039 2028年8月1日 浦部純③
純は路地に出ると、そのまま数十メートル先の幹線道路に向かって走った。
どこか、素早く身を隠すことができる場所はないか探す。すぐに先ほど出てきた洋館の窓が目に入った。
しかし、外からだと窓の位置が高い。だが、ここ以外にはもう、隠れる場所は見当たらない。背後から追ってくるサル人間の足音は、もう間近に迫っていた。
ここに逃げ込むしかない。自分の運動神経に賭けるしかない。
純は走る速度を落とすことなく全速力で洋館の壁に駆け寄ると、そのまま窓の縁に飛びついた。渾身の力で自分の体を持ち上げる。素足でレンガ壁を何度も蹴る。
どうにか上半身が窓の縁を越える。
目の端にサル人間が見えた。
最後の力を振り絞って、体を洋館の中へ滑り込ませた。
振り返り、窓を引き下ろす。ちょうど窓の縁にかかっていた、サル化した人間の手がそこに挟まれ、何やら奇妙な叫び声をあげて、サル化した人間は手をひっこめた。
しかし安心はできない。こんな薄い窓一枚、鍵のかかった扉を破壊できる存在ならば、なんの障害にもなりはしないだろう。
そう思っていると、地響きとともに突然地面がわずかに揺れ、窓の向こうが薄暗くなった。
薄暗い窓の外の光が、わずかにゆらゆらと揺れる。
まるで、大きな何かがいるような、そんな気配があった。
少しずつ後ずさりながらも、窓の外を見ていたが、純を追いかけてきていたサル人間が、窓から中に入って来る様子はない。
純は一度後ろを振り返った。
廊下の反対側の行き止まりには、目の前のものと同じ窓がある。万が一の場合は、あそこから逃げれば良い。
純は唾を飲み込んで、今入ってきた窓に一歩、近づいた。
首を伸ばして、窓の外が薄暗くなった理由を、地響きの原因を、探ろうとした。
――目が合った。
巨大な、爬虫類を思わせる細長い瞳孔を持った瞳が、そこにあった。
純は息を呑んで、慌てて一歩退いた。
建物が激しく揺さぶられるような強い衝撃があって、純はその場にへたりこんだ。
勢いよく窓が割れる。
眼前のレンガ壁から、レンガがいくつか外れ、ゴツゴツと音を立てて床に落ちた。
間髪を開けず、再度衝撃が襲う。
衝撃の勢いのまま、壁が崩れた。
巻き上がる砂埃と壁の隙間の向こうに、10メートル以上はある、何らかの生き物のシルエットが見えた。
純はしりもちをついたまま、どうにかその場から離れようとする。
このままこの場にいるのは、明らかに得策ではない。どうにかして逃げなければならない。しかし、体が思うように動かなかった。
シルエットが首を振って、洋館に体当たりをすると、壁はいよいよ壁の体裁を失って完全に崩壊した。
砂埃はいっそう強まったが、向こうにいた存在はこちらへ近づいて来たことで、姿がはっきりと見えるようになった。
純の目の前には、
ありふれた、
凡百な、
何の面白みもない、
きまりきったデザインの、
――ドラゴンが、居た。
一目で恐竜ではないと分かる、Tレックスやラプトルような肉食竜的なデザインでありながら前足が後ろ足と同じ大きさで、プテラノドンのような翼を生やした、ドラゴンが、そこにいた。
純は薄笑いを浮かべながら、咳き込みながら、どうにかその場から離れようと、ドラゴンから距離を取ろうとした。
こんなのは、VRで何度もみた光景だった。
自分は目の前のものより、もっと不気味でインパクトのあるVR向けゲームのドラゴンを作ったこともあった。仮想空間で何度も見上げ、見下ろし、ディテールを詰めるために眺めた存在だった。
しかし、周囲を漂う砂埃の匂い、崩れたレンガがわずかに起こす風、ドラゴンがそこにいることによって発生している微妙な風の流れの変化、大質量の動く生物が発する気配の圧力、そのすべてが、目の前の非現実的な、ドラゴンという存在が、間違いなく実物で、そこにいるのだということを示していた。
ドラゴンは口に咥えていた、先ほどのサル化した人間を、ひと呑みにすると、純へ顔を近づけた。そのまま、純をくわえようと大きく口を開けるが、壁の残骸にひっかかって、ぎりぎりのところで純には届かない。
ドラゴンは一度顔をひっこめると、再び顔を振って、壁の瓦礫を破壊した。
純の体に、壁の残骸のいくつかが、容赦なくぶつかってきて、いくつもの傷を作った。
このままでは自分は死ぬ。
しかし、ドラゴンに食われなくても、放っておけば結局数時間後には死ぬのだ。
サル化した人間に食われるのでは、長く痛い思いをしなければいけないけど、ドラゴンに食われるのなら、おそらく痛いのは一瞬だろう。
ここで死ぬのか、咳で死んでサル人間になるのか、選ばなければならない。
純は深呼吸をする。
ドラゴンは再び、こちらへ首を伸ばそうとしている。
ここで死なないのなら、死んだ後も駆けずり回る、自分ではない自分の外見をした存在を残すことになる。
そいつは駆けずり回って、多くの人に迷惑をかけるかもしれない。
だけど迷惑をかけてでもなんでも、それはいくらか、自分なのだ。
それは死の瀬戸際の人間が浮かべる錯乱した考えにも思えたが、それでも、自分が少しでもこの世に残り続けるのなら、それでも、いいような気がした。
なにより、別の生き物に消化されて、排せつされることのほうが、無様で惨めに思えた。
後ろを振り返る。突き当りの窓までの距離は、とても遠く感じられる。
立ち上がれるだろうか?
転ばずに走れるだろうか?
追い付かれずに走り切れるだろうか?
――わからないけれど、やらなければならない。
純は跳ねるように立ち上がった。
一瞬、足に力が入らず転びそうになるが、どうにか持ちこたえる。
ドラゴンへ完全に背を向ける直前、ドラゴンの口の中に燃え盛る炎が現れるのが見えた。
あれを吐かれたら、ひとたまりもないだろう。
すぐ右手に、開いたままの扉が見えた。
扉に入っても、炎の勢いが強すぎれば、まったく意味なく、あの部屋の中で炎に焼かれるてしまうだろう。
しかし、このまままっすぐ走り続けるよりは、いくらか生き残れる可能性が高いはずだ。
とにかくあそこに入らなければ。
そこまで、7歩はあるように見えた。
とても間に合いそうには思えなかった。
今にも自分は灼熱の炎に焼かれ、もだえ苦しむように思えた。
それでも、純は足を動かした。
歯を食いしばって、あと数時間だけでも生きながらえるために、必死に前進した。
「――生きたいのなら、生かしてやろう」
どこかで、そんな声がしたような気がした。
続いて純の体が跳ね上げられるほどの、強い衝撃があった。
扉を前にして、純はその場で転倒した。
炎から身を守ろうと、まるで意味がないとはわかっていながらも、純は体を丸めた。
しかし、いくら待っても、炎が吐かれる気配はなかった。
自分の体が、炎に焼かれることも、なかった。
純が恐る恐る顔をあげると、そこには炎もなければ、涎いっぱいの大口を開けて、今まさに純を飲み込もうとしている、ドラゴンの顔もなかった。
ただ、動かなくなったドラゴンの頭に、20メートルほどはある巨大な鋼鉄製の柱のようなものが突き刺さっているのが見えただけだった。
しばらく呆然とその光景を眺めていたが、ドラゴンが再び動き出すことはない。
純はゆっくりと、動かなくなったドラゴンへ近づいた。
ドラゴンは、まるで虫の標本のように、アスファルトにピン止めされている。
「なぜもっと早く助けてあげないのだ」
すぐ近くで、落ち着いた男の声がした。
「てっきり座ったまま食われたいのかと思ったので」
今度は女の子の声。その声は、さきほど衝撃の直前に聞いた声と同じものだった。
声の方へ顔を向ける。
そこには、車いすに座った輝く金髪の外国人の男がいた。
そして、その隣には黒いローブをまとった、小さな人影。
「あの、あなたたちが、助けてくれたんですか」
純は2人へ一歩近づきながら言った。
車いすの男は、大昔の人が着ていたような白い布を纏い、左目には眼帯をしている。
子供のようなローブの人影は、ローブを深くかぶっているため、顔がはっきりとは見えない。
「そう、彼女の魔法でね」
車いすの男が、ローブの子供へ視線を向けて言った。
ローブの子供がわずかに手を動かすと、ドラゴンの頭に突き刺さっていた鋼鉄の柱が、霧のように消えてなくなった。
まるで当たり前のように行われる目の前の非現実的な出来事に、唖然としながらも、純は頭を下げた。
「ありがとうございます……」
それと同時に、咳が出た。
咳は背を丸めなければならないほど、しつこく何度も出続けた。
「おや、それは禁術の呪いだね?」
車いすの男はそういうと、ローブの子供に車いすを押させて、純へ近づいてきた。
よくみると、車いすの男には左腕や左足がないらしく、まとっている白い布がだらりと垂れている。
眼前までやってきた車いすの男は、ゆっくりと右手を純の額へ近づけた。
「君に祝福を」
車いすの男が優しい声でそういうと、純の額にかざされた右手が、鈍く光った。
ぼんやりと温かいような感覚があり、体中を支配していた緊張感が、徐々に和らいでいくような気がした。
それと同時に、胸につかえていたような、咳を生み出していた引っかかりが、消えてなくなった。
「え?」
純は喉に手を当てた。
しばらく待っても、咳が出てくる気配はない。
「もう呪いに怯えなくていい」
車いすの男は微笑みながら言った。
「うそ……」
純は口元に手を当てた。
大勢を死に至らしめた咳の病気が、治った?
いま、この目の前にいる男が治したというのか?
そんなことができるはずがない。
きっとまた、咳が出てくるに決まっているのだ。
――しかし、どれだけ待っても、咳は出てこなかった。
「そう、もう大丈夫だ。もう何も不安に思うことはない。呪いが君を殺すことはないだろう」
車いすの男は、純を安心させるように、微笑みながらゆっくりと頷いてみせた。
「おい、もういいだろう。王子から離れろ」
声がしたかと思うと、車いすの男と純の間に、ローブの子供が立っていた。
それはまるで、瞬間移動でもしてきたかのような現れ方だった。
「あ……、ごめんなさい」
純は慌てて、数歩退いた。
そうして下がりながら、純はローブの子供は長い赤黒い髪を生やしていることに気が付いた。
さらに、ローブからわずかに出ている腕には――
複雑なデザインの――
赤い――
入れ墨が――
純の全身に、一気に鳥肌が立った。
心臓が急激に小さくなったように思え、体中がとたんに冷たくなった。
「あの……、あなたたちの、名前は……」
純は呂律が回らなくなりそうなのを、どうにかこらえ、ふたりへ訪ねた。
ローブの子供は、わずかに車いすの男へ顔を向けた。
同時に、幼いシルエットの頬にも、腕と同じような赤い入れ墨があるのが見えた。純は眩暈を覚える。
「王子を知らないということは、やはり私たちは、どこか異世界にやってきてしまった可能性が高いですね」
王子、と呼ばれた車いすの男は、「そうだね」とローブの子供へ頷いてから、
「私は
ユグルタと名乗った男が首を傾げたのを見て、純は自分の名を聞かれていることに気が付いた。
「ええっと、私は、浦部純といいます」
純が言うと、ユグルタは、
「ウラベジュン……、変わった名だ」
と、言って微笑んだ。
純はなんだか妙に気恥しい気分になって、ユグルタから目をそらした。
続いて、ローブの子供が名乗ってくれるものだと思っていたが、待っていてもローブの子供が口を開くことはなかった。
「ほら、名前を聞かれているんだ、答えないと失礼だ」
ユグルタにそう促されると、ローブの子供は嫌々といった様子で口を開いた。
「――私の名は――」
ローブの子供は初めて、純の方へ視線を向けた。
赤い鋭い瞳、整った顔――
――薄気味は悪いけれども、邪悪だったり、悪人には見えないようにしてください。
――あくまで外見が子供なだけで、子供っぽさのようなものはなくて結構です。
指示書と、
赤い髪をした鋭い瞳の少女の、正面、横、後ろ姿が描かれている。
複雑な赤い入れ墨には、細かくデザインの指示があった。それは設定上重要な意味を持つ模様なので、極力このイメージボードに寄せるように、念が押されていた。
――通常時はローブを被っているので、普段は顔はみせませんが、ローブを外すこともあるので、顔の作成もお願いします。
指示書の文と、ローブを被っているバージョンのイラスト。
彼女の名は――
「アーティエ・ウォークロウ。魔法使いだ」
ローブの子供は言った。
アーティエ・ウォークロウ。
かつて純が作成した、ゲームのキャラクターモデルがそのままに、いま純の目の前で生きていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます