007 2028年7月21日 伊東憂依莉

 昼12時18分。都筑区の都筑ふれあいの丘駅に隣接するファミリーマートでアルバイトをしていた伊東憂依莉ゆいり(18)は、早くも夏休みに大量のバイトシフトを入れてしまったことを後悔しはじめていた。

 大学受験のため塾通いなどに勤しむ友人を尻目に、情報系の専門学校へ進学を決めていた憂依莉は、同じく大学へは進まない友人とともに夏休みの後半に沖縄へ旅行に行こうという計画をたてていた。

 そのための資金を稼ぐ必要があったから、こうしてレジに立っているわけなのだが、しかし自分の時間を細切れにして他人に使われているのでは、塾に通って勉強している友人と大差ないか、そちらよりも有意義ではない時間を過ごしているのではないか、と思えてきていた。

 きっと沖縄旅行は楽しいだろうが、こんな風につまらない気分でバイトしている時間とを足して平均すると、おそらくクソつまらない夏休みっだったという思い出だけが残りそうだ。

 思わず大きなため息をつくと、丁度裏から戻ってきた店長にひと睨みされてしまった。店長は人に注意するまえに、ブレスケアのひとつでも食べて息をどうにかするべきなのだが、誰も指摘する人間がいない。


 店内では、新作のフラペチーノで涼んではどうか、というラジオの体裁をしたコマーシャルが延々と流れている。まだシフト終わりまで4時間以上もある。気が滅入りそうだった。

 自動扉が開く音とともに、店内に軽快な入店ジングルが流れた。

「いらっしゃいませ」

 憂依莉は入ってきた男の姿をちらりと見ながら、頭を下げた。

 即座に、ヤバそうな奴が入ってきてしまったな、と心の中で舌打ちした。

 真っ赤なTシャツに真っ赤なハーフパンツをはいたその男は店の入り口のところで立ち止まって、ぼんやりと店内を眺めていた。肩には力が入っておらず、両腕がだらんと垂れている。マスクをしてはいるが、しきりにゲホゲホと咳き込んでいて、なかなか入り口から動こうとしない。

 先ほどから店内にいた客の1人が、昼飯と思わしき商品をもってレジまでやってきた。この客も、入り口に立ったままゲホゲホやっているスットコドッコイのことを露骨に迷惑そうな目で見ている。やはり自分の感性は間違っていなかったのだとホッとする。


 会計を終え、温め終えた弁当を渡し、客が帰ってもまだ、咳男は入り口の辺りでぼんやりしている。周囲を通る人間のために、横に移動するくらいの脳みそは残っているらしいが、邪魔であることに変わりはない。

 ついに見かねた店長が、咳男に近づいた。

「お客様、大丈夫ですか」

 大丈夫じゃないから、そうしているんだろうが、と憂依莉はふきだしそうになった。

「あ、はい」

 咳男は上半身をふらふらさせながら、店長に謝るように頭を下げた。

「具合が悪いようでしたら、救急車を呼びますけども」

 店長がそういうと、咳男は右手を店長へ差し出した。

「これ……、……とりに」

 ぼそぼそ言っているから良く分からないが、何かを受け取った店長がこちらへやってきた。

「ゆいちゃん、お客さん、Amazonの荷物取りに来たんだって」

 そう言って店長は荷物の受け取り伝票をレジの上に置いた。

 さっさと咳男に帰って欲しいので、憂依莉は素早くレジの後ろに積まれた取り置きの荷物の中から、咳男の荷物を探し出した。


【石田和久】


 あった。中ぐらいの箱は持ち上げると軽かった。手早く引き渡し処理を済ませ、ビニール袋に突っ込んで店長に渡す。

「お待たせしました、こちらお荷物になります」

 店長が荷物の入ったビニールを差し出すが、しかし咳男はふらふらしているばかりで、それを受け取ろうとしない。

 さすがにイライラしてきたのか、店長が頭を掻いた。

「あの、お客様?」

 その店長の声に反応するように、咳男の膝から力が抜け、その場に倒れこんだ。

 様子をずっと見ていた女性の客が、小さな悲鳴をあげた。

 店長は咳男の身体を揺すりながら、何度も呼びかけるが、反応がない。

「ゆいちゃん、救急車呼んで」

 憂依莉は言われたとおり、生まれて初めて119番に電話をかけた。

 状況を伝えると、すぐに向かいますといって電話は切れた。

「呼びました。すぐに来るそうです」

 と、店長に伝えると、憂依莉はポケットに隠していたユニリングを手首につけて、

「やべぇ客が来て救急車呼んでる」

 と、友人達のチャットルームに書きこんだ。

 すぐにメンバーの一人からの応答がコンタクト上に返ってきた。

「どんな客?」

「咳して動かないで急に倒れた」

「咳って、インフルエンザ? うつったら怖くね?」

 そう言われて、その発想が無かったな、と憂依莉は思った。まあ、咳男はマスクをしているし、自分は距離を置いているし、問題ないはずだ。


 焦点をユニコンタクト上の文字列に合わせていた憂依莉の視界の彼方に、店長の顔が現れ、慌てて焦点を店長に合わせようとして、目を何度かパチパチさせた。

「死んでる」

 真っ白い顔をした店長がぼそっと呟いた。

「は?」

 憂依莉は思わず普段の調子で応じた。

「あのお客さん、脈がない」

 店長が倒れている咳男の方を見ながら言った。

 さっき悲鳴をあげた女性客が、息を呑むのが聞こえた。

 咳男はついさっき倒れたときの格好のまま、地面につっぷしている。脈がないということは、息もしていないということになる。確かに、身体がまったく動いていないようにも見えるが、眠っているのかもしれない。眠っている人間は、どのくらい呼吸によって体が上下するものだっただろうか。思い出せない。

 店長の言うとおり、本当に脈がないのか、憂依莉には分からなかったが、わざわざ自分で確認しに行ってまで分かりたいとも思わなかった。


 その後、やってきた救急隊員によって、本当に脈がないことが確認された。

 なにやら機械をつかった蘇生処置が施されたが、功を奏さなかったようで、遺体はそのまま一緒にやってきた警察に引き渡され、救急隊員は帰っていった。

 

 しばらくすると、殺人でもないのに、そんな道具が必要なのか、というような装備をもった警官が数人やってきて、遺体の周辺の写真やら、遺体の状態やらの確認を始めた。

 憂依莉がそれを遠巻きに眺めていると、咳男が死亡したときの状況を詳しく教えてほしい、といって、父親よりも年齢が高そうな角刈りの刑事が、警察手帳を見せてきた。自分は見ていただけだ、と言うと、刑事は「そうでしょうね」と良いながらも、結局自分が見た状況についてむやみに詳しく喋らされた。


 少し離れた場所で、刑事に「店はいつまで閉めておくべきなのか」と質問していた店長が、唐突に咳き込んだ。それはまるで、先ほどの咳男がしていた咳と瓜二つの、むせるような咳だったが、まさかさっきの咳男の病気が、もううつって咳をしている、なんてことはあるまい。病気に詳しくない憂依莉でも、咳がそんな速度でうつらないことくらいは判別がつくものだ。


 全員の聴取を終えると、警官たちは引き上げて行った。.

 そこへ至ってようやく、憂依莉は咳男が倒れていた場所に近づいた。

 憂依莉の人生の中で、誰かが死んだ、などという場面に出くわしたことは、これまで一度もなかった。家族は全員元気だし、爺ちゃんも婆ちゃんもピンピンしている。だから、ついさっきまでここに倒れていたあの男が、本当に死んでしまったという実感がまるで湧かなかった。

 死んでしまったらチョロチョロっと機械でいじられて、はいさようなら、なのか。

 そう思うと、何かとても冷たい気分が足元から上がってきて、憂依莉は急に泣きたい気持ちになった。


 その時、憂依莉のつま先に、ジャリ、と砂を踏むような感覚があった。

 見ると、足元に薄茶色をした細かい砂粒が、わずかではあるが積もっていた。よくみると、ほとんどは店長や刑事たちによって踏み荒らされてしまっている様子で、周囲に散乱していて、憂依莉が踏んだのはそのなかでひときわ積もった箇所のようだった。

 入り口のあたりは特に汚れやすいから、お昼前に掃除したはずなのだが。

 憂依莉はホウキとチリトリを持ってきて、それをかき集めると、店の外に置いてあるゴミ箱の中に捨てた。きちんと全部はいらず、半分くらい風に飛ばされてしまったが、まあ、ただの砂埃、結局地球を循環していくのだから、どうだっていいだろう。


 掃き掃除という日常行為をしたことで、ついさっき自分の感じた悲しい気持ちは、もうどこかへ飛んでいってしまっていた。

 気分を変えて働こう。

 今日はもう仕事はないかもしれないけど。

 そんな風に思いながら、店内に戻った。

 店長は、どこかと電話をしていた。


 苦しそうに咳をしながら。

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