023 2028年7月23日 曽我幸男(逗子駅前①)

 午前8時半。逗子駅前のマツモトキヨシの店内で、フリーターの曽我幸男(23)は、椅子に腰掛けて、格子状の鉄製シャッター越しに駅前のバスロータリーを眺めていた。


 無人のロータリー向こう側に、背の低い逗子駅の建屋が見えている。人の往来も、電車の往来も、一切なく、とてつもなく静かだった。そんな場所を、ときおりサル化した人々が、不気味なほど元気一杯に四足歩行で駆け回るのが見えた。

 彼らの姿は、チンパンジーの上手な物まねを一心不乱にしている頭のネジの飛んだ人にしかみえず、曽我にはそれが、現状の混沌を形成する恐怖の源のひとつであるとは、とても思えなかった。


 曽我はかなりの時間こうしているが、外を通るサル人間が、曽我の存在に気付くことはなかった。ネットでも話題にはなっていたが、サル人間は目も耳も、あまり利かないらしい。至近距離まで近づかれなければ、見つかる恐れは少ないようだ。

 ただ、一度でも彼らに見つかってしまうと、麻薬犬のように恐るべき嗅覚で、地の果てまででも追いかけてくるのだという。なので、とにかく見つからないようにすることが、重要なのだ。


 とにかく、まだサル人間に一切みつかっていない現状を維持できさえすれば、この店の中にはありあまるほどの食料と水があるので、かなりのあいだ篭城することが出来そうだ。どれほど現状が混迷を極めていようとも、時間が経てばかならず沈静化するはずだ。曽我は自分がこの店に忍び込んだことと、サル人間に気付かれずにシャッターを閉められた幸運に、ただひたすら感謝していた。

 すくなくとも、現在病気に感染せずに済んでいる人間の中では、かなりの安全が約束された状態にいるのではないかと、曽我は自分の現状を評価していた。

 いいことだ。

 安心できるというのは余裕があるということだからだ。余裕があれば、愚かな判断をせずに済む。


 曽我がこのマツモトキヨシに忍び込んだのは、今から4時間ほど前のことだった。それまでは、すこし離れた場所にある独身者向けアパートの自宅に篭っていたのだが、しかしあまり物を買い込まないタイプの曽我の自宅には、せいぜい2日暮らす程度の食品しか残されていなかった。

 それまでの間に、何人もの咳をその身に受けて、すでに自分が、であることを認識していた曽我は、腹が減り、焦りで注意力が失われる前に、先んじて物のありそうなこの場所へ篭城場所を移したのだった。

 曽我が忍び込み、シャッターを下ろしてからしばらくして、学生のカップルがやってきた。彼らは、シャッターを開けて中に入れてくれと懇願してきたが、曽我はシャッターの開閉音や、シャッターを開けている間にサル人間がやってくることを恐れて、その願いに応じなかった。

 どうやら彼女の方は足に酷い怪我をしているらしかったが、そういうわけで、曽我にはどうすることもできなかった。

 もちろん、彼女のことを可哀想だとは思うし、助けられるなら助けたいのは本心で、良心も十分に痛んだ。が、それでも曽我は自分の死の可能性を勘定にいれてまで人助けをすることは、絶対に出来なかった。

 折角病気にかからずに済む幸運に恵まれたのだ。そう簡単に命を捨ててたまるか。


 しかし、そうはいっても、自分はなぜ病気に罹らなかったのだろうか。曽我にはまったく見当がつかなかった。

 ネットではアニマ・ムンディをプレイしていた人間は病気に罹らない、などといった噂が広まっている。


 感染した人間が、砂――ゾンビパウダーによく似たものを吐き出すところや、いちど死んだ人間が、唐突に蘇ってサルのように動きまわるところなどが、あのゲームの中の三大呪詛のひとつに酷似しているから、この病気はゲームの中から出てきたものなのだ、という理屈だ。

 おまけにPCによく似た外見の人影がいくつも目撃されたせいで、その推論の信者達は、もはや否定的意見を聞く耳を持たなくなっていた。


 たしかに、曽我も2年ほど前にアニマ・ムンディを遊んではいたが、しかし一緒にプレイしていた同い年の友人は、昨日の夕方、この病気に罹って咳こみながら死んでしまった。

 ゲームをプレイしていたからといって、病気にかからないわけではないのだ。

 しかし、そんな曽我の発言も、あれやこれやと理屈をつけて跳ね除けられ、曽我は呆れてものが言えなかった。

 ただ、偶然それらしく見える現象同士が、互いに手を繋ぎあって強固な幻影を築いているのだと、なぜ誰も考えないのだろうか。なんでもかんでも、それらしく見えるというだけで、その考えに飛びついて思考停止するのは間違っている。情報弱者のすることじゃあないか。

 

 曽我がそんな風にぼんやり考えていると、なんの前触れもなく、明け方からずっとしていた地鳴りが、遠くでしはじめた。

 音はいつものように、遠くなったり近くなったりをゆっくり繰り返し、数分で止まった。

 安全圏に篭城している曽我にとって、唯一の懸念事項が、この謎の地鳴りだった。昨晩はこの地鳴りの影響で爆発事故も起こっていたようだ。そんなことが、この近くで起きれば、ここを棄てて移動しなければならないかもしれない。それだけは避けたかった。

 そうはいっても、地鳴りの正体も分からない今、動ける範囲もこの建物の中だけの曽我にとっては、何も起こらないことを祈るくらいしか、することはないのだが。


 駅前ロータリーへ、サル人間が一匹、体を無闇に上下させながらやってきた。

 またか、と曽我は一瞬思ったが、しかしそのサル人間の姿が、これまでに見たほかのサル人間とは異なることに気がついた。

 まず、そのサル人間はほかのものとは異なり、体中が異様に傷ついており、酷い怪我だらけだった。離れていてよくは見えないが、下あごは欠け、頭皮の一部が失われている。これまで何匹ものサル人間をみてきたが、こんな風に傷ついている固体をみたのは初めてだった。誰か生存者と格闘した結果なのか、それともサル化する前に傷つけられでもしたのだろうか。


 しかしそれ以上に奇妙なのは、服装だった。

 そのサル人間は、鎧を纏っていた。首から下が、ゲームや映画などでよく見る、個性のない西洋風の甲冑におさまっているのだ。

 そんな重たいものを纏っているからなのか、多少そのサル人間の動きは鈍い。

 あの鎧は一体なんなのだろうか。どこかで映画やCMの撮影でもしていたのだろうか。などと考えているうちに、鎧サル人間は曽我の目の届かない場所へ行ってしまった。

 曽我は、写真を撮っておけばよかったな、と少し後悔した。


 午前10時を回り、外を照らす夏の日差しはどんどん強くなっていく。

 アスファルトは煌き、セミは一層騒々しく鳴き始めた。


 少し喉が渇いた曽我は、ミネラルウォーターの棚から小さなボトルを取ろうと、腰をかがめた。

 その時、かなり近い場所で地鳴りが鳴り始めたのを、曽我は聞いた。

 次の瞬間、地面の下から突き上げるような、強烈な揺れに襲われた。


 曽我はそのまま、前のめりに転んだ。これまで体験したことのない激しい揺れで、再び立ち上がることも出来ず、曽我はとにかく頭を抑えながら体を丸めた。周囲の棚からは、商品が降り注いだ。顔をふせているため何が当たったのは分からないが、とにかく重いものがいくつも曽我の体を打ち続けた。


 地鳴りはほとんど曽我の真下からしているように感じられた。何か巨大なものが地面の下を移動しているような、音の大きさに多少の波はあるが、音の源は間違いなくこの真下だった。

 店内の至るところで、様々なものが割れ、砕ける音がしている。視界の隅で、店の窓ガラスが跡形もなく砕けるのが見えた。


 このままではマズい。

 それは分かっていたが、しかし強烈な揺れの中では、どうやっても立ち上がることが出来ず、わずかに後ろに這ってみたところで音の源から逃れられる気配はなく、そうやって自分の状況を理解するにつれて、どう足掻いても逃れらられないという恐怖が、曽我を襲った。


 早く終わってくれ、そう願うことしか曽我には出来ない。

 しかし、曽我の思いに反して、揺れと音は徐々に大きくなってきていた。

 もう商品はあらかた床に散らばり終えたらしく、落ちてくるものはなかったが、曽我は一層強く、頭を抑えて体を縮めた。


 このまま永遠に揺れが収まらないのではないかと、そんな考えが曽我の脳裏を掠めたころ、不意に揺れは弱くなり、やがて止まった。


 曽我は恐る恐る、顔をあげた。

 あらゆる商品は地面に散らばり、足の踏み場もない。

 立ち上がろうとして、わき腹が痛むことに初めて気付いた。さっき落ちてきたもので、骨が折れたのかもしれない。鎮痛剤を探そうかと思ったが、しかしそんなことよりももっと大切なことをしなければならないことを思い出して、曽我は割れて跡形もなくなった窓へ近づいた。

 鉄製のシャッターは、格子部分が多少は歪んでいるが、まだどうにか外とを隔てる壁としての役目を果たしてくれそうだった。

 しかし、そうはいっても、ガラスがなくなったいま、外とを空間的に隔てるものが、壊れかけたシャッターだけというのは、心もとなかった。


 どこか近くで、家鳴りがした。

 曽我はその小さな音を気にすることなく、とりあえず棚を置いて、シャッターと棚で二重に防御しておこうと思い立ち、手近なところにあった商品棚を動かそうと力をこめた。しかし、棚は非常に重く、簡単には動いてくれない。ただ脇腹が、強く痛んだだけだった。


 再び、どこか、ごく近い場所で、何かが破断するような音が聞こえた。

 今度の音は先ほどよりもかなり大きいものだったので、曽我は音の正体がなんなのか見極めようと耳を澄ました。


 再び、破断音が鳴った。

 どこからしているのかは、明白だった。


 


 曽我がそうして、床を見下ろしたとき、地面が急激に崩落をはじめ、曽我は真っ暗な闇の中へ飲まれていった。

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