047 2028年8月2日 奥井晴久
午後13時33分。静岡県裾野市の企業研修施設内の個室で、
こうして仰向けになってから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。時間を確かめようとしてみるが、しかしそれを知ったところで、またうんざりとした気持ちになるだけなので、止めておいた。
思わず大きなため息が出る。
何か、偶然的な奇跡が起こって事態が解決するか、それとも全て何事もなかったかのように元に戻らないかと、そんなことを考えながら過ごす時間は、ただただ長たらしく、苦痛に満ちていた。
つい先日までは、若いころに比べて随分と日常の時間が経つのが早くなったものだと思っていたものだった。それなのに、何もすることがなくなった途端に、また漫然と授業を聞いていた学生のときのように、時間が進まなくなってしまった。
それなりに没頭できる仕事があって、それなりに没頭できる趣味があった、あの時間は、もう戻ってはこないのだ。
このまま自分たちが生き長らえ続けたとしても、あらゆる文明は決して半月前の状態に近づくことはないだろうし、逆にどんどん忘れ去られ、退化し、彼方へ遠ざかっていくだけなのだ。もう、元には戻らないし、誰にも戻せはしないだろう。
皺だらけのシーツの上で仰向けになりながら、もう一度眠ろうと努力してみるが、一向に眠くなる気配はない。
どうにかして
妻とはネットで知り合った。
年齢が近く、ゲームから漫画、小説から映画に至るまで、あらゆる趣味が合い、これは運命だと思い結婚した。しかし、お互いが実際に本当に欲していたのは、それらの趣味を共有する相手ではなく、異様なほどに肥大した理想を具現化した異性だった。互いがそれに気付いてしまい、一度違うと感じてしまったあとは、常に隣に居る同じ趣味を持つ相手は鏡合わせの自分のようで煩わしく、結局3年で離婚してしまった。
そのあと世界がこんな風になるまでは、自分で好き勝手、自由にやれる独り身の生活に十分満足していた。日々やりたいことや、やるべきことが山積していく中では、別れた妻の顔を思い出す余裕などなかった。それなのに、ここ数日というもの、妻の顔が繰り返し思い出されるのだった。
自分はこのまま、独りぼっちで死んでいくのか、という諦めの気持ちが、妻の顔を思い出させているのだろう。この施設には、友人も居なければ、同年代のものも居ない。腹を割って喋れる相手が、誰も居なかった。
自分はこんなにも、寂しがり屋だったのかと、嫌になる。
奥井は、まったく眠れる気配がしなかったので、気分を変えるために部屋を出た。
蒸し暑い廊下には、同じような部屋へ続く扉がいくつも並んでおり、一見するとホテルのようである。すべて、数日に渡り泊まり込みで研修する社員のための個室として使われていたもので、今は避難している人間が、各人好きなように使っていた。
このまましばらく館内を散歩して回ろうかとも思ったが、小腹がすいていたので、一度食堂に寄ることにした。
食堂では、不健康そうに痩せた20歳そこそこの
窓の外には、今朝見たときと変わらず、富士山があった場所に分界の細長いシルエットが聳えていた。
それは明らかに異常な光景ではあったが、ゲームの中からモンスターやらアバターやらステータス異常やらが出てくる今、ロケーションのひとつやふたつ現れたところで、大したことではないように思えた。
そもそも分界は、ゲーム内の雰囲気作り――地球ではない異世界としてのリアリティを出すために用意されただけの、それっぽい山だ。
ゲーム展開には一切何の影響も及ぼさないし、奥井にとって、なんの思い出もない背景の一部でしかなかった。
奥井は食堂の片隅に積まれた段ボールからミネラルウォーターのペットボトルとビスケットを取り出した。
館内をぶらぶら歩きまわりながら、どこかでそれを食べようかとも思ったが、思い直して大きな声で喋っている2人のテーブルについた。誰かと喋りたいわけではなかったのだが――ひとりで居ると、また気持ちが落ち込みそうだった。
奥井の存在にようやく気付いたらしい痩せた堂島が、顔を向けた。
「奥井さん、いま起きたんですか?」
「いや、大分前から起きてたんだけどね。ちょとお腹がすいちゃったからさ」
奥井は答えながら、ビスケットのパッケージを開けて、一つを口に放り込んだ。
施設に備蓄された食料には限りがあるが、今のところ、厳密にひとり幾つまで、という決まりはない。とりあえず毎日、1日の間にどれくらい消費されたかだけはチェックして、あまりにも減り方が早い日があった場合は、そのときに考えよう、という事になっていた。
というのも、この施設から数百メートルほどのところにスーパーがあり、また、そこ以外にも食料を補充できそうな場所はいくらでもあるのだ。都内に比べればサル化した人間の数は遥かに少なく、ここの備蓄がなくなってきたら、車で取りに行けば良い。
そういう事情もあって、ここでは腹が減ったとき、食べたいときに、ある程度の節度さえ守れば自由に腹を満たすことができた。
「なんか話を遮っちゃったみたいでごめんね。なんの話してたの」
奥井はビスケットを水で流し込んでから言った。
「いやあ、大した話じゃあないですよ。どうすれば、この異常事態がもとに戻るんだろうって、妄想してただけです」
堂島が肩をすくめる。
「そうだ、奥井さんは、どうすればこのヤバい状況が打破できると思います?」
沢村は残り少なくなったグラスの水を一気に飲み下してから言った。
「うーん」奥井は一度考えこんでから、「現実に出てきたモンスターだとか不老の異邦人だとかが繰り広げてるゲームのサイクルがエンディングに到達して、僕たちがやってた時と同じように、またループしてスタートまで巻き戻って、全部なかったことになってくれたら嬉しいかな。中途半端に事象が解決して、異常な物だけなくなって、人間がほとんど居なくなった世界にほっぽり出されても困るからね」と、答えた。
「ああ、いいですねぇ、それ。確かにこのまま異変だけ無くなっても、困りますもんねえ。イチからやり直す文明生活で、畑耕しましょう、なんて僕できないっすよ、絶対」
堂島はうんうんと頷いた。
「いやあ、俺は外からモンスターとゾンビパウダーさえなくなってくれれば、新しい歴史を切り開いていくっていうの、わくわくするけどな」
沢村は挑戦的な笑みを浮かべた。
「僕は、もう年齢的にもそういうの、しんどいかなあ」
奥井は苦笑する。
「奥井さんの言ったみたいに、現実で起こってる事象がエンディングに到達して、そこから最初にループするとしてですよ、今ってフェーズ幾つなんでしょうね」
堂島は首を傾げた。
「フェーズ3じゃないの。ゾンビパウダーが一般市民に感染が広がっていくシナリオは、フェーズ3で発生するシナリオ分岐でしょ」
沢村が即座に答えたが、奥井はそれに異を唱えた。
「いや、写真に写ってたアカ・マナフがブラフマーストラを装備してたんだから、フェーズ4なんじゃないかなって思ってたんだけど。あれってレベルが上限に到達してないと装備できないよね?」
アニマ・ムンディでは、一度エンディングを迎えるごとにレベルなどはリセットされるものの、装備品などのアイテムはそのまま次の月へ持ち越すことが出来る。
ただし、強力な武器などは、最初から使用できるわけではなく、特定のレベルに到達しなければ装備できないようになっていた。また、フェーズごとにレベルの上限があり、フェーズ1でいきなり最大レベルまでレベル上げをして、最強の装備を身に着ける、ということもできない。
「ああ、そういやそんなの装備してましたね。俺も写真で見ましたよ。エッフェル塔と一緒に写ってたヤツで」
堂島が口に手を当てながら頷いた。
「たしかに、他のナムイ・ラーのメンバーの装備も、フェーズ4じゃないと装備出来ないヤツでしたねぇ」
沢村も過去に見た写真を思い出すように目を細めて言った。
「いまがフェーズ4なら、もうすぐ全部終わってエンディングに到達して、元に戻るかもしれない。夢でも妄想でもいいから、そんな風に考えないと、やってられないよ」
奥井は溜息をついた。それに釣られるように堂島も大きく息を吐く。
「はぁ……。ほんと、元に戻ってくれないですかねぇ……」
もう一度、堂島が強く溜息をつく。
ずっと喋り声が響き続けていた食堂に、沈黙が訪れた。
喋っている間こそ生き生きとした気配のあった堂島と沢村の表情も、こうして一度沈黙の下に晒されると、影を含みくたびれて見えた。皆、辛うじて生き残ったものの、こうしてどうすることも出来ず、ただ漫然と生き延び続けているだけの現実に、疲れているのだろう。
奥井としても、喋っている間は僅かながら気分が明るくなっていたものの、こうして何とも言えない間に晒されると、会話に混じる前よりも一層強く、この逃げがたい状況に置かれた自分の空しさが際立って感じられた。
黙ってテーブルの一点を見つめていた沢村が、「そういえば」と口を開いた。
「エンディングって毎回必ずバッドエンドっぽい終わり方してたけど、あれ、ハッピーエンドで終わったの、見たことあります?」
そう言われて、奥井はアニマ・ムンディのフェーズ4終了後に流れるエンディングを思い返してみた。確かに沢村の言った通り、見た事があるエンディングはすべてバッドエンドのような雰囲気のものばかりだった。
「そういえば、大体いつも、結局神殺しは失敗に終わって、星も宇宙も魂も、あらゆるものが消滅して無になってしまったから、もう1回フェーズ1からやってこい。って感じの後味悪い終わり方してたね」
若干展開の異なるエンディングもあったが、大体がこの展開に収束していたはずだ。
「俺もハッピーエンドは見たことないっすね。でもほら、バッドエンドだぞ! もう一回やってこい! って感じで終わらせないとループする意味がないじゃないですか。繰り返し遊んでもらうために、絶対バッドエンドになるんですよ」
たしかに、堂島のいう通り、繰り返すためには、ああいう風に終わらせるしか方法はないようにも思える。しかし、こうして現実にゲームの存在が現れている今、この先に何が待っているのかは分からないが、事実としてゲームのエンディングが常にバッドエンドだったというのは、なにか一抹の薄気味悪さを感じさせた。
――いや。このまま永遠に事態が収束せず、そして元にも戻れないのなら、なにもかもすべて消えて無くなってしまうというのも、悪くはないのかもしれない。
奥井は、窓の向こうで荒々しい岩肌を露出している分界を眺めながら、そんなことを思った。
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