043 2028年8月2日 渡河安曇

 赤く染まった雲を突き破って空から落ちてきたのは、『吊るされた魔王』だった。

 ナムイ・ラーの『吊るされた魔王の招来』は、結局成功してしまったのだ。

 レガ=イシュ――渡河安曇の不老の異邦人は舌打ちをしながら、リーダーの指示に従い合流地点へ急いだ。


 地上では激しい地鳴りとともに、地面にいくつもの大きなひび割れが生じ、その一部は吊るされた魔王が放つ強い重力に吸い寄せられるようにして、空中へ浮上を始める。

 大規模戦闘レイドボスの開始がゲームから宣言アナウンスされ、すでに準備の整ったグループから、吊るされた魔王への攻撃が開始される。しかし攻撃している者の中には誰一人として、撃退が成功するなどとは思っている者はいないだろう。攻撃はあくまで、アリルゲダへの被害を最小限に抑えるためのものでしかない。


 吊るされた魔王はフェーズ3では破格の強さを誇るレイドボスであり、一度呼び出されてしまうと、撃退することはとても難しい。当然、これを呼び出す物語分岐は、倒すこと以上に恐ろしく高難度であり、呼び出す側は一つの失敗も許されないのに対し、妨害する側はいくらでも邪魔ができる。――本来であれば。

 しかし、ナムイ・ラーによる別の物語分岐発生を予感させるいくつものフェイントによって、吊るされた魔王の招来に関する物語分岐は見逃されてしまったのだ。


 地面が次々と浮き上がり、そこら中でNPCが悲鳴をあげているのが聞こえた。

 すでに4つのグループが、吊るされた魔王の猛攻を受け地上へ墜ちている。しかし怯むことなく、別のグループが魔王への攻撃を始めた。

 攻撃を続けてさえいれば、魔王が放つ重力を弱めることが出来る。倒せなくても、フェーズ3が終わるまでこうして重力を弱め続けることが出来れば、フェーズ4での最終的な勝機は、まだあるのだ。これでナムイ・ラーに10連続MVPなど与えて、さらに調子づかせたくはなかった。


―――


 安曇が寝苦しさを覚え目を開けると、カーテンの隙間から、陽の光が自分の体を強く照らしていた。安曇は体を起こしながら、時間を確かめる。

 午前7時過ぎ。いつもの時間だった。ここのところ、目覚ましがなくとも、自然とこのくらいの時間には目が覚めるようになってしまった。


 デネッタが戻ってきてはいないかと部屋を見て回ったが、デネッタの姿は見当たらなかった。昨日の朝、いつものように「この世界のことが知りたくて」と言って出て行ったきりだ。

 まさか、何かあったのだろうか。安曇の頭に、不安が波のように押し寄せる。

『ゾンビパウダーをばら撒いたヤツがまだ生きてたら、八つ裂きにしてやるのに』

 ネットのコミュニティに書かれた、怒りに満ちたコメントが思い出された。

 自分の悪い予感が、早くも現実になってしまったのだろうか。


 いや、デネッタは知覚遮断が使えるのだ。そう簡単に、他人に見つかったりはしないだろう。万が一、知覚遮断の隙を突いて見つかったのだとしても、また知覚遮断を使い、相手を撒けばいいだけの話なのだ。

 そう、だから、デネッタが危ない目に合う可能性は極めて低いと言える。

 あくまで、ここへ戻ってきていないのは、自分の意思であり、何らかの理由があってのことなのだ。


 そもそもデネッタがこの場所へ、いちいち戻って来る必要もないのだ。

 これまでは、ほかに行く当てがなかったから、しばらく行動を共にしていただけなのだから。

 ここよりも居心地のよい場所を見つけたのか、この世界で生きていくための目的を見つけたのか、あるいは自分の世界へ帰る方法を見つけたのか――わからないが、そういった前向きな理由で、戻ってこないのかもしれない。

 

 それ以前に、単純に遠出しすぎて、昨日中に戻ってこられなかっただけ、ということだって、十分あり得る。こんな風に、戻ってこない家族を心配するみたいに、おろおろする必要なんかないのだ。


 そんな風に自分の不安を打ち消そうと、デネッタには何事も起こっていない、という想像を重ねてみるが、どこまで行っても、最初に生まれた不安が消えることはなかった。

 ひとり、広いリビングに突っ立って考え込んでいた安曇は、とりあえず薄暗い室内に日の光を入れようと、カーテンを開けた。


 そうして、空を見上げて、言葉を失った。


 空を、無数の不老の異邦人が、飛び交っていた。

 安曇は呆気に取られながらもベランダに出て、周囲を見渡した。

 それはあまりにも多すぎるため、もはや数えることはできないが、見渡せる範囲だけでも、数千はいるように見えた。

 安曇のいる16階の高さよりわずかに高い位置から、ずっと上空まで、不老の異邦人たちはあてもなく、ふらふらと空をさまよっている。


 そんな中、比較的近い場所を飛んでいた数人が、不意に地上へ向かって勢いよく降下していった。

 わずかに間をおいて、地上で10メートル近い火柱が上がり、遠くぼやけてはいるが、炸裂音がした。しばらくすると、下りて行った数名が、空へ舞い戻ってきた。

 目を凝らすと、ほかの場所でも同じように、不老の異邦人が地上へ降りていったり、また戻ってきたりを繰り返しており、一部で戦闘が行われているらしい、閃光や火柱が見えることもあった。


「なんだよこれ……」

 安曇は茫然とその光景を眺めていた。

 これまで、現実で確認されていた不老の異邦人は、ギルド『ナムイ・ラー』のメンバーだけだった。しかし、いま目の前で飛び交っているのは、明らかにナムイ・ラー以外の、その他大勢の不老の異邦人である。一晩の間に、何があったというのか。


「ナムイ・ラー、以外の……」

 安曇は急激に背筋が冷たくなるのを感じた。

 慌てて室内を振り返る。当然、そこにはデネッタの姿はない。やはり、戻って来てはいない。


 これだけ不老の異邦人がいるのでは、この中に『見破り』能力をもった不老の異邦人がいる可能性も、十分にあるのではないか。

 万が一『見破り』能力を持った不老の異邦人がいれば、デネッタの知覚遮断が破られてしまう可能性がある。


 これまでは、ナムイ・ラーのメンバーしか現実に現れていなかったので、安心していた。知覚遮断を破る、『見破り』能力は、ナムイ・ラーの誰も、持っていなかったからだ。『見破り』は取得する難易度に比べて恩恵が少なく、また所持できる能力の数にも限度がある都合上、上級プレイヤーからは見向きもされない能力だった。

 しかし、これだけ不老の異邦人がいたのでは、『見破り』をもった不老の異邦人が絶対にいないなどとは到底言い切ることができない。


 たとえ不老の異邦人にデネッタの知覚遮断が破られたとしても、不老の異邦人に攻撃されはしないだろう。不老の異邦人は、一般NPCには直接攻撃が加えられないのだから。

 しかし、知覚遮断が破られたその時、その周囲に人間がいれば、話は別だ。


 、デネッタの知覚遮断を破るのは、デネッタにとって最も不都合な、最悪のタイミングを狙ってくる可能性がある。


 なぜなら、それが往々にして、最もよい報酬の得られる、物語の分岐であることが多いからだ。

 劇的な効果を狙ったプレイは、それだけ派手な分岐を生みやすいのだ。


 再び、近くで不老の異邦人が地上へ降りて行った。彼らが降りて行った先は、雑居ビルの屋上だった。

 いったい不老の異邦人たちは何と戦っているのだろうかと安曇が目を凝らすと、そこには濃緑色の大きな爬虫類のような生き物の姿があった。

 いちいち名前を憶えていられないほどに雑多なモンスターの一種ではあるが、アニマ・ムンディの中で幾度となく見た覚えのある相手だった。

 サンドワームとゾンビに加えて、まだモンスターが増えるというのか。

 昨日までは、現実にアニマ・ムンディの存在が新たに出現する事象は、もう終息に向かっているのではないかと、希望的観測を抱いていたが、しかし、それはとんだ思い違いだったのだ。大量の不老の異邦人が現れ、さらに新たなモンスターまでもが、現実に現れてしまった。


 濃緑色の大きな爬虫類を撃退した不老の異邦人が、空へ戻っていく。

 アニマ・ムンディでは、うまくいかないことがあっても、次の回を――次の月を待てば良いだけだった。しかし、これは現実なのだ。一度失われてしまったものは、二度と戻っては来ないだろう。


 安曇は室内へ戻ると、寝室へ入り、壁に吊るしていたバックパックを手に取った。

 デネッタは不老の異邦人が知覚遮断を破る方法を持っていることを知らない。どうにかしてデネッタを見つけ出し、それを知らせなければならない。


 何かが起こるよりも前に、自分の悪い想像が現実になる前に、どうにかしてデネッタを見つけ出さなければならない。

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