042 2028年8月2日 俯瞰
8月2日午前4時半。
見知らぬ大人たちと同じ部屋で、薄いマットレスの上で空を見上げている自分。
翼は、目を覚ますたびに、これが夢ではないのだという事を思い知るものだった。
父の総太は、あの日、翼の目の前で息を引き取った。数時間後には母が死に、病院の医者たちも死に、翼と数人のゾンビ耐性を持っていた人間が生き残った。
何人もの大人たちが、『怒りや悲しみなんていうものは、時間とともに少しづつなくなっていくものだ』などと、大した人生を歩んできたわけでもないくせに、偉そうに言ってきた。しかし、こうして数日間、それが真実かどうかを確かめるために、ただじっと、本当になくなっていきはしないかと待ったが、結局そんなことは起こりはしなかった。
ただただ、翼の中で渦巻く、元凶に対する怒りや恨みはつのるばかりで、なくなっていく気配など、微塵もなかった。
翼は体を起こし、自宅からずっと背負ってきていたバックパックを手繰り寄せた。
バックパックの中から、父が使っていた手帳を取り出すと、父が最後に使ったページを開く。
最後のページに書かれているのは――
7月21日
北横浜衛生病院
隔離棟 医師 佐竹
身元不明者
デネッタ・アロック
入国管理DB ×(アリルゲダ?)
住基DB ×
――
父はあの日、アニマ・ムンディのNPC、デネッタに病院で遭遇したのだ。そうして、デネッタから病気をうつされてしまったのだ。日本中でたくさんの人がゾンビ化し、空飛ぶ不老の異邦人が多くの人に目撃され、サンドワームが現実に出現しはじめるより前に、この事態が起こり始めた本当に最初の頃に、父はゲームの中から現れた存在に、直接会ったのだ。
こいつが現実に現れたから、父も母も死に、友人たちも死に、自分の日常はめちゃくちゃになってしまったのだ。
すべての原因はこいつなのだ。
周囲を見渡し、誰もまだ起きていないことを確かめる。そうして、翼はバックパックの底からくしゃくしゃに丸まったタオルを取り出し、それを広げた。中には拳銃が一丁、切断された血まみれのベルトに繋がれた状態で収まっている。
それは、この学校まで逃げてくるまでの間に出くわした警察官の死体から、拝借してきたものだった。
弾は一発も使われていない。
これがあれば、すべてを元通りにできるのだ。
自分の怒りと恨みを晴らし、世界をおかしくした元凶を消し去り、元通りにする。
これ以上の正しさがあるだろうか?
******
8月2日午前5時。
同じ姿勢のまま、ここに隠れてからすでに8時間以上が経っており、体中が痺れてしまっている。ここは店同士を繋ぐ廊下からは反対側になって見えない場所だが、川添からも、廊下側で何が起こっているのかは、数センチほどのわずかな隙間からのぞき見える景色でしか分からなかった。
そこには、おびただしい量の血が、水たまりになって広がっている。すべて、自分のせいで死んでしまった人たちが流した血だった。自分のせいで、テラスモールに避難していた人たちの大半が、死んでしまったのだ。
アイツを、あの城からここまで連れて来てしまったのは、自分なのだ。
――いや、これは自分のせいなんかではない。
すべて板垣が悪いのだ。やっぱり、あんな奴のいう通りにすべきではなかったのだ。城になんか行くべきではなかったのだ。
出入り口や窓ガラスはすべて強固に氷漬けにされ、誰一人として、外に逃げ出すことはかなわない。ただただ、いつかアイツがここから去って行ってくれることだけを、祈るしかなかった。
川添は絶望的に痛む左手を抱えながら、唇を噛んで、それを堪えた。左手の指のほとんどは失われてしまっていた。 城からここまで逃げてくるまでの間に氷漬けにされ、逃げるために止む終えず川添自らの手で――
ごく近くで、ゴトン、と何かが踏み鳴らされる音が聞こえ、川添は息を止めた。
ゴトン、ゴトン、と音はこちらへ近づいてくる。
それは、この悪夢の十数時間の間で、幾度となく聞いた、アイツの足音だった。
蹄が、床を踏む音。
川添は、足音が自分の近くで止まらないことを祈りながら、浅い呼吸とともに、小さな隙間から外の様子をうかがった。
ゴトン、ゴトン。
足音は近づく。隙間の向こうに、青白い体毛に覆われた、アイツの姿が現れた。
ゴリラのような体に、狼の頭と、山羊の足を持つ、
それは、フェーズ4の最終局面で現れるモンスターの一種であり、高レベルのプレイヤーが数人がかりでようやく倒すことが出来るような存在だった。決して、自分たちのような一般人が太刀打ちできる相手ではない。
ゴトン、ゴトン。
足音が、川添が隠れているカバン屋の前を、通り過ぎていこうとしている。
川添は、大きく息を吐きだした。
――が、あろうことか足音は、そこで止まってしまった。
自分がここに隠れていることがバレたのだろうか。川添は身を固くしながら、この場から素早く逃げる方法を考えた。
足音のしていた場所から、低い声で、まったく意味の取れない言葉が聞こえた。
同時に、隣の店舗の中から、若い男の悲鳴が聞こえた。
メリメリ、という嫌な音と、続く絶叫。
よかった。見つかったのは、自分ではなかったのだ。
ほっと胸をなでおろす川添の背後に、突然どさりと何かが落下してきた。
これまで隙間から廊下側の様子をうかがっていた川添は、音の正体を確かめようと、首を回した。
左膝から先を失い、激しく出血している茶髪の男と、目があった。
男はアイツによって、ここへ投げ込まれたのだ。
男の体は、千切れた足から徐々に氷漬けになっていく。
――まずい。
川添がそう思うと同時に、男は助けを求めるように、川添へ手を伸ばした。
「いやだ、死にたくない……」
男は懇願するように、涙声で言った。
そんなことをされても、もう腰より上まで凍った人間なんか助ける方法はありはしないのだ。そこから切断して助かる人間などいないのだから。
だから、お願いだから、こっちを見るのは、こっちに手を伸ばすのはやめてくれ。
ゴトン、ゴトン。
足音がこちらへ近づいてくる。
「いやだ……」
男はなおも、川添へ手を伸ばす。
ゴトン、ゴトン。
自分が隠れていることは、間違いなくアイツにバレてしまったはずだ。
川添はここから脱出するタイミングを伺った。しかし、同じ姿勢で居続けたため下半身は激しく痺れてしまっており、とてもすぐに動くとは思えなかった。
そんな川添の視界が、不意に宙に浮いた。
同時に、これまで腹ばいになっていた棚が傾きはじめ、川添は踏ん張ることも出来ず、そのまま床に投げ出されてしまった。
まともに受け身を取ることもできず、川添は体を激しく床に打ち付けた。
ゴトン。
目の前に、青白い体毛を生やした、巨大な山羊の足があった。
顔をあげると、狼の姿をした顔が、ニヤニヤした笑みを浮かべながら、こちらを見下ろしていた。太い片腕が、これまで川添が隠れていた大きな棚を軽々と持ち上げている。
悪魔の口が不気味なほどに滑らかに動き出し、川添を氷漬けにしようと、魔術の詠唱をはじめる。
――ここまでか。
川添は、せめて長く苦痛を味わうことなく死ねることを祈った。
その時、どこかでガラスが割れる音がした。
突然悪魔は魔術の詠唱を止めると、これまで浮かべていたニヤニヤした笑みを消し、眉間に皺をよせながら、背後を振り返った。
悪魔の背中には、光り輝く短剣がひとつ、突き刺さっている。
続いて稲光が悪魔の右腕に降り注ぎ、黒く焦がした。
悪魔は怒りに満ちた咆哮をあげると、持っていた棚を放り投げ、魔術を詠唱しながら廊下の方へむかって突進していった。
悪魔が突進する先には、3つの人影があった。
それはいずれも、アニマ・ムンディの装備をまとった――不老の異邦人だった。
恐ろしい勢いで突進する悪魔に向かって、大きな剣を構えた不老の異邦人が切りかかる。悪魔の左腕は、いとも簡単に切り落とされ、床に無造作に落下した。
間髪を入れずに、小柄な不老の異邦人が悪魔の懐へ飛び込んだ。
しかし、悪魔が呼び出した巨大な氷柱が、小柄な不老の異邦人目がけて飛んでいき、小柄な不老の異邦人はそれに体を貫かれながら、視界の彼方へ飛ばされていってしまった。
仲間を失った不老の異邦人2人は、それを意に介すことなく攻撃を続ける。
川添はどうにかしてこの場から逃げようとするが、しかしこの期に及んで、足がいう事をきかない。
激しい閃光と爆発音が断続的に起こり、強烈な熱気と冷気が川添に吹き付ける。川添は身を守るために、頭を抱え身を縮めた。
やがて、悪魔は断末魔の叫びをあげながら、その場に崩れおちた。
悪魔を退けた2人の不老の異邦人は、そのままどこかへ飛び去って行った。
川添はどうにか立ち上がると、果たして不老の異邦人はどこへ行ったのか確かめようと、廊下へ出た。
見上げると、天窓になっていた吹き抜け廊下の天井が割れていた。不老の異邦人は、ここから入り、そして出て行ったのだろう。
そうして、川添は、その割れた天窓の向こう、早朝の湘南の空を見て、絶句した。
川添は最初、それらがなんであるのか、理解できなかった。
ただ、巨大な鳥の群れが、空を飛んでいるのだと思った。
しかし、それらは鳥ではなかった。
それらはすべて、人の形をしていた。
空を埋め尽くすそれらは、おびただしい数の、数えきれないほどの、無数の、
不老の異邦人の、群れだった。
******
8月2日午前6時。静岡県裾野市に住む
無人の食堂までやってくると、その一角に山積みにされた段ボールからミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、グラスに注いだ。
ここには、新見を含め、14人が避難している。
新見はそのなかで、最年長だった。
そもそも、ここには同年代はおろか、50代の人間もおらず、自分に最も歳が近いのは20以上も離れた、41才だった。
全員が全員、絵に描いたように軟弱な外見をしており、薄笑いを浮かべながら、自分の喋りたいことだけを好き放題に喋りまくる、薄気味の悪い、いけ好かない輩ばかりだ。
生き残れるのが、何やらゲームをやっていたことがある人間だけだとかいうのだから、眩暈がする。こんな奴らばかりが生き残ったのでは、人類がこのあと再起することなど、到底かなわないように、新見には思えた。
こんな風に、そんな集団の中に混じっていると、自分まで彼らの仲間になってしまったように思え、居心地が悪かった。新見がこうして生きていられるのは、ただ正月に帰省してきた孫に無理やり、あのゲームをやらされたからに過ぎないのだ。
1時間にも満たないあの時のことが、自分の命を救うとは。
今さっき新見が通ってきた廊下のほうから、数名が大声でしゃべりながら、食堂のほうへ近づいてくるのが聞こえた。
新見は溜息をつきながら、食堂の大きな窓の方へ顔を向けた。
そこからは、富士山が見えていた。裾野に住む人間だけが見ることのできる、まるでこちらを抱擁するかのような、雄大な富士の山の姿が――
新見は、持っていたグラスを落とした。
グラスが割れる音が響き、食堂へやってきた数人の男たちが、何事かと新見のそばへ近づいてきた。
彼らは新見へ、なにやら言葉をかけていたが、そんなものは、新見の耳には届かなかった。
新見の視線の先には、あるべき富士山の姿はなかった。
ただそこには、天をも突き破らんばかりの勢いで聳える、巨大な岩の塔じみた、灰褐色の岩山があるだけだった。
「うおっ、すげぇ、
新見の視線に気づいた痩せた男が言った。
「あちゃー、ついに分界も現実に来ちゃったかー、すげぇなこりゃ」
グラスの破片を拾っていた太った男は立ち上がると、笑いながら言った。
「まあ、サンドワームとかが現実に来るんだから、来るんじゃね」
眠そうな目を擦っている小柄な男が、早口で言った。
彼らは多少物珍しそうに、それを眺めたあと、水を飲みに奥へ行ってしまった。
新見は茫然と、富士山にかわり、忽然と姿を現した、その不気味な岩山を眺めていた。
新見には、それは、世界の終焉の景色のように見えた。
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