021 2028年7月23日 永井小枝

 午前6時。横須賀市に住む永井小枝(51)は、大きな地鳴りを聞いてまどろみから目を覚ました。

 数時間前からなり始めたその音に、最初てっきり大きな地震でも起こったのかと思ったが、とくに周囲が揺れている気配はなく、ただ地鳴りがしているだけだった。

 時計を見ると、いつも起きている時間を少し過ぎていたので、永井は横になりっ放しで痛む体を起こして、ベッドから下りた。


 おとといひいた酷い風邪のせいで、昨日は一日家に引きこもって眠っていた永井だったが、今は体中がとてもすっきりした感覚に満ちていた。枕元の体温計で体温を測ると、熱は平熱まで下がっていた。

 冷蔵庫から野菜ジュースを取り出して、喉を潤す。


 そういえば、妙な病気が流行しているとかいう話は、どうなったのだろうか。

 永井はニュースサイトを閲覧しようとしたが、自分のユニリングは壊れてしまっているらしく、アプリケーションが起動しなかった。昨日の段階で壊れていることに気付いてはいたのだが、一日おいておけば直るのではないか、と淡い期待を抱いていたのだ。甘い目論見だった。

 テレビは邪魔だからと、去年処分してしまったし、こうなると世界情勢がどうなっているのか、確認する手段がなかった。

 たしか、空港や駅を封鎖するといっていたが、もう問題は解消したのだろうか。

 少し気味悪さがあったものの、しかし昨日一日、ゼリー飲料しか摂取しておらず、空腹はかなりのものになっていた永井は、近所のコンビにに朝食を買いにいくことにした。


 シャワーを浴びて普段着に着替えると、永井は外へ出た。夏の日差しも、まだこの時間であれば大したことはない。

 歩きはじめた永井は、すぐに周りに違和感を覚えた。

 かすかに吹いている風が草木を鳴らす音と、少し離れた海から届く波の音が、妙に大きく感じられるのだ。

 どうしてこんな風に、風や波の音が気になるのか、首を回して考えていると、ひとつの答えに行き当たった。

 周囲があまりにも静かすぎるのだ。

 しているのは風と波の音だけで、近くを走る国道を行き交う車の音も、バイクの音も、聞こえてこない。


 いや、しかしそんなことがあるだろうか。いつもこのくらい静かだったのではないか。単純に、病み上がりで感覚が鋭敏になっているだけかもしれない。そもそも、今日は休日の早朝で、走っている車が少ないだけに違いない。

 そう考え直して、永井は再びコンビにに向かって歩き出した。


 しかし、3分ほど歩いてたどり着いたセブンイレブンは、臨時休業の貼り紙を出して営業していなかった。

 貼り紙には本当に一言、『臨時休業』と書かれているだけで、その理由も、いつからいつまで休業するのかも書かれていなかった。

 風の音だけが、異様にしつこく耳につく。 

 ふと、辺りを見回してみても、もうすぐ7時になるというのに、自分以外に外を歩いている人がいない。

 再び、遠くで唸るような地鳴りの音が始まり、大きくなったり小さくなったりを繰り返したあと、2分ほどして止まった。

 永井は、車が3台ほどしか止まれない狭い駐車場にひとり佇みながら、急激に自分が世の中から取り残されたような感覚に襲われ、眩暈とともに焦りを覚えた。

 何か、とてつもなくよくないことが起こっている予感がした。


 ――埼玉の両親は無事だろうか。

 そう思った途端に、永井は強烈な不安に襲われ、いま来た道を引き返そうとした。

 そうして振り返って、女と目が合った。


 道路の向こうからやって来た長身の女は、肩ほどまであるブロンドの髪を風になびかせながら、しっかりとした足取りでこちらに近づいてきていた。

 女は顔の半分以上を包帯やらガーゼで隠しているにも関らず、永井にと思わせる力に満ちていた。

 体のライン、こちらを見据えた瞳、一歩を踏み出す仕草、流れ動く髪、たすきにかけた鞄を押さえる腕、そのすべてが極限まで研ぎ澄まされており、こんな状況にあるにも関らず、永井に感嘆のため息を出させた。


 ぼんやりとしているうちに、女は永井の目の前までやってきて、立ち止まった。

 女の身長は180cm以上あり、少し離れていても視線を上に感じた。左目は包帯で隠されており、頬の半分も大きなガーゼとテープで覆われている。よく見ると、シャツから出た腕から指の先までもが包帯で覆われていた。

 大きな怪我でもしているのだろうか。


 などと考えていると、女の口が動きだした。

「ここがどこか、教えてくれないか」

 女の言葉が理解できたことが、自分の語学力のなせる技なのかと一瞬思った永井だったが、しかし単純に相手が、ごく自然な日本語で問いかけたのだと気付いた。

「えっと、ここは、横須賀の秋谷ですけど……」

 日本語を喋っている相手に、ここは日本だ、と答えるのは間が抜けている気がして、永井はそう答えた。

「ヨコスカ……アキヤ……」

 女はその言葉がまるで聞きなれないといった様子で繰り返した。

「神奈川県の、横須賀ですよ……日本の」

 結局、永井はそう言った。

 女は額に手をあてながら、再び永井の言葉を繰り返した。

「その、あなたは、どちらからいらっしゃったんですか?」

 永井が問うと、女は額に手を当てたまま答えた。

「東アリルゲダのレッドリバー……」

 それは、永井の知らない国の名前だった。

「なるほど……」

 とりあえず永井はそう相槌をうってみたが、国名に『東』がつくものなど、東ドイツと東ティモールくらいしか思い浮かばない。しかし、自分は世界の国名を全部記憶しているわけではないので、知らない国があるのも当然だ。

 本当なら検索してどこにある国なのか確かめたいところだった。


「わけのわからない質問ですまないが――」女はそう断ってから、「私はどうして自分がここにいるのか分からないんだ。それで、どうにかして自分の国に帰りたいんだが、どうすればいい?」

 女は困り果てた表情で言った。


 永井は一瞬、成田空港と即答しそうになったが、思いとどまった。

 どうしてここにいるのか分からない、というのは一体どういう状況なのだろうか。

 誘拐?

 記憶喪失?

 そんな人が、いきなり空港に行ったところで、無駄足になるのは目に見えているんじゃないか。


「パスポートは持ってますか?」

 永井の問いに、女は一瞬考えてから、首を横に振った。それは、持っていない、というより、それが何か分からない、という反応であるように見えた。

「それじゃあ……」

 永井の頭の中には、答えは二択に絞られていた。彼女が向かうべき場所は、警察か、入国管理局である。

 ただ、後者は具体的にどこにあるのか、検索が使えない今の状況では、永井にはさっぱり見当もつかなかった。

 なので、永井は、

「それじゃあ、とりあえず警察に行ったほうがいいですね」

 と、答えた。


「ケイサツ?」

 女は、小さく首をかしげた。

「ええ、その、おそらく警察に行くのが、あなたが自分の国に帰る、一番早い手段だと思いますよ」

 永井はそう言ってから、振り返って国道の方を指差した。

「ここを真直ぐ行くと、少し太い道路に出るので、そこを左手に真直ぐいくと、駐在所が――警察があります。確か、入口に赤いランプみたいなのがついてて、看板とか掲示板が沢山ついてる建物があるので、それです」

 永井は、記憶を頼りにそう言ってみたが、駐在所は目印の少ない建物で、彼女にそれが見つけられるのか少し不安だった。本当なら一緒に行ってあげたいところなのだが、しかし親の安否が気になってしかたがなかった永井は、思い出せる限りの駐在所の特徴を女へ伝えた。


「分かった。ありがとう。それと、もし、そこに人がいなかったときのために、もう1つ、知っていたら私が帰るのに必要そうな場所を教えてくれないか」

 永井は女へ、国道沿いに歩いていけば、もう少し大きい警察があることを教えた。

「本当にありがとう。助かったよ」

 女は、出会ったときよりも少し明るい顔をして言った。

「いいえ。なんだか変な病気がはやっているみたいだから、気をつけて」

 永井のその言葉に、女は表情を曇らせながら、国道へ向かって歩き出した。

 

 女の背中が、徐々に小さくなっていく。それを見送りながら永井は、名前くらい聞いておけば良かったな、と思いながら、咳き込んだ。

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