038 2028年8月1日 浦部純②

 薄暗くかび臭い書斎へ足を踏み入れた浦部うらべじゅんは、部屋の中央に置かれた木製の机に歩み寄った。

 机の上にはいくつかの本と、紙と万年筆が置かれている。

 手紙だろうか。紙には日本語ではない小さな文字が綺麗に並んでいる。


 純は紙をテーブルへ戻すと、先ほどまでいた自分の部屋を振り返った。そこには、純がいま通ったばかりの窓と、薄ら汚れたアパートの外壁があった

 書斎に置かれた本棚や椅子、テーブルなどはすべてアンティークなもので統一され、落ち着いた雰囲気だというのに、それらの調和をぶち壊すように、一面が薄汚いアパートの壁で覆われてしまっている。そして、外壁にぽっかり空いた窓の穴の向こうの暗がりに、先ほど純が必死に押したり崩そうとしたりしていた、レンガの壁が見えている。おそらくあれが、本来の書斎の壁なのだろう。


 、と純は思った。

 本当に、昔読んだ漫画のように、自分の住んでいたアパートごとタイムスリップでもしたか、それとも異世界にやってきてしまったのだろうか。

 一体これはどういう状態なのだろうか。純は首を傾げながら、開かれていた扉から、廊下に向かって顔を出した。

 長い廊下が、純のアパートを背にして、左右に続いていた。左右どちらの廊下の行き止まりには窓があり、そちらに向かって外の光で明るくなっている。


 純は誰かいないか叫ぼうかと思ったが、口を開きかけて、思いとどまった。ここがまだ異世界などではなく、東京なのであれば、サル人間がいる可能性があるのだ。慎重になるべきだろう。なにせ、いま自分は裸足にシャツとスウェットだけなのだ。


 すぐ向かいにあった部屋の扉を開けた。

 そこは寝室だった。

 レースのカーテンのかかった窓から、淡い外の光が漏れていて、明るい。ここまでずっと薄暗い場所に押し込められていた純には、その光はとても眩しく感じられた。


 部屋に一歩足を踏み入れて、すぐに純はこの部屋に奇妙なところがあることに気がついた。

 部屋には、大きな天蓋付きのベッドが余裕たっぷりに置かれ、壁際には大きな衣装棚が2つ、ならんでいた。さらに大きな薪ストーブが置かれ、天上に向かってパイプが伸びている。そこまでは、なんら違和感がなかった。

 しかし、窓がはめられた壁の、床から50cmほどの高さのところから、脈絡なく、近代的な屋根瓦が飛び出しているのだ。


 この屋根瓦は、一体何のためにこの部屋にあるものなのだろうか。

 純は不思議に思いながら、屋根瓦へ近づいた。

 屋根瓦は、窓側の壁から、純の方に向かって傾斜し、壁から1メートルほどのところで、板張りの床にぶつかって、そこでぶつりと綺麗に途切れている。

 屋根瓦は、まるで大雨の下にさらされていたかのように濡れており――


 そこまで観察して、純はこの屋根瓦が何であるのか、理解した。

 レースのカーテンがかかった窓から外をのぞきみると、そこには純の部屋からいつもみえていた、隣家の屋根が見えた。日光でほとんど乾きかけてはいるが、先ほどの雨によって濡れている。


 この部屋の中に飛び出している屋根瓦は、いつも見えていた、あの家のものなのだ。

 そうして、純はさらに強いひらめきを得て、先ほどの書斎へ振り返った。

「ああ、そうか――」

 こんな風な状態のものを、昔見たことがあった。

 まだ学生で、3DCGを勉強していたころのことだ。

 ゲームの背景用に友人が作った、間取りが完全に異なる2つの民家を、冗談でまったく同じ場所に配置してみたことがあった。

 すると、ダイニングテーブルが、もうひとつの民家のキッチンの壁で遮られ、階段がもうひとつの民家の階段と妙な具合に交差して使い物にならなくなり、そこはさながら、出口も入口もなく行き止まりだらけの不条理な迷路だった。


 目の前に見えている現象は、あの時の光景と、そっくりなのだ。

 これは、なのだ。

 純は天蓋ベッドのあった寝室を出て、書斎の隣にあった階段から、階下を覗いた。階段の踊り場部分に、純のマンションのベランダが飛び出してはいたが、降りるのに不便はなく、そのまま1階まで降りることができた。


 しかし、階段を降りて、広いエントランスと思われる広間までやってきたが、そこにあると思われた玄関扉は見当たらず、代わりに純のアパートの向いの家のブロック塀が、周囲の小洒落た調度品との調和を大きく欠いて、激しく主張しながらエントランスを分断して鎮座している。

 塀を乗り越え、エントランスの向こう側へ行こうかと思ったが、見上げるとブロック塀の天辺とエントランスの天井との間には、ほんのわずかしか隙間がなく、身体を通すのは不可能に思えた。


 どこか外に出られる場所はないものかと見渡すと、廊下の突き当りに外の明かりが入ってきている窓が見えた。

 窓からは、純がいつも通っている路地が見えた。


 どこかにサル化した人間が潜んではいないか、注意深く窓の外を見渡してみるが、少なくとも、純の見える範囲にはその気配はなかった。

 純は窓を上へスライドさせ開けた。

 開けるときにガタガタと軋む音が鳴り響き、純はしゃがんで窓から顔をひっこめた。しばらくそうして耳を澄ましていたが、何かが近寄って来る様子はない。

 慎重に顔を出して、もういちど周りを確認する。

 なにも見当たらない。

 大きく息を吐くと、純は窓の縁に手をかけ、乗り越えた。


 靴下も靴もない足に、アスファルトのざらざらとした感触が伝わってくる。

 日差しはいくらか和らいでおり、思ったほど暑くはない。

 それよりも、汗でぐっしょり濡れた服越しに肌に、ささやかだが吹いていた風が触れ、冷たく心地よかった。


 純は、いままで自分がいた建物を振り返った。

 それは、中のアンティークな雰囲気に違わぬ、レトロな外見の洋館だった。

 純はこんな建物は20世紀初頭を舞台にした映画などでしか見たことがなかったので、ごく普通に、、と感じた。

 洋館のセットが、純の住んでいたアパートの一部と、隣家の一部を飲み込んだ形で、そこに建っていた。

「ワープしてきたのは、セットの洋館の方だったのか……」

 純は呟いて、額から垂れる汗を拭いた。


 この洋館は一体どこからやってきたのだろうか。

 いや、そもそも建物がどこかからやってくる、などという状況がおかしい。

 だが、いまや現実は空飛ぶ人や、大きなミミズが出てくるような妙な世界になってしまったのだ。建物がどこかからやってくる事くらい、起こりうるのかもしれない。


 純はそんな風に考えながら、自分が道の真ん中で、ただぼんやりとしてしまっていたことに気が付いた。

 しかし、見渡してみて周囲に何かがいそう気配は、やはりなかった。

 そもそも、この洋館さえなければ、路地は普段となんら変わりのない光景だった。元からそれほど人通りが多いわけでもないから、人影がなくても違和感はなかった。

 このまま、何事もなかったかのように、以前の日常に戻ってしまえそうに思える。

 しかし、背後には洋館があり続けているし、自分はくたびれた汗だくの服を着たまま、素足でアスファルトの上に立っていた。


 とりあえず、靴が欲しかった。

 先ほどから足の裏に当たる小石が痛く、気になってしかたなかった。

 一度家に靴を取りに戻ろう。見たところ、この洋館以外に新たに出現した建物は見当たらない。玄関側は普通に入れるはずだ。

 そう思って数歩すすんだ所で、純は自室の玄関は鍵を閉めたままだったことを思い出した。スウェットのポケットに手を突っ込んでみるが、鍵はない。鍵は普段、玄関横の壁にかけているのだから、当然だ。合鍵を水道メーターの上に隠していたり、というようなこともしていないから、いまの純には部屋に入る手段がなかった。


 ――まあ、鍵が開いているどこか別の家から、サンダルでも拝借すればいいだろう。


 純はアパートの1階から順に、扉に耳をつけ、中で物音がしていないのかを確かめてから、ノブを回す、といったルーチンを繰り返しながら、鍵の開いた扉がないかを探した。

 ここまできて、中に潜んでいたサル化した人に襲われたのでは、目も当てられない。とにかく慎重に、音がしないか、全意識を耳に集中させた。


 物音のする部屋はなかったが、鍵の開いている部屋も見つからないまま、一番奥の部屋までやってきた純は、これまでと同じように、扉に耳をつけた。

 何も音がしている様子はない。


 そうして、純は扉から顔を離そうとして、咳き込んだ。

 むせるような咳はたて続けに、何度か出た。

 苦しくて涙が出そうだった。


 やっぱりか、と純は思った。

 自分がこうして咳き込んでいる事実はとても悲しく、純の心の中をとたんに暗くさせはしたが、しかし別段驚くほどのことでもなかった。

 さきほど、数十分前に部屋の窓から洋館の書斎へ足を踏み入れたときから、こうなることは想像していたのだ。


 外に出れば、問答無用で病気で死ぬ。

 そんなことは、分かり切っていたことだ。

 たとえ洋館があそこに現れなかったとしても、自分が壁と壁の間に挟まれるなんてことにならなくても、結局部屋の中で無様に飢えて死んでいったのだろうから、結局、死ぬという結末が少し早まっただけなのだ。


 また咳が出る。

 その咳は、あの日、電話の向こうで長谷弘毅がしていたものと、まったく同じ、喉に引っかかるような音を立てる。


 ようやく、わずかにでも生き延びるために、あれこれ頑張らなくてよくなったことに、肩の荷が下りたような気持ちになった。


 一日の重さだとか、

 生きることの難しさだとか、

 明日も自分は生きているだろうかだとか、

 そんなことを考えながら、一生懸命、一日一日かみしめて生きるのは、自分の性には合っていなかったのだ。

 自分はもっと、簡単に生きていたかったはずだったのだ。


 よく頑張った。

 純、あんたはよく頑張ったよ。

 そんな風に、死にかけの自分を自分で慰めているのが可笑しくて、純は笑った。

 純の笑い声が、アパートの壁で反響する。


 不意に、純の目の前の扉が、凄まじい勢いで揺れた。

 その拍子で、扉がわずかに、外側へ向かって歪んだ。

 扉の向こうで、ガリガリと扉をひっかいている音がしている。しかし、その音はすぐに止むと、再び扉が大きな音とともに勢いよく揺れた。


 内側で何かが体ごと扉にぶつかっているのだ。

 扉は先ほどよりも、よりはっきりと、外へ向かって歪んでいる。


 純は後ずさりながらも、扉から目を離せずに居ると、再び扉が揺れた。

 思わず耳を塞ぎたくなるような、強い音が響く。


 純は扉に背を向けて、路地へ向かって駆け出した。

 次の瞬間、これまでの比ではない激しい音がした。

 肩越しに振り返ると、扉は勢いよく開かれており、中から四つん這いになって歩く、サル化した人間が姿を現した。

 純は足の裏に小石が刺さるのも気にせず、出来うる限りの速さで走った。


 背後から、ペタペタと後を追ってくる音が聞こえていた。

 もうすぐ命が尽きるにしたって、痛い思いをするのは嫌だった。

 

 生きたまま貪り食われるのなんて、最低だ。

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