フェーズ1

001 2028年7月21日 石田和久

 午前5時32分。横浜市都筑区に暮らす石田いしだ和久かずひさ(23)は、日課のジョギングの最中に、雷が鳴るのを聞いた。

 ここのところ残業が続いていることもあり、いっそのこと雨に濡れて、風邪でもひいたといって仕事を休んでやろうかとも思った。しかし今年度の新人教育担当になった手前、なんだかそれも格好がつかないような気がして、ジョギングを切り上げて自宅のアパートへ戻ることにした。


 既に普段のコースの半ばまで来ていたが、来た道を戻るよりも、自宅へ向かって大きくショートカットできる道が目の前に見えていたので、そちらへ入った。

 そこは大型データセンターの裏手を通る道で、右手には緑色の無骨なフェンスが並んでいる。その向こう側には、窓の少ない灰色の壁面にJTCと緑の大きなロゴのついた、データセンタービルが見えていた。


 道の途中には自動販売機が設置されていた。多少の喉の渇きはあったが、とにかく雨に降られる前に帰りたかった石田は、立ち止まることなく前を通り過ぎようとした。

 そして何かに躓いて、派手に転んだ。

 擦り切れて出血している右手のひらを憎々しげに見下ろしながら、自分が一体何に躓いたのかと振り返ると、妙に薄汚れた格好の人間が一人、倒れていた。上半身は自販機に隠れているので、おそらく足にでも引っかかったのだろう。


「すみません」

 謝りながら近づくが、相手は派手に蹴られた痛みを訴えるでもなく、もぞもぞと緩慢に動くばかり。染みだらけの服を纏った、汚らしい格好と相まって、酔っ払いの浮浪者かとも思った。

 正直なところ、面倒な事には関わりたくはなかったが、このまま放置して死なれでもすると、あとで気分が悪い。

 石田はため息をついて、相手の肩に触れた。

「大丈夫ですか?」

 そこでようやく、倒れていたのが女で、しかもブロンドの髪を生やした長身の外国人であることに気付いた。


 どうしてこんなところに、外国人がいるのだろうか、と訝しがりながらも、そっと肩を揺すると、女はわずかに顔を動かして石田を見上げた。

 その場で石田は大きな悲鳴をあげ、先ほど派手に擦りむいたことなど忘れて、地面にへたりこんだ。


 女は尋常ではない怪我を負っていた。


 女の右頬は大きく裂け、内側に並ぶ歯が外から見え、左目は失われ、あるべき場所には大きな穴が開き、わずかに骨が覗いていた。

 よく見れば、顔だけではなく、身体の前にぞんざいに投げ出された格好の右腕やわき腹も、肉が落ちて一部骨が露出している。

 そんな様子でありながら、女は動いていた。見上げたあと、女は上体を捻って仰向けになり、石田に向かってなにかぶつぶつと小さな声で話しかけてきていた。

 生きている人間がこんな状態になれるのか、石田には分からなかった。何か悪い夢でも見ているのかと思ったが、擦りむいたうえにさらに地面に擦り付けられた右手が、痛みを訴えていた。


「……どこだ……」

 女のか細い声が聞こえ、慌てて石田は顔を近づけた。生気の失せた右目が石田を捕らえるが、焦点はふらふらと彷徨い、定まらない。

「ここは……どこだ……」

 色を失って乾いた唇は、それだけ言うと閉ざされた。

「ここは―――、横浜の都筑区で、ええっと、日本で、神奈川県ですけど」

 石田は相手が欲しい情報がどれなのか分からず、とりあえず思いついた端から片っ端に答えてみた。


 しかし女が欲しかった答えはその何れでもなかったようで、石田の靴を掴むと、先ほどより少し強い調子で、

「ここは……地獄じゃ、ないのか……」

 と、尋ねた。

「ええ、地獄じゃあ、ないですね」

 石田の答えに、女は、

「……そうか……」

 と、答えると、目を閉じた。

 一瞬、女が死んでしまったのではないかと思ったが、しかし胸が緩やかに上下しているのを見て、石田はほっと息を吐いた。


 コールした救急車は五分と待たずにやって来た。降りてきた隊員は、ビニール製の簡易的な防護服を纏っていた。しかし、いくら簡素とはいえ、日常では決して目にするはずのない物々しい雰囲気は、そこに倒れている重症の女を見つけたときよりも強く、石田に非現実的な印象を与えた。


 何か、とてつもなく厄介な出来事に巻き込まれてしまったのだ。


 隊員が女に話しかけていたが、女がそれに応じている様子はなかった。

 もう一人下りてきた隊員へ、女を見つけたいきさつを説明した。石田が女の声を聞いた話をすると、

「日本語で喋られたんですか?」

 と、隊員は女の姿を見下ろしながら言った。

「ああ、そういえば、そうですね……。ちょっとしか喋りませんでしたけど」

 思い返してみて、女の言葉は弱々しかったが、片言といった雰囲気ではなかった。まあ、日本語が流暢な外国人というのもネットで何人も見たことがあるし、それほど不思議な存在ではないはずだ。


 隊員たちの想定よりも女の状態は芳しくないようで、なにやらこちらに聞こえない声で相談をしたのち、どこかへ無線で連絡をはじめた。石田はどうすることもできず、ただじっと、その場でぼんやりとその様子を眺めていた。

 そうしている間に、ひときわ強い雷が鳴って、たちまち大粒の雨が滝のように降り始めた。周囲の雨雲の状況を検索すると、この周囲にだけが降雨レベル最大の紫色で囲まれていた。


 隊員たちは慌てて女をストレッチャーに乗せると、救急車の中に引き上げた。

「もう一度聞きますけど、あちらの女性の皮膚には直接触っていないんですね?」

 隊員の一人が、雨の音に負けじと大きな声で尋ねてきた。同じことは先ほど聞かれたが、女の状態から考えて、念を押したくなる気持ちも理解できた。

 石田はこの数分の出来事を、もう一度思い返す。自分が触れたのは女の肩のシャツを纏った部分だけで、触られたのも靴のつま先だけだった。彼女の肌には一切触れていないし、触った部分も血液などはついていなかった。そう、大丈夫だ。石田は自分に言い聞かせるように強く頷いた。

「はい、触っていないです」

 石田の答えを聞いて、隊員は、

「それでは、助手席に乗ってください」

 と言って 後部の扉を閉めた。


 石田が助手席に腰掛けると、すでに下着までぐっしょりと濡らしていた水分が、乾いた座面に吸われるのを感じた。車内にかかっていた冷房の風が身体にあたり、ひどく肌寒い。擦りむいた手の平からは雨と混じった薄い血が滲んでいる。それなりに爽やか朝だったはずなのに、一瞬にして不快なことだらけの状況にとりまかれ、石田は大きくため息をついた。


 サイレンが大雨の音を切り裂くように鳴ると同時に、救急車は走り出した。

 雨にかすむ車窓を眺めながら、石田はもう一度ため息をつこうとして、咳き込んだ。

 冷房がききすぎている。これでは本当に風邪をひいてしまいそうだ。

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