040 2028年8月1日 板垣康介
巨大な木製の門を見上げながら、
板垣の目の前にある建物は、ヨーロッパ風の城だった。本来ここは、辻堂駅前のバスロータリーがあるべき場所なのだ。しかし今は、バスの姿も見えなければ、雨除けの屋根も見えない。すべて、城に飲み込まれてしまっている。
城は数十分前に何の前触れもなくやってきた黒い雲と雷雨とともに、忽然とこの場所に姿を現した。
板垣には、城はアニマ・ムンディの中にあった建物のように見えた。
これまで起こった様々な異常事態がすべてアニマ・ムンディに関連していたのだから、この城だって同じに決まっているのだ。
板垣は大きく息を吐くと、眼前の巨大な木製の扉を力いっぱい押した。
扉はひとりの力では到底開かないように思えるほど大きかった。しかし意外にも、その巨大な扉は、ゆっくりとだが確実に開きはじめた。
「本当に入るんですか……。やっぱり戻りましょうよ」
川添は、板垣とともに避難していた駅前の大型アウトレットモールのほうを振り返りながら言った。
「ここまで来ておいて、なにビビッてんだよ」
板垣は、この重い扉を押すことを一切手伝おうとしない、後輩の川添へ苛立ちを覚えながら、緩慢なスピードで開き続ける扉を押し続けた。
「僕が持ってるの、ゾンビ耐性と、狂乱耐性だけだから……」
川添は声を小さくしながら、今にも泣きだしそうな声で言った。
板垣は、川添のその弱々しい言葉に思わず吹き出しそうになった。それと同時に、川添が頑として板垣より前に出ないことの理由が分かった。
――こいつは、なんとかかんとか言いながら、まだ現実で蔓延が確認されていない三大呪詛の残りの1つに耐性を持っている俺のことを、盾にしようとしているのだ。
それはそれで腹が立つが、板垣は「嫌なら戻れよ」という言葉を飲み込んで、扉を押すことに集中した。現状、一人でいるよりは、何か危険が迫ったときに察知できる目が多いに越したことはない。
この城がアニマ・ムンディの建造物なのであれば、中には少なからず装備品があるはずなのだ。
しょせん、ゲームマップ上に直接落ちている装備品など、低級で安価な装備品しかないだろうが、それでも自分たちが籠っていたアウトレットモールの中よりは、マシな武器や防具が見つかるだろう。
少しづつだが広がっていた扉の隙間は、ついに人がひとり入るのに十分な大きさになった。
板垣は上半身だけ隙間に入れ、中の様子を確かめた。
扉の向こうは、吹き抜けの広いエントランスになっていた。いくつかの通路が、小さなランプの光に照らされているだけの薄暗い奥へと続いている。
真正面には大きな階段があり、それは途中で左右に分かれて、2階へ続いていた。外からみた建物の全体像からして、ここに見えているのは本当にごく一部で、まだまだ奥には空間がありそうだった。
ところどころに、もともとこの場所にあった物体――バスやガードレール、日除け屋根が無造作に飛び出している。
板垣は注意深く見える範囲を観察したが、おかしなところは、その現実の物体がまったくこの城の雰囲気に馴染んでいないことくらいで、それ以外に目につくところや危険な気配は見受けられなかった。
「大丈夫そうだ」
板垣は川添へ向けて言うと、全身を城の中へ入れた。背後で、川添がわざとらしく大きな溜息をつくのが聞こえた。
城の中には、人の気配も、生き物の気配もなかった。
「どこか、兵士の詰め所みたいな場所があれば、そこに装備がありそうなんだが」
板垣はそうつぶやきながら、通路上にあった扉のひとつひとつを手あたり次第に開けていくが、めぼしいものは全く見つからない。ただ、それらしいヨーロッパ風の家具やらが、それらしく置かれているだけだった。
結局、何も見つからないまま、板垣たちは1階の一番奥まった場所にあった、ひときわ大きく派手な扉の前までまでやってきた。
ここに何もなければ、一度エントランスまで引き返して2階へ行くしかない。
何も起こりはしないと自分に言い聞かせてはいても、現実の存在ではない場所に長く居続けるのはやはり薄気味が悪かった。板垣は、早いところ何か役立つ物を見つけて、ここから立ち去りたかった。
それにしても、何かあった時のためにと連れてきた後輩の川添は、さっきから後ろでビクビクしているばかりで、何かが起こっても全く役に立ちそうな気配がない。こんなに頼りないやつだとは思わなかった。
板垣は派手な装飾のついた取っ手をつかんで、両開きの扉の右側の扉だけを、慎重に押し開こうとした。
扉は重く、なかなか開く気配がない。
板垣は一歩踏み込んで、扉を押す右腕へさらに力を込めた。
するとようやく、扉はギギギ、と鈍い音を立てて開き始めた。
「板垣さん、何か臭くないですか」
不意に、城に入ってから黙りきりだった川添が、声を震わせて言った。
「うん?」
そう言われてみると、確かにどこかから、薄っすらと有機的な匂いがしていた。
匂いは、感じ始めた瞬間から、徐々にだが強まっているように感じられた。
なぜだろうかと考えて、板垣はその匂いが、たった今、ほんのわずかにだが自分が開けた、扉の向こうからしているのだということに思い至った。
そうして、その小さなわずかな隙間の向こうに、光を反射して、きらめいている、赤い、水たまりが、あるのが、見えた。
板垣は反射的に扉を閉めようと、思い切り扉を引いた。
しかし、意に反して、扉はびくともしない。
もう一度、目いっぱい力を込めて扉を引くが、動く気配はない。
「板垣さん!」
背後で、川添が叫んだ。
――名前を叫んだだけじゃ、何を伝えたいのか、分からないだろうが。
板垣は舌打ちをしようとしたが、しかしどういうわけか、その簡単なことが上手くいかず、舌打ちに失敗した。
そもそも扉が動かないのではなく、自分の体の自由が効かなくなっていることに気づいた。足を動かそうにも、腰から下に力が入らず、扉から離れようにも、肩から先に力が込められないのだ。
何が起こっているのだ。
慌てて視線を下に向ける。
板垣は眼を疑った。
扉の取っ手を掴んでいる自分の右腕が、白い霜を吹いて凍り付いていた。
右腕だけではない。その下、両脚共に足先から同様に、長い間冷凍庫の中に入れていたかのように凍ってしまっており、床とほとんど一体になっていた。
なんだこれは。
板垣はそう言おうとしたが、呂律が回らず、言葉にならない。
もはや自由に首を回すことも出来なくなりつつあった。
そんな板垣の目が、血だらけの扉の向こうが垣間見えていた隙間から、鋭い爪を持った何者かの手がするりと現れ、扉を掴むのを見た。
続く瞬間。
扉は内側から、凄まじい勢いで引っ張られた。
板垣は、自身の体が凍ってしまった右腕ごと思い切り扉に引っ張られるのを感じたが、それは本当に一瞬のことで、次の瞬間には右腕の肘から先だけが、扉と一緒に自分から遠ざかっていくのを見ていた。そして、板垣の視界はつんのめるように、扉が引かれた勢いを残したまま、前に向かって倒れて行った。
やがて、顔面が地面に叩きつけられる直前、板垣は後方に自分の腿から下の両脚が、微動だにせず地面に取り残されているのを見た。両脚がまるで木の枝のように地面から生えているようで、それはとても間の抜けた光景に見えた。
いまや板垣の視界に映るのは、床に敷かれていた絨毯だけだった。
そういえば、後方に取り残された両脚を見たとき、そこに川添の姿はみえなかったな、と板垣はぼんやり思った。
――なんだ、あいつ、逃げ足だけは一丁前に早いんだな。
板垣は笑おうとしたが、もう体のどこも、動くことはなかった。
何かが素早く自分の体を乗り越えて廊下へ飛び出していく気配を感じたのを最後に、板垣は力尽きた。
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