屈に合致する人間だけなのだ。それが果たしてどれ程いるのか、これも純には分からなかったが、とりあえず半分ということにすると、250万人である。
もし耐性が複雑な手段でなければ得られないのだとすれば、生き残りはもっと遥かに少ないということになるが――今はこれ以上悪い方向に考えたくはなかった。
それ以外に、病気が広がり始めて以降、室内に閉じこもることで、今日まで生き残った人がどれくらいいるかだが――
純はそれがどのくらいの人数、どれくらいの割合、存在するのか考えながら周囲を見渡してみた。
数時間、ひたすら呼びかけ続けて、ひとりも出てこないのだ。
胡散臭いと思っているのか、信じられないのか、飛び出す勇気がないのか――
それとも、そんな人はそもそもほとんど存在せず、自分のように、一切外に出ることなく助かったのは本当に本当にごく少数で、あとの生き残りはゲームのプレイヤーだけだったとしたら?
どうなるのだ?
いま生き残っているのは、おおよそ250万人ということになるのか?
250万?
1億2千万に対して、250万?
桁が違いすぎる。たったの2パーセントではないか。それでは、ほとんど端数みたいな数じゃないか。
それじゃあ何か? この災害を報じる海外のニュース映像に、死者数1億2千万、とテロップが出ているのか?
純は額に手をあてた。何かの間違いではないのか。
そう、プレイヤーの数は、自分が想像しているよりも、はるかにずっとずっと、多いのだ。1千万とか、2千万とか、分からないけれども、それくらい居て、だから耐性を持っている人も当然、沢山いるのだ。
そこまで考えて、純は思考を止めた。
どれだけ考えても、具体的なことが分からない自分には、希望的観測か、悪い想像しか生み出せないのだ。そんなものに、どれほどの意味があるのか。
それに、数時間歩いても誰とも出くわさない、という事実は変わらない。少なくともその事実だけが、自分に分かる、確かなことなのだ。
俯いて考え込んでいた純は、顔を上げた。
純の前には、一切の生活の音が絶えた住宅街が広がっていた。
そんな中で、純はぽつんと立ち尽くし、じりじりと照り付ける太陽に焼かれて、アスファルトに影を落としているっだけだった。
「叫びもせず、歩きもせず、ただ立っているだけなら、我々はもう必要ないということだな?」
不意に横合いから声をかけられ、純は驚いて体を震わせた。
大柄のユグルタが乗った車いすを、顔色一つ変えずにここまで押し続けていた、小柄なのアーティエが、感情を押し殺したような冷たい目だけこちらに向けていた。
「えっ、あ、すいません」
純は慌てて拡声器を構えた。
「ジュン、顔色が悪いようだが大丈夫かい? 少し休んだほうがいいんじゃないか?」
ユグルタが心配そうに純の顔を見上げた。
「大丈夫です」
純は強く頷いてから、再び住宅街に向かって呼びかけを始めた。
「――私の他にも、病気を治す力……、祝福を必要としている人が大勢いるはずなんです。だから、あなたの力を貸しては頂けませんか?」
昨日、陽が落ちていく中、自宅そばのセブンイレブンの店内で、純はユグルタたちへ向かって頭を下げて言った。
目の前の2人――車いすに腰かけている、トーガを纏った金髪の男と、その隣で微動だにしない、ローブで顔を隠したタトゥーだらけの赤毛の少女は、明らかに現実の存在ではなかった。
なにせ巨大な怪物を一撃の元に葬り去り、病気を一瞬にして消し去って見せたのだ。おそらくは、空を飛び回る不老の異邦人や、徘徊する怪物と同様の、ゲームの中から現れた存在なのだろう。しかし、現実の存在ではなくとも、2人――少なくともユグルタとは問題なく意思疎通を図ることが出来たし、極端な価値観の違いによって話がかみ合わない、という事もなかった。だから、純は思い切って願い出たのだ。
昨日の自分と同じように、部屋の中でただ死を待つだけの絶望的な状況に置かれた人が居るのなら、救い出してあげたかった。生き残っている人がどれほど居るのかは分からないが、少なくともこうして病気が治る奇跡に遭遇した自分は、いくらかでも同じ境遇の人に、この奇跡を届ける必要があるように思えたのだ。
「ああ、構わないよ」
ユグルタは気が抜けるくらいにあっさりと、そう言って頷いた。
純は頭を上げて、感謝の言葉を述べようとした。しかし、それよりも早く――
「何を言っているんですか、王子。いま、何よりもまず、我々が優先すべきは元の場所に戻ることです。こんなところで時間を潰している場合ではないんです。お父上のご容態が芳しくないことは、王子が一番ご存じのはずでしょう」隣に立っていたアーティエが、鋭く言った。そうして、視線を純へ向ける。「貴様もよく考えてから口をきけ。あまり調子に乗るんじゃあないぞ」
アーティエは強い気迫を込めて純を睨みつけた。
「そうは言っても、どうやって戻るというのだ? アーティには方法が分からないのだろう。ジュンも知らない。知っていそうな人も、見当がつかない。そして他に人の気配はない。これでは、ある程度ここで腰を据える覚悟をしなければならない。生存している人を探し出して、その人々から手段を得るのが最も手近な方法だと、私は思うのだが」
ユグルタは穏やかな口調で、諭すように言った。
それに対して、アーティエは一瞬口ごもったあと、何やら言い返した。
アーティエとしては、王族の人間である王子ともあろう存在が、庶民1人に頼まれた程度で、宛てもなくふらふらと人助けをして回る、という行為そのものが堪らなく嫌らしかった。
純はそうして喋っているアーティエの姿を眺めていた。
2人の発する言葉は、まるで演劇の一場面、台本に書かれた物語のセリフのようである。ただ、彼らは何かを演じているわけではなく、発している言葉は心の奥底から自然と湧いて出ているものだった。それは、とても奇妙な光景で、現実で実体を持った存在が会話をしているにも関わらず、決して現実の景色に馴染むことがなく、目の前で延々と違和感を醸造し続けていた。先ほど、彼らが特殊な力を現実で行使してみせたときよりも、ずっと強く、純に2人が非現実の存在だということを思い知らせるのだった。
目の前にいるのは、もはや疑うまでもなく、自分が
ただ、質感だけは完全に現実に即しており、ゲーム用に設定した質感とは全く異なるものだった。姿かたちは多少現実離れした雰囲気であるにも関わらず、肌は完全に純と同じ人間の肌の艶や皺があり、それがこの現実世界に存在馴染ませているのだが、しかし同時に正体不明の違和感のようにも感じられた。
純は2人に対して、彼らが非現実の存在であることや、アーティエに至っては自分が造形したなどということは言えずにいた。簡単に信じてもらえるとも思えなかったし、自分が逆に立場だったなら、そんなことは知りたくもないことに思えたからだ。
そもそも、そんなことを軽々しく言うのは、相手の尊厳を重大に傷つける行為に思えた。目の前でこうして明確に意思を持って話している存在に対して、被造物であることを告げるのは、相手を一段下に見ようという意図があると取られかねない。例えこちらにそんなつもりは一切なかったとしても。
長い事言い合っていた2人だったが、しばらくして、ようやくアーティエが折れた。
しかし、すでに日は落ち、外は光のない電灯が立っているばかりで、周囲を照らしているのは月明かりしかない。こんな暗がりの中では、何が襲ってくるのかも分からないため、明るくなるのを待つことになった。
純はその晩、数日ぶりに、カロリーメイトと水以外の物を口に入れた。
浦安から町中を蛇行しつつ東京駅に向かっていた純たちは、荒川を越えて江東区へ入った。時刻は10時近い。拡声器を使っているから、それほど大きな声を出しているわけではないのだが、少しづつ喉が痛くなってきていた。
はじめの頃こそ呼びかけを聞いた人が後からでも追いかけて来られるようにと、速度を落として歩いていたのだが、一向に姿を見せない生存者に、純の歩調は徐々に速くなっていた。
不意に、左前方の公園で巨大な物が落下したような、大きな地響きが数度した。目を凝らすと、樹木の間に、昨日純をドラゴンから救った鋼鉄の柱が何本か見えた。
振り返ると、アーティエが片手を車いすから放し、公園の方へかざしている。
公園の脇を通り過ぎながら覗き込むと、そこには圧し潰されたなんらかの生き物の死骸がいくつか転がっていた。それははサル化した人のように見えたが、あまりまじまじと見ていると具合が悪くなりそうなので、すぐに目を背けた。
今朝、東京駅に向かい始めてから、数えきれない程こうして、アーティエによって外敵が排除されていた。彼女は恐ろしく目が利くようで、純が全く意識していなかったような突拍子もない場所で唐突に鋼鉄の柱による地響きが起き、たびたび驚かされていた。
ここに至るまで、純が何らかの外敵にターゲットにされ、敵意を向けられた、と認識するようなことは一度もなかったので、危険だらけの外を歩くことに対する緊張感が徐々に失われつつあった。
拡声器のボタンを押しながら、念仏じみてきた呼びかけを繰り返すが、やはり全く反応はない。
空には相変わらず、たくさんの不老の異邦人が飛び回っており、地上と空とを行ったり来たりしている。一体何をしているのかは分からないが、こちらにコンタクトしてくるわけでもなく、こちらのことが見えているはずなのに、関心も示すわけでもない。別に敵意を向けられているわけでもないのだが、ただ、良く分からない存在が空に大勢居る、というのは、やはり不気味だ。そんな中で、病気が治るなどと唐突に宣伝して回っている自分も、同様に不気味な存在だと思われてしまっているのだろうか。
そんな風に、純がぼんやりと考えていたときだった。
ごく近くで、こちらに向かって駆け寄って来る足音が聞こえた。
「これは……、人間? ですか?」
純は背後のアーティエに尋ねた。
「さあ……、姿が見えないから分からないが……、ただ敵意はなさそうだ」
アーティエは音のする方へ顔を向けながら、ぶっきらぼうに答えた。
間もなく、たったいま通り過ぎた路地から、男がひとり飛び出してきた。
「――助けてください!」
男はこちらの姿を確かめるなり叫んだ。40代ほどに見える男は、こうして外に出たこと自体が、恐ろしくて仕方がない、といった様子で体を震わせている。
自分以外の生存者が、本当に実在するのだという事実に純が呆気に取られていると、その様子を見た男は、自分が早とちりをしたのだと勘違いしたのか、とてつもない過ちを犯してしまったのではないかと不安げな表情を浮かべた。
「あの……、本当に、本当に、病気から身を守れるんですよね……?」
男に言われて、純は慌てて男の不審を拭おうと手を振った。
「はい、やるのは私じゃなくて、そこのユグルタさんですけど、もう大丈夫です!」
純が答えると、男に近づいていたユグルタが、男の額へ手をかざした。
ユグルタの手が、微かに光ったように見えたかと思うと、もうユグルタの手は男の額から放されていた。
「あの、これで本当に、もう大丈夫なんですか?」
祝福を受け終えた男は、不思議そうに言った。
「そう、あらゆる呪いに、君はもう怯えなくていい」
ユグルタは優しく頷いた。
しかし、男はそれでも、なかなか信じきれない様子だった。
純のときのように、すでに病気に感染し、咳き込んでいたのならば、咳が消えたことで簡単にユグルタの力を信じることが出来たのだろうが、しかし男は病気を未然に防いだ形になってしまったたのだ。自身の体に何らかの明確な変化があったわけでもなく、仕方のないことだろう。
だが、純が話したこれまでの経緯と、目の前にいる現実味の薄い外見をした2人の様子を見て、いくらか信じられる気持ちになったのか、男は、「実は、自宅にまだ病気にかかっていない、小学生の息子が居るんです」と、打ち明けた。
男の自宅はこの路地の裏にあるとのことで、すぐさまそこへ向かうことになった。
自分のように耐性を持たず、籠っていた人は、やはり実在するのだ。
そして、そんな人を、自分は救えたのだ。
速足で路地を進む男の背を見ながら、純はその事実に、気持ちがいくらか明るくなるのを感じた。
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