041 2028年8月1日 ケネス・カーター
ジョージア州サヴァナに住むケネス・カーター(47)は、ピックアップトラックのハンドルを握り、綿花畑を分断するよう通る一本道を走っていた。ケネスの乗る車以外に、前にも後ろにも、走っている車の姿は見えない。
妻のリズは助手席に座り、外をぼんやりと眺めている。
リズの耳には耳栓がされている。もちろん、ケネスも耳栓をしていた。外でしている一切の音は分からないが、いつもカーラジオや音楽を大音量で聴いていたので、周囲の音がわからないという状況でも、別に運転に支障はなかった。
耳栓は、頭の狂ったヤツが歌っている歌を聞かないようにするためのものだ。間違って歌を聞いてしまうと、自分も頭が狂ってしまうというのだ。状況が状況だからこうして対策をしているが、それでもにわかには信じ難い話ではある。
日本や中国では触ると先祖返りする砂が猛威を振るっているらしいが、アメリカではまだ、西海岸の一部で症状の目撃例があるだけだった。ケネスの住む東の端のこのあたりでは、まだ咳や先祖返りの話は聞かないし、当然みたこともない。おそらくまだ、それらが広がって、このあたりにやってくるまでには時間がかかるのだろう。
後部座席へ目を向けると、昨日の夜、一晩中見張りをしていた息子のイーサンが窓にもたれてぐっすりと眠っている。
この事態が始まってからずっと籠城していた自宅では、家族3人交代で、頭の狂ったヤツが周囲に来ていないか、常に見張りをしながら生活していた。
籠城生活も、見張りをするときも、家族全員、万が一にそなえ常に耳栓をしていた。普段の生活に関しては、互いに注意を払ってさえいれば、音はなくても慣れでどうにかなるものだったが、しかし、見張りはそういうわけにはいかなかった。
ケネスはこれまで、周囲に気を配るということは、つまり目で見て確認するということで、音は付加的な情報を与える、いわばオマケのようなものだと思っていた。しかし、いざ音をシャットアウトすると、途端になにか、自分が聞いていないことで見落としていることがあるのではないか、という不安にかられ、自身の注意力が疑わしく思えてくるのだ。
常に何かを見落としているのではないかという疑念を抱きながら、目を凝らし、木の背後に、隣家の物陰に、垣根の裏に、何ものかが潜んでいないかを確かめながら、家の4方を行ったり来たりしなければならないのだ。それは、精神的にも体力的にも非常に堪えるものだった。
家族3人だけで、そんな交代監視の生活が1週間以上続いた。
しかし、これ以上周囲を警戒しながら、病気に感染しないようひっそりと生活し続けるのは、もはや限界だった。
そんな時、思い出されたのが、以前、酔った友人がぽろりとこぼした言葉だった。
それは、郊外の大学の敷地に、秘密裏に核戦争用のシェルターが敷設されているという話だった。学長がいざというときのために自分のために作らせたというもので、一般には知らされていない事柄だったが、こぼした友人は、その敷設に携わったというのだ。
友人は酔っていてもホラを吹くようなタイプではなかった。
シェルターが具体的に敷地のどこにあるのかだとか、そもそも行って入れて貰えるのかだとか、もろもろの問題はあった。だが、これ以上いつやって来るのか分からない存在に怯えながら、いつ終わるともしれない3人だけの交代監視生活を続けるよりは、いくらか未来に希望がありそうに思えた。なにより、移動するならば、先祖返りする砂が、東側にやってくるよりも前に移動し終えなければならないのだ。
いつしか道路の両サイドは綿花畑から鬱蒼と茂るナラの林に変わっていた。目的地の大学はもうすぐのはずだ。
シェルターを見つけられたとして、果たして自分たちは入れて貰えるのだろうか。何度となく頭をもたげては気持ちを暗くさせる疑念が、再びケネス頭の中に立ち込めた。
そもそも、ケネスはシェルターの規模がどの程度のものなのか、知らなかった。作らせた学長とその家族数人しか入れないような小規模なものなのか、ある程度の人間を収容できる大規模なものなのか。あるいは一人しか入れないものなのか。全く分からないのだ。
とにかく、自分たちの運を信じるしかない。もしシェルターに入れなかったときのことは、あまり考えたくなかった。
やがて、大学への入り口を示す看板が現れた。
ケネスはハンドルを切って、そちらの道へ入る。車が減速したことで、眠っていたイーサンが目を覚まし、眠そうな目で窓の外へ目を向けた。
散発的に立ち並ぶキャンパスの建屋を横目に、石像が並ぶ道路を抜けて、駐車場までやってきた。ケネスはエンジンを止め、しばらく周囲の様子に変化がないか待った。もし、ここに歌を歌う頭の狂ったヤツがいるなら、エンジンの音を聞いて、飛び出してくるはずだ。
しばらく待っていると、妻がケネスの肩をたたいて、建屋のひとつを指さした。
そこには、こちらに向かって歩いてくる、メガネをかけた若い男の姿があった。
息子よりもいくらか年上に見える、20代半ばほどの男は頭上に大きなスケッチブックを掲げていた。そこには『避難シェルターへようこそ!』とカラフルな文字で書かれている。
ケネスは妻と顔を見合わせた。
話では、頭の狂ったヤツは、多少の理性は残したまま、とにかく周囲の人間が自分と同類になるまで、歌を聞かせてくる、ということだった。
多少の理性、というところが、厄介だった。こちらが耳栓などで対策していることを見越し、相手を騙し、歌を聞かせ、同類にさせようというような行動をするくらいに、理性が残っているのだろうか。
あの男は、一見して、頭が狂っているようには見えないが、しかしケネス自身は、その症状の人間を一度も見たことがなかったので、判断がつかない。
そんな風に考えていると、男はスケッチブックをめくって、新たなページをこちらへ向けた。
『安心してください。僕は狂乱耐性持ちのプレイヤーです』
男は続けて、新たなページをめくる。
『この周囲に狂乱の歌の危険はありません。付近はすべて監視しています』
それを見ても、ケネスは安心できなかった。一度湧き上がった不安は、なかなか拭い去ることが出来ない。
しかし、そうやって悩んでいると、息子が先に降りていってしまった。
息子はスケッチブックの男へ近寄ると、こちらへ振り返り、耳栓を外して見せた。
「自作の監視ツールで、周囲の道路と、大学の敷地に入ってきたものがあれば、知らせてくれるようになっているんです。狂乱にかかった人は、絶対に舗装された道からしかやってこないので、これで安全は確実というわけです」
ジェフと名乗った男は、そういいながら、敷地の奥へ進んでいく。
耳栓を外して外を歩くという行為に、ケネスは多少の抵抗を覚えたが、しかし久しぶりに耳栓をせずに外を歩いている、という解放感も、またあった。
「シェルターの大きさはどのくらいなんだい」
ケネスは果たしてどれがシェルターへの入り口なのかと、目で探しながら訪ねた。
「100人くらいは収容できるヤツですよ。まだ余裕があるので、安心してください」
ジェフは振り返ってニッと笑った。
「あの道の先ですよ」
ジェフは敷地のはずれにある道を指さした。
「シェルターまでずいぶん遠いのね」
妻が額の汗を拭きながら言った。
「そうなんですよ。学長はできるだけ人目につかない場所に作りたかったらしくて、敷地のはずれの雑木林の中に入り口があるんです」
ジェフはそう言って、再びニッと笑った。
「なんだか変わったオブジェが多いね」
息子が周囲を見渡しながら言った。
たしかに息子のいう通り、キャンパス内の建物どうしをつないでいる道の脇には、先ほどからいくつも、石像が置かれていた。それらはすべて等身大の人間を模したもので、いずれも生々しい苦悶の表情を浮かべており、薄気味が悪いものだった。
「あ、それ見たことないですか? 結構有名だと思ったんだけどなあ」
ケネスと息子の間に割って入るように首を出してきたジェフは、そう言ってニッと笑ってみせた。
「へぇ、有名なんだ」
息子はそういって、石像のひとつに近づいた。
それは、助けを呼ぶように口を大きく開いて、腕を前に突き出している、老人を模した石像だった。
「そうですよ。まるで人間みたいでリアルだって、世界で有名なんです」
ジェフは手元のタブレットへ視線を落としながら言った。
「ちょっと怖いわね、本物みたい」
息子と一緒に石像へ近づいた妻が言った。
「まあまあ、とりあえず早くシェルターに入っちゃわないと、中のみんなが心配するから、行きましょう」
ジェフはそう言って、歩き出した。
「シェルターの中には、どれくらい人がいるんだい」
ケネスはジェフの背中へ問いかけた。
「今は僕を入れて23人ですね」
ジェフは振り返ることなく答えた。
「思ったより全然余裕があるんだな」
想像いてたよりもずっと少ない人数に、ケネスは驚いた。てっきり、80人くらいはすでにいるものだと思っていたのだ。
ジェフは雑木林へ続く道を進んでいく。少しづつ遠ざかっていくキャンパスの建屋を振り返りながら、ケネスはこのあたりには、もう石像がないことに気が付いた。
やがて、道の先に鉄製のゲートが見えてきた。その先は敷地の外のようで、おそらくこちらは裏口になるのだろう。
ここまですでに十分以上、夏の日差しの下を歩き続けている。汗だくの妻の顔には疲労が浮かんでいた。
「シェルターまでは、あとどれくらいあるんだい」
ケネスは付近の雑木林の中を覗き込みながら言った。目をこらしても、それらしいものは見えない。秘密にしたい存在ならば、こんなところから見えるはずもないのだが。
「ええ、あと少しですよ」
ジェフはそういって、再びタブレットへ視線を落とした。見たところ、特になにかのアプリケーションを開いているわけではなく、あくまで時間を確かめているだけのようだった。
ジェフは鉄製のゲートの前で立ち止まると、こちらへ振り返った。
「えっとですね、実はそこにカメラがあって、そこでシェルターの中の人たちが、こっちを見ているんですよ」
そういって、門の上部を指さした。
ケネスにはカメラの存在を見つけることはできなかった。しかし、今のカメラは針の穴程度の場所からでも撮影できると聞いたことがあるから、おそらくそういうものがあるのだろう、と思った。
「それで、万が一、万が一ですよ、あなたちの誰かが犯罪者ではないか、念のため中の人にチェックしてもらわなきゃいけなくて、気分が悪いかもしれないですけど、ここにちょっと並んで欲しいんです」
ジェフはそういって、立つ場所を指し示した。
「私たちはやましいことなど一度もしたことがないが、まあ仕方ない」
ケネスは溜息をついて、言われたとおりにした。
道の右端に妻、中央にケネス、左端に息子、という形で並ぶ。
「すいませんが、しばらくそのままで、待っててください」
ジェフはそういって、タブレットに視線を落とした。
ここで妙な動きをして、中の人に怪しまれ、せっかくのシェルターへ入れる機会を失うわけにはいかない。ケネスは黙って、門の方を向いて待った。
しばらく同じ姿勢で立ち続けていると、ジェフが待ち時間を潰すための話題作り、といった雰囲気でしゃべりだした。
「そういえば、みなさんって、アニマ・ムンディっていう日本のゲーム、プレイしたことあります?」
ケネスはゲームの名も知っていたし、そのゲームが頭が狂う歌や先祖返りの原因だと噂されていることも知っていた。しかし、生まれてこのかたゲームというものと縁遠い人生を歩んできたケネスは、首を振ってこたえた。
「いや、ゲームはしないんでね」
妻も首を振る。「いいえ、やったことないわ」
息子も肩をすくめる。「ないね、あんなかったるいゲーム、やる気がしないよ」
するとそれを聞いたジェフは、不気味なほどに口角をあげて、ニッと笑った。
「――ですよね」
ケネスは背筋が冷たくなるのを感じた。
ケネスはこれまで生きて来て、誰かからそんな顔を向けられたことはなかった。
こんな笑みは、映画かドラマの中でしか見たことがない。
ジェフが今浮かべている笑みは、邪悪な意思を秘めた、悪意に満ちた人物が浮かべる、そういう類の笑みだった。
不意に、妻が悲鳴をあげた。
ケネスはそちらを向こうとするが、体をひねろうとしても、どういうわけか上手くいかず、前のめりに倒れてしまった。地面に手をつきながらケネスは、自身の足が、つま先から急激に黒い石に覆われてつつあるのを見た。
隣の妻も息子も、同様に、足から石になりつつあった。
「ああ、よかった。みなさんちゃんと、入り口の石像を見ていてくれたんですねえ。ばらけると面倒だったから、助かります」
ジェフはニヤニヤと笑いながら言った。
「お前、いったい私たちに何をした!」
ケネスはジェフへ向けて叫んだ。
「いやあ、僕は何もしてませんよ。あなたたちが勉強不足なのが悪いんでしょ」
ジェフは口を尖らせて言った。
足元から徐々に体を覆っていく黒い石は、すでに脛のあたりまで達していた。そこに一切の感覚はなく、まるで脛から下が別の存在になってしまったかのようだった。
「世界中でゾンビ化と狂乱化が猛威を振るっている。それらは、アニマ・ムンディの三大呪詛と呼ばれる呪いの中の2つである。三大呪詛なんて名前なんだから、もう1つあるのだろう。それじゃあもう1つの呪いって、なんなんだろう。――たとえゲームをやっていなくたって、そういう風に調べて、考えて、想像しなかった、あなたたちが悪いんです」
ジェフはケネスと視線を合わせるように、しゃがみこんで言った。
「呪いだって?! お前は何を言っているんだ?!」
ケネスの言葉に、ジェフは吹き出すように大笑いを始めた。
「三番目の呪いはね、石化なんですよ、みなさん。石化した石像をある程度の距離から見てしまったら、20分程度で同じように石化するんです。離れていれば石化はしないので、アニマ・ムンディのプレイヤーなら石像があったら、どんなものでも近寄らないものなんですよ」
隣で妻がむせび泣いているのが聞こえた。
「畜生!!」
息子がそう叫ぶと、ポケットから拳銃を取り出した。
しかし、ジェフは素早く腿まで石になってしまい動けない妻を盾にするように、雑木林の方へ移動した。
「実は、みなさんには嘘を2つ、ついていたんです。本当は僕、シェルターがどこにあるのか、知らないんですよ。まあ、あったとしても、もう封がされて中に入れないとは思うんですけど。そういうわけで、僕はキャンパスでひとり寂しく生活してるんです」
ジェフの笑いを堪えるような、不快な声が雑木林のほうからしている。
石化は腰にまで達してしまった。腰から下に一切の感覚がない現実は受け入れがたく、恐怖で体がガタガタと震える。
「もう1つの嘘ですけど、実は僕、狂乱に耐性がないんです。かわりに石化には耐性があるんで、万が一、狂乱にかかった人がこの大学に近寄ってきても防御できるように、周囲に石化した像を設置して回ってるんです。こっちの道はまだ石像が置けてなかったから、これで一安心ってわけです」
もはや、笑っているこの男の言っていることは、ケネスの耳にはほとんど入っていなかった。ただただ、この場に家族を連れてきてしまったことが悔やまれてならなかった。
「それじゃあ、ちゃんと石になってくれているようなので、僕はこれで」
その言葉のあと、雑木林の方へ遠ざかっていく足音が聞こえた。
ケネスは突き刺すような日差しの下、まもなくやって来る自身の完全なる死を、じっと待つことしかできなかった。
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