020 2028年7月23日 渡河安曇
「――これだけ重いもので塞いでいれば、鍵もかけたし、大丈夫のはず」
寝室の扉の前には、古川理沙とふたりがかりでリビングから引っ張ってきた、非常に重たい木で出来た棚を置かれている。
寝室の室内側への出口はここだけで、庭へでる窓は先ほど雨戸で封鎖した。インターネットの情報を信じるのならば、これでサル化した人々は、外へ出られないはずだ。
人々――。
扉の向こう側。真っ暗な清水翔子の祖父母宅寝室で、天井を仰いで目を瞑っている、6人の遺体は――
安曇は首を振って、思考を止めた。
時刻は深夜の1時を回っており、物音ひとつなく静かだ。
これで何度目になるか分からないが、安曇は大きく息を吸い込んで、呼吸を整えた。30秒ほどじっとして、ゆっくり呼吸を続けるが、自分が咳き込む気配はない。
直輝が咳き込み始めたときに、自分は間違いなく、直輝の咳を背中に受けていたはずだった。そのあとも、この病気が強力な伝染力を持つと知るまでの間に、幾度となく咳き込んでいる友人達の周りを、行ったり来たりしている。それにも関らず、安曇はこの病気にかからずに済んでいた。
少し離れた場所で、膝をかかえてすすり泣く理沙も同様に、咳をしていない。
自分たちは助かったのだろうか。
それとも、単純に時間差でこれから発症するのだろうか。
安曇には見当もつかなかった。
これから、思い出したように病気になる可能性も十分にあるんじゃあないのか。
そんなことをいちいち悩んでいたら、何も進展しないじゃないか。
とりあえず病気にはかからないのだという前提で、理沙とともに、どこか安全な場所へ逃げるべきではないか。
ああそうか、もう二度と、直輝や雄太と喋ることは出来ないのか。
両親は無事だろうか。早く家に帰りたい。
こんなに大勢の人が死んで、みんな葬式は出来るのだろうか。
逃げるにしても、外を歩くのは危険ではないのか。どこからサル化した人に襲われるか分からない。
本当にみんな死んでしまったのだろうか。
喉が渇いた。夕方からほとんど飲まず食わずだ。
自衛隊が突如やってきて、自分たちを助けてはくれないだろうか。
煩雑な思考が闇雲に頭の中を跳ね回って、安曇の脳は酸欠状態だった。深く考えようにも、すぐに息苦しいような思考の行き止まりで、思考停止してしまう。
安曇はキッチンに入るとグラスにコーラを注ぎ、一気に飲み干した。すると、少しずつ頭がすっきりしてきた。
もう1つ、食器棚からグラスを取り出して、コーラを注いだ。
「はい、古川さん」
安曇は廊下で座り込んでいる理沙へグラスを差し出した。安曇を見上げる理沙の顔は疲れきっており、目は赤く腫れていた。
「ありがとう……」
理沙は掠れた声で応じると、グラスを受け取った。
「とりあえず、夜が明けるまではこの家にいよう。それで、明るくなったら、駅の近くにあった警察に行って、この家で、その、病気で死んだ人が居るんだってことを伝えて、それから家に帰ろう。電車は動いていなくても、バスとか、東京に行くほかの人の車とか、なんでもいいけど、必ずあるはずだから」
安曇の言葉に、理沙は弱々しく頷いた。
東京まではそれほど距離があるわけではない。乗り物さえ見つかれば、明日中に余裕で帰れるはずだ。そう思うと、わずかながら気分が明るくなった。
家に帰ったら、病気にかからない自分が食料を集めてきて、しばらく篭城していれば、誰かが病気をどうにかする手段を見つけてくれるに違いない。
そうすれば元の生活に――
安曇はふたたび、バリケードした扉へ視線を向けた。
元、というのは具体的に一体いつのことを指すのだろうか。
どうしようもなく非可逆な力に歪められて、たった一日前の状態にすら戻ることの出来ない状況ではないか。どんなに頑張っても、もう完全に元の状態に戻ることなんか出来ないのだ。
鎌倉で翔子が言っていた、ずっと友達でいよう、という願いを安曇は、10年後も20年後も自分は絶対に変わらないのだと宣言しているような、能天気な、想像力の欠如した願いだと思い、わずかながらに馬鹿にしていた。しかし、まさかこんなにも早く、ずっと、が崩壊する事態になってしまうとは。
もう二度と、金輪際、この部屋の向こうに横たわる友人たちと、一緒になって笑いあえる日はやってこないのだ。
コトと、いう小さな音に安曇は我に返った。理沙がグラスを床に置いた音だった。いまは安曇が先ほどまで使っていたタブレットを触っている。
それは、翔子の祖母がしまい込んでいた、10年以上昔に買ったというKindleタブレットである。これを使えば、ユニリングでは行えなかったインターネットへの接続が可能だった。ただ、バッテリーがかなり痛んでいるらしく、コンセントと繋がっていないと、10分と待たずに動かなくなってしまう。
時計は午前1時半に近づきつつあった。
一番最初に息を引き取ったのは直輝だった。それが、午後7時半をすこし過ぎたころ。間もなく6時間が経過することになる。バリケードで塞いでは居るが、念のため部屋のそばからは離れておくべきだろう。
「古川さん。そろそろ別の部屋に行こう」
安曇が言うと、理沙は立ち上がった。
リビングへ入り、廊下とを繋ぐ扉の前に、ダイニングテーブルを置いた。
2人とも、いつでも逃げられるように靴は履いたまま。当座のところで使えそうなものは、あらかたカバンの中に突っ込んでおいてある。
しかし、緊急事態だとはいえ、他人の家を土足で歩き回り、戸棚を開けて回るのは、気分のいいものではない。安曇の中で、これまで築いてきた一般常識が、この野蛮な行為に金切り声をあげていた。
「あのさ、みんながかかった病気って、なんだと思う?」
不意に、ソファに腰掛けていた理沙が言った。
理沙が何を言いたいのか、安曇は既に分かっていた。ネットでその話題を持ち出している人間が何人かおり、安曇もその推測コメントを目にはしていた。しかし、それを認めてしまうことが恐ろしくて、安曇はそれを頭の片隅に押しやっていた。
いや、認めるもなにも、現実にそんなことが起こるはずがないのだ。
「さあ、なんなんだろう。急すぎるよね。はやく薬とかワクチンが出来ないかな」
安曇はその話題にあまり触れたくなかったので、ぼんやりとした返事をした。
このまま会話が続かないように、何か別の方向へ話をもっていけないか考えたが、安曇の疲れきった思考回路は都合のよい話題を見つけることが出来なかった。
そうこうしている間に、理沙が鋭く言った。
「ゾンビ化でしょ。アニマ・ムンディの」
理沙の強い語調は、それを既に信じきっている気配に満ちていた。
安曇はそんなクラスメートが早速面倒臭くなり、うんざりした気持ちになった。こんな話をするために、余計なことを考えないようにしているわけではないのだ。
「いやいや……。それはゲームの中の話だよ」
安曇はそんな分かりきった事を同い年の人間に言わなければならないことに、更なる疲労感を覚えた。
「渡河くんだってそうだと思ってるくせに。さっきみんなが吐き出したゾンビパウダーを触らないようにしてたでしょ。私、みてたんだから」
理沙は安曇を睨んで言った。
「そんなの、危ない病気に罹ってる人が吐き出したものだったら、誰だって触らないよ。当たり前だろ?」
安曇は答えてからため息をついた。
たしかに、直輝たちが吐き出した砂に気がついたとき、頭の中をゾンビパウダーがよぎらなかったかと言えば嘘になる。しかし、つとめて砂に触れないようにしようとしていたのは、あくまで病気を媒介している可能性を想像したからだ。
「じゃあ、渡河くんは、この病気はぜんぜんアニマ・ムンディのゾンビとは関係なくて、偶然同じような病気が流行ってるんだって思ってるの?」
理沙は食い下がる気配がない。
理沙も必死なのだろう。真愛や翔子たちが死んでしまったことや、取り巻く現実から少しでも逃れたくて、出来るかぎり友人の死を直接想起せずにすむことを考えていたいのだ。それは理解できるのだが、しかしこの不毛な推測で一緒になって盛り上がれるほどの気力は、安曇はもう残っていなかった。
しばらく考えてから、安曇は口を開いた。
「例えばさ、あれには元ネタになった病気があって、それが流行ってるとかさ、ゲームの病気が現実で流行ってるんだなんて考えるくらいなら、まだそっちのほうが有り得るんじゃないかな」
適当に言ってみたことだったが、実際それが一番有り得るんじゃないかと思えた。
しかし、理沙はそれを意に介さず、タブレットの画面をこちらに向けて言った。
「アニマ・ムンディのPCが、不老の異邦人が現実に現れてても、そんなこと言ってられるの?」
向けられた画面には、どこか日本のものと思われる住宅街の上空に浮かぶ、人影が写っていた。
澄んだ青空をバックに人影は超然とした気配で地面を見下ろしている。
人影は黒いライダースーツのようなものを纏い――
対物ライフルのようなものを背負った――
『それじゃあ、サクっと片付けましょうか!』
腰には知っている人でなければ分からない、小さな青いナイフ――
『おお、すごい! 僕たちじゃなければ、敵わなかったかもですね!』
それは、間違いなくナムイ・ラーの、アカ・マナフだった。
『ゲームは楽しくプレイしなくちゃですよ?』
それは、安曇がもっとも見たくないものだった。
『そんなことにマジになっちゃうとか、キモいかもですねw』
それは、絶対に、絶対に――
――
「いや……。いやいや……」
安曇は混乱する思考をどうにか鎮めようと、まず目の前に提示された画像を否定する言葉を探した。
「合成でしょそんなの。そんなのさ、すぐ作れるでしょ」
そうは言ったものの、目の前に次々現れる写真には、アカ・マナフが全く別の場所で別角度から写されているものから、他のナムイ・ラーの面々がどこか現実の町並みの中に浮かんでいるものまで様々あり、合成で作られたにしては数が多く、また投稿者も別々で、これは本当に現実に撮られたものなのではないか? と思わせる説得力があった。
だからなんだというのだ。説得力があろうが、合成じゃなかろうが、有り得ないことに変わりはないじゃないか。
安曇は思わず、鼻から息を漏らした。
そのとき、寝室の方からバタバタと走りまわるような騒々しい音がした。
続いて何かが落下して割れる音。そして何かを引っかく音。
足音は、同じところをぐるぐる回っている様子だったが、やがて止まった。
安曇はしばらくの間、再び走り回り出しはしないかと、息を殺してじっとしていたが、とりあえずのところは、それ以上動くことはなさそうだったので、口を開いた。
「諦めたみたいだね」
安曇が言うと、怯えた表情をしていた理沙は若干それを和らげながら頷いた。
しかし、バリケードを築いたときは、これでもう大丈夫だと安心できていたが、こうして間近で動き回る音がすると、途端に心配になってくる。今はまだ、直輝――ひとりだけだからいいものの、これが6人全員になったとき、振動や弾みで、想像していなかったようなことが起こる可能性もあるんじゃないか。どうせ隔離してバリケードを作るなら、ひとりひとり違う部屋に入れるべきだったんじゃないのか。
安曇の頭を、不安がよぎった。
同じ様なことを考えているのだろうか、理沙も口を閉じて、寝室の方を見つめたまま、身を硬くしている。
時計は午前1時53分を指している。明るくなるまでには、まだまだ時間がある。このままこの家にいて、本当に大丈夫なのだろうか。
いやいや、そもそも、明るくなったあとであろうとも、外を歩くことのほうが、やっぱり遥かに危ないんじゃあないのか。
そんな風に悩んでいた安曇の耳が、遠くで地鳴りがするのを聞いた。
音はそれほど大きなものではなかったが、わずかに大きくなったり小さくなったりを繰り返している。耳を澄まして聞いているうちに、音の大小は、遠くなったり近くなったりしているせいだということに気付いた。
「これ、何の音?」
理沙は身体を縮めて言った。
しばらく音を聞いていると、突然遠くで爆発音がした。それは離れた場所であがった花火のような気の抜けた音だったが、間違いなくなにか大きなものが爆発した音だった。
爆発音は続けて何度か鳴った。
その爆発音を最後に、地響きは止まった。
しかし、地響きや爆発音に触発されたのか、一時止まっていた寝室の足音が、再び始まっていた。
ドタン! ドタン!
バタン! バタン!
頭の中をかき乱すような騒々しい音は、止まる気配がない。
理沙は膝を抱えて小さな声で泣いている。
いくら現実逃避しようとしても、立て続けに訳のわからない現実がそれを邪魔してくるのだ。もう限界なのだろう。
「古川さん。とりあえず、朝になったら沢山歩かなきゃいけなくなるかもしれないし、少しだけでも寝ておいたほうがいいんじゃないかな。危なくなったら、起こすからさ」
安曇の言葉に、理沙は顔をあげた。
「渡河くんは?」
「僕は大丈夫だよ。じつはこっそり、ちょっとづつ寝てたからね」
それは嘘だったが、しかし眠気は遥か彼方の欲求で、今は眠る気分ではなかった。
「そうなの? でも、これから眠くなるかもしれないし、そのときは起こしてね。交代するから」
理沙の提案に、安曇は「うん、ありがとう」と返した。
そうして、理沙はソファの上で膝に額をつけた格好で、眠り始めた。
安曇の頭の中では先ほどから、繰り返し、あの日聞いた慟哭が、響き続けていた。
それは、間違いなく、魂の叫びだった。
あの叫びは、自分たちと寸分違わない心の奥底から噴出したものだった。
だけど、誰にも理解してもらえなかった。
そして自分には助けられなかった。
何度やっても、何度やっても、救うことが出来なかった。
それがみんなが望んだことだったから。
多数決で決まったことだったから。
そういうルールだったから。
何度もたかがゲームだと思おうとしたが、出来なかった。
だから、自分は逃げたのだ。
結局、安曇や理沙が咳をし始めることはなかった。
寝室を走り回る足音は、悪夢のように数を増していったが、窓ガラスが割れたり、バリケードが破られたりすることもなかった。
空が白み始めた頃、再び地響きがなり始めた。
今度は先ほどよりも少し近くでなり出し、そして遠ざかって5分ほどで止まった。
時計が午前5時を指した。外はもう十分だと思えるほどに明るくなっている。
安曇は、ソファの上で眠る理沙の肩を叩いた。
10分後。身支度を済ませた安曇と理沙のふたりは、駅に向かって歩き出した。
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