003 2028年7月21日 橋本亮二

 木戸が205号室の扉を叩いたちょうどその頃、立川市のJTCデータセンターで働く橋本亮二(27)は、幾重にも鳴り響くパトランプの音の洪水の中で、繋がらない電話に途方に暮れていた。


 管理しているサーバーを保有しているクライアントにも、サーバーの保守を行うメーカーにも、一切電話が繋がらない。障害発生時の連絡先一覧に記されたどの電話番号も通話中。いま目の前で繰り広げられている重大な障害をただ眺めながら、電話が繋がることを祈るしかできない状況に、乾いた笑いしか出なかった。

 そうこうしている間にも、広大なフロア中のラックにおさまったブレードたちが、家鳴りのような小さい破断音を出し続けていた。一部のラックからは煙が上がり始めている。


 ラックの置かれたタイル床に、いくつもの亀裂が伸びていた。それは、見ている間にもどんどん長さを増し、細かく砕け、窪みを形成していく。ラックのフレームも、少しずつではあるが重力方向に向かって歪んでいた。

 サーバーの重量が増えているのだ。

 にわかには信じがたい事ではあるが、しかしそうとでも言わなければ説明が出来ない状況だった。


 かけていた電話が、何度目かの留守番電話へ繋がり、橋本は無言でそれを切って、連絡網の次の番号をダイヤルする。これで連絡網を4周したことになる。

 フロアの遠くで、ひときわ大きな破断音がして、一気に煙があがった。

 間もなく消火設備が起動するだろう。人体に無害なガスが出るだけだと説明はされているが、それでも設備が起動すればここから退避せざるを得ないだろう。


 ――20分前、待機部屋で暢気に漫画を読んでいると、部屋の真ん中に置かれたパトランプが鳴り始めた。あと三時間ほどで夜勤が終わろうと言うこのタイミングで、月に一回あるかないかの障害対応など、したくなかった。

 パトランプの色が黄色であれば、メール連絡で済む程度の、軽微な障害――ストレージの容量が閾値を越えた、だとか――である。黄色なら、夜勤の相方である藤代が今の時間の担当なので、あいつに任せて自分はここで漫画を読み続けられるのだ。祈りをこめて漫画から視線を上げた。


 しかし無情にもパトランプの色は赤である。

「悲しいなあ」

 橋本はため息をつきながらサーバールームへ入った。


 入るなり、橋本は事態が恐ろしく重大であることを思い知らされた。

 見渡すかぎり、全てのサーバーラックの上についたパトランプが、赤く点灯しているのだ。思わず耳を塞ぎたくなるような、騒々しい警告音が、部屋中に乱反射しながら鳴り響いていた。

 コンソールには、数秒間隔でサーバーの死活監視をするデーモンから、フロア中に設置された全てのサーバーとの接続が絶たれたことを示すメッセージが、留まることなく滝のように流れ続けていた。ここへ配属されて2年が経つが、こんな状況は今まで遭遇したことがなかった。

 一番近いサーバーラックの前に立っていた藤代は、既に電話の子機を耳にあて、青い顔をしながらこちらに無言で視線を送っていた。

『ヤバイ』

 目がそう言っていた。橋本は小さく頷きながら、もうひとつの子機を手にとった。藤代がかけている先はメーカーである。橋本はクライアントの緊急連絡先の先頭にある、アートマメディアの情報システム部をコールした。

 コール音を聞きながら、藤代が立ち尽くしている、あらゆるランプが赤色を示しているサーバーラックの前へ移動する。


「全然つながらないし、変な音してるし、マジでヤバイなこれ」藤代はそう言って、しゃがみこんだ。「どうしたらこうなるのか分からないけど、そこら中の床が、急にひび割れ始めてるんだよなあ……。どんどん酷くなってるし」

 橋本も一緒になってしゃがみ込む。藤代が指差している場所にできているひび割れの長さが、徐々に長くなっていく。他のラックの下も、同様にひび割れが出来ていた。

 コールが留守番電話に切り替わり、橋本は現状を伝える伝言を残すと、次の連絡先、同情報システム部のリーダーの番号を直接コールした。


「変な音って?」

 橋本は、藤代が何のことを言っているのかいまだに分からなかったので、立ち上がりながら尋ねた。

「え? 聞こえてない? サーバーの中から、パキパキって音してるだろ」

 藤代にそういわれて、ずっと聞こえていたのにも関らず、認識できていなかった音があることに気付かされた。パトランプの音と、空調の馬鹿でかい音の中に、もうひとつ、普段は決してしていないような、細かく何かが破断していくような音が、そこら中からしていることに。

 最初は、それはタイルにひび割れが出来ているが故にしている音だと思ったのだが、実際には藤代の言うとおり、サーバーの内部から生じているらしかった。


「何の音、これ」

「俺に聞くなよ……。あーあー、定時で帰れると思ったのになあ、クソっ」

 藤代は苛立ちを隠しきれず、激しく足を揺らしながら唸る。これだけの障害が起こったとなると、数時間後にやって来る日勤に引き継いで、はいさようなら、という訳にはいかないのは明白である。

「そもそも、なんでこんなに繋がらないんだよ。橋本のとこ、繋がってないよな?」

「全然繋がらない。いま、情シスのリーダーにかけてるけど、駄目だわ」

 ここまで繋がらないとなると、一応緊急連絡網に名前は載ってるけど、絶対にかけたら不味そうな相手しか、もうかける相手が残されていない。しかし、躊躇している場合ではない。ぐずぐずしていると、こちらの連絡が遅かったなどといって、後で始末書を書かされかねない。橋本は諦めて、情報システム部の部長の電話番号をコールした。若干、血の気が引くのを感じながら。


「おい、おい、橋本ちょっとこれ」

 天井を仰いでいた橋本の裾を引っ張って、藤代が2つはなれたラックを指差した。

「これ、曲がってきてないか?」

 藤代はそういって、フレームの一辺をなぞった。確かに、そこは床に向かってほんのわずかではあるが歪んでいた。しかし、これがたった今こうして歪んだのか、ずっと前から歪んでいたのか橋本には判断がつかなかった。

「前からこうだったんじゃ……」

 その時、まるで橋本の言葉に応じるように、眼前のサーバーから大きな破断音がし、フレームの歪みが一際大きくなった。

 さらに、もう一度。音と共に、フレームが歪んだ。

「――マジかよ……。ほんとに、どうなってんだ」

 ラックから後ずさりながら、藤代が呟いた。

「これって、つまり、サーバーが重くなってるってことなのかな……」

 橋本はどんどん割れていく床のタイルを見下ろしながら言った。

 

 ――ついにフロアの天井から、薄い白色のガスの噴霧が始まった。

 アートマメディアの情報システム部に電話が繋がったのは、それからさらに30分ほど経ってからだった。電話の向こうの相手は、疲れきった様子で、

「こちらでも状況は把握していますので、そちらから一旦退避してください。追って連絡します」

 とだけ言って、一方的に切れた。

 明らかに普通ではない状況ではあったが、とにかく、橋本の仕事は異常が発生したら連絡をする、という極シンプルなものであり、こうして連絡がつきさえすれば、あとはどうでもよいことだった。


 ただ、一体何時になったら帰れるのかだけが、気がかりだった。

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