037 2028年8月1日 渡河安曇

 渡河安曇とが あずみは、港区のマンションのベランダで、それほど遠くない南の空に突然現れた、雷鳴を轟かせている黒雲を眺めていた。

 黒雲は数分前に何の前触れもなく現れた。それまでは雲ひとつない青空だったのに、何も無い空間から湧き出るように、黒雲は現れた。

 見渡すと、南の空だけではなく、遠く北の方にも、同じような黒雲がふたつほど見えている。もしかしたら、それ以外にも、同じようなことが起こっているのかもしれない。


 とても嫌な予感がした。

 安曇には、黒雲が現実の存在にはとても思えなかった。雲ひとつない晴天の空の真ん中に浮かぶ黒雲は、まるでゲームのエフェクトだった。

 これが、ゾンビパウダーの蔓延が始まる以前に起こったことなら、変わった雲だな、と思っただけだったはずだ。しかし、既に多くの非現実的なものを目にしていた安曇には、この黒雲も、その非現実的なものの1つであるように思えてならなかった。


 まだ、何かが起こるとでもいうのだろうか。

 この事態は、本当にいつか、終息するのだろうか。

 いくらかでも、以前のような日常に、戻れるのだろうか。


 ――しかし、自分からは、以前の日常を構成する、幾つもの大切な存在が、もはやほとんど失われてしまっているではないか。

 安曇はその考えを払うことができないまま、雷鳴とともに稲光を放つ黒雲を眺めていた。黒雲は同じ場所から動く気配がなく、ひたすら同じ場所に強い雨を降らせていた。

 やがて、すべての黒雲はほぼ同時に、青空の中に溶けるようにして、消えていった。


 雲が消えてしまってからも、安曇はしばらく同じ方角の空を見つめていたが、再び黒い雲が青空に立ち現れることはなかった。

 安曇は窓を開けたままにして、室内に戻った。

 窓から吹き込んでくる風によって、室内からは熱気が払われている。数日前まではあったクーラーが恋しくはあったが、暑さは我慢できないほどではなかった。

 誰のものかもわからない、他人の生活感の染み付いた家具の並んだ部屋を横切って、キッチンへ入ると、安曇はコップに生ぬるい水道水をくんで、ゆっくりと飲んだ。見慣れないグラスに口をつける違和感が、まだ拭えない自分に、安曇はふっっと息を吐いた。


 この部屋は、安曇の住んでいたマンションから、少し離れた場所にある、東京オリンピックの頃に建てられた比較的新しい34階建てマンションの16階の一室だ。安曇が暮らしていた部屋よりも、部屋数が一つ多く、またリビングも倍近い広さがあった。

 当初は住み慣れた、家族と暮らしたマンションの隣室で生活していたのだが、数枚、数十枚でも壁を隔てた向こうに家族が死んだ場所があるのだという考えが、いつまでも拭えず、結局このマンションへ、生活する場所を移したのだった。


 別に広い部屋に移動したかったわけではなかったが、うっかりゾンビがやってこない、安全な高さが確保できる手近なところにあるマンションが、ここだったのだ。

 他人の部屋に勝手に入って、まるでそこが自分の家であるかのように振る舞うことに、最初は抵抗があったものの、1週間近くが経ち、もう大分慣れてしまっていた。

 この世にあるほとんどのものは、もはや誰の物でもないのだ。


 安曇は空いたグラスへ、近くのスーパーから持ってきたコーラを注いで、大きなベッドが一つ置かれた寝室へ入った。

 窓際の机に置かれた、タブレット端末を手に取る。タブレット端末は、携帯用のソーラーUSB充電器に繋がれ、電池は100%を維持し続けていた。

 2日前に停電が発生してから、インターネットにもつながらなくなってしまった。

 繋がっている間は、インターネット上のコミュニティで、他人と意見を交わすこともできたのだが、インターネットが断たれてしまうと、何かを考えるにしてもほとんどひとりですることしかできず、高校生の自分がたった一人で考えていても、ただ考えが堂々巡りするだけだった。


 安曇はタブレットに保存していた、そのコミュニティでの会話ログを開いた。

 すくなくとも、そのコミュニティの会話で、それまで全く不明だったことの幾つかに、それらしい理屈があることが判明した。

 

 まず、ゾンビ化する人と、しない人の違い。

 当初は、単純にアニマ・ムンディをプレイしたか、しないか、という違いだけだと思われていた。

 しかし、プレイヤーの中にも感染する人間が多数おり、一時はプレイヤーの中からランダムで感染するものと、しないものに分けられているのではないか、などと言われたりもしていた。

 が、これはごく単純な答えが存在した。

 アニマ・ムンディで、自分のアバターが最後に身に着けていた装備に、『ゾンビ耐性』が付与されていた人間が、感染を免れていたのだ。

 確かに、安曇自身のアバターも、『ゾンビ耐性』の効果が付与されたアクセサリーを身に着けていた。


 次に、この事象は何が発端で起こったのか。

 ゾンビ化が始まったのは 横浜にある北横浜衛生病院からだと言われている。

 当時のSNSログを遡り調べた人間が、咳の騒ぎは各所で一気に始まりはしたが、その本当に最初期の書き込みは、北横浜衛生病院の周辺に集中していたのだという。

 では、この病院に、どこからゾンビパウダーは持ち込まれたのか。

 ゾンビパウダーの感染速度から考えて、7月21日以前から、ゾンビパウダーが存在していたとは考えにくい。

 また、7月21日の昼を過ぎたあたりから、咳をしていた人が突然死んだ、という書き込みが、SNS上に現れ出す。

 ゾンビパウダーは感染から死亡までがおよそ6時間であるため、この最初に死亡した人たちが感染したのは、7月21日の早朝だということになる。

 こうやって絞り込んでいった結果、コミュニティは、一つの書き込みに行き着いた。


『金髪の女の人がすごい怪我をしてたから通報したら自分も一緒に病院に連れて行かれる羽目に……。新人にOJTあるから出社しなきゃいけないのに、なんか変な咳が出るし、ついてない一日だ……』


 7月21日の午前6時30分頃の、kazuISD_2005という人物の発言。

 この発言に付与されたGPSタグが、まさに北横浜衛生病院の所在地だったのだ。通報して病院に運ばれ、落ち着いて書き込みがおこなれるようになるまでに、多少時間過ぎているであろうことを加味すると、おそらくkazuISD_2005が金髪の女を発見したのは、午前6時以前ということになる。


 コミュニティは、この金髪の女が、日本中、そして世界中にゾンビパウダーをばら撒いた原因だろうと、断定した。おそらく、不老の異邦人やサンドワームと同じように、ゲーム中から現れた、だったのだろう、と。


 同じく、ゲーム上の存在である不老の異邦人が現実に現れたタイミング。こちらはSNS上に明確に残されており、目撃者も多い。

 すべて7月21日の6時前。

 爆発事故と同時に現場に不老の異邦人が居た、という出来事が、日本各地でほぼ同時に発生している。

 安曇があの日の朝、品川駅へ向かう途中で消防車と救急車を目撃したのも、この不老の異邦人出現の際に発生した、爆発事故に駆けつけているところだったのだ。

 また、現実に現れた不老の異邦人が、ギルド、ナムイ・ラーに所属していた不老の異邦人であることも、写真などから判明している。


 不老の異邦人が現れたのも、ゾンビパウダーをばら撒いた金髪の女が現れたのも、7月21日の早朝の、ほぼ同じ時刻だったということになる。

 そして同時刻に、もう一つ、アニマ・ムンディのサーバーダウンも発生している。

 これも、偶然ではなく、現実にアニマ・ムンディの存在が現れる原因のひとつだろうと考えられている。いまだに、ゲームサーバーのダウンごときが、現実に重大な影響を及ぼすはずがない、と言うものも居るが、そう言っているのは少数派だった。


 7月21日の6時前は、フェーズ3が終了間際の時刻だった。

 通常、アニマ・ムンディではフェーズが切り替わるタイミングで、2時間のメンテナンスを挟む。

 あのときも、まもなくフェーズ3が終わり、定期メンテナンスに入るため、フェーズ3終了間際の激戦を終えた多くのプレイヤーが、一度ログアウトしようとしていたタイミングだった。


 ナムイ・ラーが居たサーバーで、何かがあったのだ。

 コミュニティの多くの人間が、そう考えた。

 そうでなければ、ナムイ・ラーのメンバーだけが、現実に現れたということと、理屈が合わないように思えた。

 あの日のフェーズ3終了間際、ナムイ・ラーのリーダーであるアカ・マナフが、奇妙な行動をとっていたという発言もあったが、それが具体的にどんなものだったのかは、結局わからずじまいだった。


 安曇はタブレットから視線をあげた。

 額から落ちる汗を拭って、目の前の窓を開けた。

 涼しい風が一気に入り込んでくる。

 ぬるいコーラで口を潤す。


 この北横浜衛生病院に運ばれた、ゾンビパウダーをこの世にばら撒いた原因である、金髪の女が、デネッタなのだろう。

 安曇は一度、デネッタが体中にしていた包帯の下を見たことがあった。

 そこは、まるで本当にホラー映画に出てくるゾンビにでもなってしまったかのように、至る所が朽ちてしまっていた。

 デネッタは体中にしていた包帯を自分で巻いた覚えはない、と言っていた。

 おそらく、デネッタが発見されたあと病院で処置として巻かれたものなのだろう。デネッタが現実に現れたときは、包帯はなく、怪我をしたまま倒れていたのだ。

 kazuISD_2005の発言にあった、『すごい怪我をしている金髪の女』は、デネッタのことなのだ。


 どうしてデネッタが体中怪我をした、あのような姿になったのかはわからないが、とにかく、彼女の体にゾンビパウダーが付着しており、それによって、感染が拡大したのだろう。

 安曇の家族や友人の死の原因となったゾンビパウダーを現実に持ち込んだのは、デネッタだったのだ。


 しかし、それはあくまでも不可抗力だったはずだ。

 デネッタが大勢を死に至らしめようと、ゾンビパウダーを現実に持ち込んだわけではない。その証拠に、彼女は危険に晒されていた安曇たちを救ってくれたではないか。

 デネッタには決して、非は無いはずだ。


 安曇の中に、デネッタがゾンビパウダーを持ち込まなければ、と思う気持ちが全くないわけではない。しかし、それはもう起こってしまった過去のことなのだ。取返しのつかないことについて、『あの時ああなっていれば』と考える気には、安曇はなれなかった。

 何より、家族や友人の死の原因が、自分の窮地を救ってくれたデネッタに、わずかでもあるかもしれない、などと考えてしまうことが、無性に悲しかった。

 

 ただ――

『ゾンビパウダーをばら撒いたヤツがまだ生きてたら、八つ裂きにしてやるのに』

 コミュニティでのこの発言に、同調するものは、少なからず存在した。

 その書き込みが、安曇にはとても恐ろしいものに見えた。

 そこには一切の冗談は無く、本当に心の底から、そうしたいと思っている、強い感情があるように思えた。

 安曇は、すでにデネッタの姿を見ている、古川理沙や辺見などが、ネット上でデネッタのことについて言及しはしないかと、ずっと懸念していた。

 万が一、そんなことが書かれれば、ゾンビパウダーをばら撒いた存在がまだ生きているのだということが、明るみに出てしまう。

 インターネットが遮断されて、もうそんな心配をしなくてよくなったのは、安曇にとって救いだった。

 

 デネッタには、外には強力なモンスターが徘徊しているという噂があるから、極力出歩かないように。また、出歩く際は、たとえ建物であろうとも、常時知覚遮断を展開しておくように、伝えていた。

 モンスターの噂など実際にはなかったが、とにかくデネッタが他人に発見される可能性を、安曇は少しでも減らしたかった。

 しかしデネッタは、知覚遮断があれば例え如何なる存在が徘徊していようとも、問題はない、と言って、今日も朝から、「この世界のことを知りたい」と、出て行ってしまっていた。


 実際問題として、デネッタがこの現実に居る以上、いつかは存在が知られてしまうはずである。すでに、どこかで理沙や辺見などがしゃべったことが広がっている可能性も、十分にあるのだ。


 安曇は息苦しいような不安を打ち消そうと、グラスに口をつけた。

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