022 2028年7月23日 テオ・コラン/アリス・コラン

 深夜、パリ郊外。テオ・コラン(29)は、酔っ払って動けなくなった友人を、どうにか立たせようと悪戦苦闘していた。テオがいくら踏ん張っても、友人は全く足や腰に力を入れる気配がなく、ただただ、先ほどまでいた店の親父やら客やらへ呪詛のような恨み言を低い声でぶつぶつ呟いている。

 テオの忠告を聞き入れずにしこたま飲みまくったこの友人は、店にいた女性客に散々絡んだ挙句に、店の親父から引きずり出されたのだ。

 これが幼馴染でなかったら、知らん振りして置き去りにするところである。


「おい。こんなところで寝たら、日本のあのヤベェ病気に罹って死んじまうぞ」

 冗談めかして言ってみたものの、テオはそれほどその病気を恐れているわけではなかった。ニュースは大概、視聴者の恐怖を過剰に煽るものだし、実際のところは大したことがないに違いないのだ。

 そもそも、潜伏期間が極めて短く、たったの6時間で患者が死ぬような病気が、長く感染の輪を広げていけるはずがないのだ。以前に観た映画でも、そう言ってたではないか。いまだに、国内やEU圏内であの咳の患者が現れたというニュースがないのが、その証拠である。

 などとぼんやり考えているうちに、友人はよだれを垂らしながら眠りはじめた。既に日付を越えている。

 いい加減に帰らないと、また妻に小言と言われかねない。

「おい! マジでいい加減に立てよ! このまま置いてくぞクソが!」

 テオはそう言って、友人のわき腹をつま先で小突いた。

 友人は抵抗するように、体を軽く捻った。


 その時、道路を挟んで向かいの路地で、何か大きな物が落下してきたような物音がした。音から察するに、落ちてきたものは、ちょっとやそっとの大きさのものではない。少なくとも人間くらいの重量がありそうなものが落下したような音だった。

 テオは目をこらして、落ちてきた物体を確かめようとしたが、ここからでは路地は完全な闇に包まれていて、様子は全くわからない。

 丁度路地の前を通りがかった、冴えない小太りの中年男が、音の正体を探ろうと覗きこんだ。

 テオは、友人のわき腹をつま先でぐりぐりと押しながら、男の様子を眺めていた。

 男はユニリングのバックライトで路地を照らした。しかし、テオからは男の手首が光ったのが分かっただけで、その弱々しい光によって何かが明らかになることはなかった。

 耳を済ませると、路地からは何者かが、息も絶え絶えに口笛を吹いているような音が、かすかにしていた。


 小太りの男が、さらに一歩、路地へ踏み込んだ。

 男の上半身が徐々に影に隠れていく。

 さらに一歩。

 突然、男の姿が視界から消えた。

 路地の闇の中に、男のユニリングが発していた光が、上下左右に乱舞する。そして、瓶が割れる音やら、なにかを叩きつける音、硬いものが砕ける音が続く。

 次の瞬間、この世のものとは思えないような叫び声が響いた。

「おい」

 テオは路地に視線を向けたまま、これまでより強く、友人のわき腹を突いた。

「痛ってぇなぁ……」

 友人は唸るように言った。

 ひときわ多きな破砕音のあと、路地の影から先ほどの小太りの男が這い出てきた。男は顔からも、こちらに伸ばされた腕からも、おびただしく出血している。

 テオの頭の中には、男を助けようという判断は微塵もなかった。アレは明らかに自分が助けられるような状況ではないことは確かだし、あんなふうに短い時間で相手をあれだけ傷つけられるような存在に、自分がしてやれることなど、なにもない。


「おい、早く立てって! マジで!」

 テオは友人の腕が外れることもいとわず、渾身の力で腕を引っ張った。

 そうしてようやく、友人は苦悶の声を上げながら、ゆっくりと立ち上がった。

 小太りの男はどうにか道路まで這い出してきて、立ち上がった。

 覚束ない足取りで、ふらふら彷徨いながら、街灯によりかかった。

 テオはてっきり、男が逃げ出してきた路地裏から、男を血だらけにした元凶である何者かが飛び出してくるだろうと思っていたのだが、そういうことは起こらなかった。


 割れた額から流れ出る血をぬぐうこともせず、男は街灯によりかかりながら、低い声で聞いたことのないメロディを口ずさみ始めた。

 古い記憶に眠っていた音楽を思い出そうとするように、たどたどしく。

 しばらくその様子を眺めていたテオは、男が口ずさんでいるメロディが、さきほど路地から微かに聞こえた、口笛のメロディと同じことに気付いた。

 それは牧歌的な、民謡のようなメロディなのだが、ときおり思い出したように不快に外れた音が含まれていて、聞いていると気分が悪くなりそうだった。


 小太りの男は、虚ろな瞳で、同じメロディを繰り返し繰り返し、狂ったように口ずさみながら、街灯から背を離し、こちらにゆっくりと近づいてきた。

 

 テオの第6感が、そう強く訴えていた。

 たった今、何か普通ではない事が起こったのだ。

 何が起こったのかは定かではないが、間違いなく、自分にとってよくないことが起ころうとしている。


 この状況を打開するために、自分がしなければならないことは何か。

 テオは素早く周囲を見渡した。

 ああ、そうか。

 テオは強いひらめきを得て、肩を貸していた友人の顔面を、開いている左腕で思い切り殴りつけた。

 友人は情けない声を出しながら、何かを訴えていたが、テオはそれどころではなかったので、そのまま繰り返し、友人の顔面を殴り続けた。

 10回ほど殴ると、友人は動かなくなった。これで友人をここに置いていくことが出来る。

 テオは肩の荷が下りたことに安心しながら、近づいてきていた小太りの男へ歩み寄ると、その血まみれの顔面を渾身の力で殴りつけた。

 しかし小太りの男はそれをものともせず、テオのユニリングをつけた左腕をつかもうと腕を伸ばしてきた。

 テオは男の腕をぎりぎりのところでかわして、すれ違いざまに、顎の下を勢いよく殴り上げた。

 それでようやく、小太りの男は膝を折って動かなくなった。


 テオは周囲に自分を邪魔するものが居なくなったことを確認すると、ユニリングで妻をコールした。

 本当なら、人通りのありそうな場所や、バーなどに入って他の誰かを痛めつけてやりたいところだったが、物事には順序というものがあり、通るべき道があり、従うべきプロセスがあるので、その原始的な欲望血が見たいを叶える前に大人しく、妻がコールへ応答するのを待った。

 小太りの男が口ずさんでいた、あのメロディを口ずさみながら。


******


 丁度眠りに落ちたばかりだったアリス・コラン(29)は、突然鳴り出したユニリングに叩き起こされた。

 コールしてきたのは夫のテオだった。

 時計は既に0時を越えている。また飲みすぎて動けなくなったのだろうか。

 強い苛立ちを覚えながら、アリスはコールに応じた。


 しかし、向こうから聞こえてきたのは、テオの奇妙な鼻歌だけだった。

 酷く酔っ払っているらしい。ふたりの時間を疎かにしてまで出て行った挙句の醜態に、アリスは強い怒りを覚えた。

 聞こえてくる鼻歌は、こちらの感情を逆撫でし、挑発するように、ときおり音が外れていて、聞いているうちにさらに腹が立ってきた。

 だが、そもそもこんな風に夫と通話している場合ではないことに気付いて、アリスは黙って通話を切った。

 そしてつんのめるように寝室を出ると、ダイニングテーブルの上でスタンバイになっていたノートパソコンを起動した。

 画面には編集中だったアレンジ料理の紹介動画が表示されている。アリスはそこから音声レイヤを削除した。続いて新規レイヤを作成し、普段あまり使わない直接録音を実行した。

 アリスは動画投稿にあわせて購入した高感度マイクを手元へ引き寄せ、さきほどテオが歌っていた鼻歌を、寸分たがわず真似て口ずさんだ。

 たっぷり10回ほど繰り返したあと、動画をコンバートし、アップロードする。

 アリスはとても満足して、席を立った。

 これで、ようやく――

 

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