002 2028年7月21日 木戸篤
石田のもとに救急車がやってきたころ、杉並区西荻窪に暮らす木戸篤(37)は、頭上で何かが倒れる大きな音を聞いて目を覚ました。
築30年を越える年季の入ったボロアパートの、天井にぶら下がっている室内灯が、ゆらゆらと大きく揺れている。
天井が抜けてもおかしくないような大きな音だった。
意識が覚醒してくるにつれて、上の階の住人が常日頃お構いなしに立てる足音や怒号や笑い声のことが思い出され、無性に腹が立ってきた。
「何時だと思ってるんだ! いい加減にしろ!」
木戸は身体を起こすなり、あらん限りの声で怒鳴った。
そうすることで、いつものように多少溜飲は下がったものの、今度はしっかりと目が覚めてしまった。舌打ちをしながら時刻を確認したが、視界に時刻が現れない。再び舌打ちをして、自分がユニコンタクトをしていなかったことを思い出す。
上階の住人は、先ほどの音を出したっきり静かにしている。そうやっていつも静かにしていればいいのだ。上の住人はたしかまだ20かそこらのガキだったはず。こんな時間まで起きているのだからおそらく学生なのだろう。まだ社会にも出ていないような奴が、苦労して働いている大人の生活を邪魔して良い道理など、まったくない。
コンタクトをつけて時刻をみれば、まだ起きるには2時間も早い。しかし、再び寝るにはもう目が覚めすぎている。そう考えていると、また腹が立ってきた。
今日こそが上の奴に直接文句を言いにいく良いタイミングかもしれない。
木戸はサンダルをつっかけて外へ出た。これまで気付かなかったが、近くでゴロゴロと雷が鳴っており、今にも雨が降り出しそうな黒い雲が空を覆っていた。まるで自分の怒りに共鳴しているみたいじゃないか。木戸は鼻をならして錆付いた階段を上った。
何事も第一印象が大事である。自分が感じている怒りで相手を完全に威圧出来なければ怒鳴り込みにいく意味がない。木戸は如何に自分がいま怒りを感じているのか、これまでの上階の住人の横暴を思い出しながら、自身の顔にその怒りを刻み込む。
相手の部屋、205号室の扉には『しのざき』とだけ書かれたプレートが挟まっていた。郵便受けにはチラシが受け取られないまま放置され、萎れている。
木戸は一度おおきく息を吸い込んでから、無言で扉を4度ノックした。
反応なし。
再び、ノック。
またもや反応なし。力強くたたいただけ自分の拳が痛む。
「おい、下の木戸だけど、ちょっと出てきてくれないかな」
押し殺した怒りを含めて、木戸は扉の向こうへ言った。
しかし反応はない。
たっぷり三十秒ほど黙って待った。
「おい! いるんだろ。分かってんだよ! 出てこいよ!」
怒鳴りつけるが、まるで木戸の行為自体がまったく意味を成していないとでもいうように、中で何かが動く気配もない。
我慢できなくなり、ノブを掴んで扉を開けようとしたが、当然と言えば当然か、鍵がかかっていて開かない。
「なんとか言えよ! 毎日毎日うるさいんだよ! 出て来いつってんの! 聞こえてんだろうがよ!」
そう叫んだ自分の声が、自分の耳の中で耳鳴りのように響く。
まったく反応を見せない『しのざき』へ向けて、「管理会社に連絡してやるからな。覚えてろよ」と捨て台詞を吐いて、一旦自室へ戻ることにした。
そうして怒鳴り散らした扉に背をむけて、数歩進んだときだった。
木戸の背後で、とてつもない爆音が鳴ったかと思うと、体が吹き飛ばされそうな勢いの熱風が吹いた。木戸は思わず頭を抱えてその場に屈みこんだ。
木戸は這いながら慌てて階段まで引き返し、数段降りてからようやく振り返った。
先ほどまで木戸がたたいていた、205号室の扉が消えてなくなっていた。それだけでなく、扉周辺の壁までもが内側からの大きな力で吹き飛ばされ、向かい側の手すりはひしゃげている。
ガス爆発だろうか。ここからは見えていないが、室内は燃えているのかもしれない。
さっきの物音は、ガスを吸って倒れたときの音だったのだろうか。
いやいや、そんなことはどうでもいいのだ。もしも燃えているのなら、真下の自分の部屋も燃えてしまうことになる。いまならまだ消し止められるかもしれない。
木戸は廊下に備え付けられていた消火器を手に取ると、恐る恐る205号室の中を覗き込んだ。
カーテンを閉め切っているうえに電灯がついておらず、室内は薄暗い。ということは火はないということか。ほっと胸をなでおろしながら、奥へ視線を移す。
玄関にはスニーカーの片方だけが、はがれた壁板に引っかかっていた。短い廊下があり、台所が一応原型を留めてそこにあった。爆発はここで起こったのではないらしい。
壁の破損方向はさらに奥方向から、手前に向かって伸びている。爆発はさらに奥の部屋から起こったのだ。
そこで、部屋の奥で何かが小さく動いた。わずかな光が揺らめいて、木戸はなにかの輪郭をとらえた。
一度、輪郭の存在に気付くと、いままでずっと見えていたのにも関らず、まったく意識に入っていなかった物体が、そこにあったことを知った。
木戸は思わず後ずさった。
そこには人影がひとつ、立っていた。
背丈は天井まであり、やや背中をまるめている。薄暗く顔は見えないが、黒っぽい長い髪を生やしたそれは、巨大な金属製の鎧のような物体を身につけていた。
ここからでは、それくらいしか分からなかった。
もしかしたら、巨大な人形かなにかなのだろうか。
勇気を振り絞って、木戸は一歩、その人影に近づいた。
すると、人影の首のあたりから音が聞こえた。なにか、空気を荒く噴出したような、素早い奇妙な音だった。
木戸が立ち止まって耳を澄ましていると、再び同じような音がした。
さらにもう一度。
今度は先ほどよりも少し長く、また音の調子もわずかだが異なった。
もしかして、喋っているのだろうか。もしもあの音が言葉なのだとして、木戸にはまったく聞き覚えのない言語だった。
音はそれっきり聞こえなくなった。
その時、ひとつ大きな雷が鳴り、雨が激しく降り出した。室内が一段暗くなる。
突然、微動だにしなかった人影がゆらりと動いたかと思うと、木戸の足元に何かが放られた。
大きなものが、木戸の目の前にどさりと落ちた。
木戸は慌てて一歩退こうとして、その場にしりもちをついた。
眼前に転がっているモノから、人間の歯がこぼれ落ちた。
ゆっくりと血液が流れ、木戸の靴を濡らす。
ぬらりと光る血だまりの中に、見覚えのある肉の塊が一つ浮いていた。
舌だ。
木戸の目の前に転がっているそれは、頭の潰れた人間の死体だった。
木戸は自分でも何を言っているのか分からないような悲鳴をあげて、廊下へ飛び出した。
背後から、硬貨でガラスを削ったような耳障りな音が、連続的に鳴った。激しい雨にも関らず、それにかき消されることのないその音は、あの人影が出していた。
たがが外れたように、音は繰り返し繰り返し、調子が上がったり下がったりしながら、鳴り続ける。
――笑っている。
木戸は直感で理解した。あれは、ビビッている俺をみて、笑っているんだ。
「なんなんだよ、お前は!」
声は裏返り、震える。早くこの場から立ち去りたいのに、腰が抜けて立ち上がることができなかった。
人影の出す耳障りな音が、よりいっそう大きくなる。
「誰か! 殺人だ! 助けてくれ! 爆弾をもってるヤバイ奴がいる!」
そう助けを呼んでも、誰かが出てくる気配はない。
とにかく、とにかくここから逃げなくてはいけない。このままでは、あの頭の変な奴に殺されてしまう。こんなところで死んでたまるか。
不意に、恐ろしく近い場所に雷が落ちた。雷音で身体が震えるほど近く、耳は一瞬ホワイトノイズで満たされる。
木戸の耳が再び雨音を捉えたとき、ほんの一瞬前までしていた、あの耳障りな音が聞こえなくなっていることに気付いた。
顔を上げると、部屋のなかで突っ立っていた、あの忌々しい人影の姿が、消えていた。
再び至近に落ちた雷光が、205号室の中を照らしたが、中には顎から上のない死体が転がっているだけだった。
巨大な人影は、まるで最初からいなかったかのように、その場から姿を消してしまっていた。
木戸はそのまま、通報をうけてかけつけた警官がやってくるまで、そこでへたり込んでいた。
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