048 2028年8月2日 渡河上総

 ネパール、ポカラのドミトリーの2階、経営者が生活していた部屋の1室で、渡河とが上総かずさは外の通りを見下ろしていた。

 ドミトリーは細い通りと大きな通りが交差する十字路の角に建っており、この部屋からはどちらの通りも見下ろすことができた。


 外の通りに人影はない。路上には無数の遺体が無造作に転がっているだけである。窓を開けると嫌な臭いがするので、もう数日、上総は部屋の窓を開けていなかった。この匂いに集まってきているのだろう、上空を旋回している大きな鳥の影が、ときおり路地に落ちては消える。


 おとといまでは、1時間おきに、どこかしらで悲鳴やら怒号、何かが激しく破壊される音に――狂乱を広める呪歌が聞こえていたものだった。しかし、昨日になってからは少しずつそれら、遠くから聞こえてくる音は少なくなり、今日は明朝に遠くで悲鳴が聞こえたきり、町は静寂に包まれていた。

 1週間前、町中に呪歌が広まり始めた頃は、本当にひどい有様だった。そこら中で、呪歌を口ずさみながら、武器を片手に練り歩く集団がいた。彼ら狂乱者たちは、生存者を追いかけ回し、生存者が見当たらなければ同士討ちを始めたりと、町中を血に染めて行った。多くの人々は狂乱者によって殺され、生き残った者も呪歌によって、正気を失った目で血を求める狂乱者の仲間入りを果たしていく。

 救援にやってきた救助隊や警察も同じ道を辿り、ただ外部から被害者を増やしただけだった。

 そこら中に恐怖と暴力と死の気配が満ちていた。

 あれは、まさしく地獄だった。


 しかし、そんな中におかれて、上総だけは狂乱者の仲間入りをすることはなかった。

 呪歌のメロディを聞いてしまわないための、耳栓などの防御策を講じていないのにも関わらず、メロディを何度聞いてしまっても、上総だけは正気を保ったままでいることができた。

 自分だけが正気でいられるのだという事実と、そして常に周囲から聞こえてきていたメロディが、過去にプレイしていたゲームの中で流れていた、聞くだけで頭がおかしくなる呪歌のメロディと同じであることに気づいたとき、上総はその悪夢の一端を、朧気ながら理解した。

 つまりは、この狂気に満ちた出来事は、理屈は分からないが、ゲームが――アニマ・ムンディが、現実に立ち現れたことによって発生したのだということを。そして、どうやら、プレイヤーだった自分だけは、狂乱にならずにいられるらしい、ということも。


 相変わらず、外を通る人影は一切なく、町は静けさに包まれている。

 少なくとも、この近辺はもう安全なのではないか。ここから逃げ出すならば、今が絶好のチャンスなのかもしれない。

 しかし、この安全なドミトリーから安易に飛び出すのは、果たして正解なのだろうか。自分が狂乱にかからない体だと言っても、この先、どこかの町で、どこかの道すがら、狂乱者に襲われる可能性もある。ポカラほどの町が壊滅しているのだ。近辺の町も、同じような惨状だと考えたほうがいいだろう。

 どうにか空港にたどり着けたとして、そんな国の状況で飛行機が飛んでいるかどうかも怪しい。万が一、飛行機が飛んでいたとして、こんな音を聞いただけで頭が狂うなどという奇怪な症状が蔓延している国の飛行機を、日本が受け入れるとは思えなかった。


 どこまでいっても、自分がすぐにでも帰国できるビジョンが浮かばない。

 そもそも、町に狂乱が広がりだす少し前に噂に聞いた、日本で流行しているという致死性の高い病気、というのの話はどうなったのだろうか。聞いたときこそ、致死率が高いとはいっても、海外のニュースを過剰に報道しているだけで、現代日本でならば死者は数百か数千程度のものだろうと高をくくっていた。それに家族が巻き込まれているなどとは到底思えなかったし、だから、慌てて帰ろうという気持ちにもならなかった。

 しかし、こうして恐ろしい速度で感染者と死者を増やしていく奇病を目の当たりにすると、日本の病気も同様の由来による同様の力を持ったものなのかもしれない、という予感が頭を掠める。もし、そうだとしたら、母や父、そして弟は無事なのだろうか。無事であってほしいと、上総は願った。

 上総はどうにかして、日本に帰りたかった。自分の暮らした国が無事だ、ということを確かめたかった。家族や友人と、もう一度会いたかった。このまま世界の屋根たるエベレストにほど近いアジアの奥地で、全貌の分からない災厄に見舞われたまま死ぬのは本望ではなかった。

 

 外には人の気配もなく、音もしない。

 やはり、この場から逃げ出すのは、今この時なのではないか。

 今が奇跡的に静かなだけで、獲物を失った狂乱者たちが再びこの場所に大挙して戻って来る可能性だってあるのだ。そうなれば、いよいよここから逃げ出すタイミングを失ってしまう。新たな救援隊がやってくる可能性もないわけではないが、しかしそんないつやって来るのかも分からないものを漫然と待つよりも、今この静けさに乗じてポカラを脱出することの方がより優れた選択であるように思えた。

 具体的な帰国の手段が見えなくとも、とにかく少しでも日本に近づかなければならない。今は誰か他者の力を期待することなどできないのだから。


 体を緊張させて考え込んでいた上総は、不意に背後で物音がして、驚いて振り返った。

 壁際の椅子に腰かけていたトリスナと目が合った。小さな顔に不釣り合いな大きなヘッドホンを付けたトリスナは、眠たげな視線を上総へ向けている。彼女は床に落ちていたペットボトルのキャップを拾いあげた。

 外に出ていくのならば、トリスナも連れて行かなければならない。

 自分以外の人間の安全も考えながら、何が起こるかも分からない外を連れて回るのは不安だったが、しかし彼女をここへ置き去りにするわけにはいかない。どこか安全な場所へ送り届けなければならない。


 1週間前に狂乱が急速に広がりを見せ始めたころ、ドミトリィの経営者に促され、上総はカトマンズへ逃げ出すための車に乗せられた。車の中には近所の人間が数名乗り込んでおり、その中にトリスナと彼女の祖母の姿もあった。

 しかし結局、車が動き出すよりも前に運転席に座っていた経営者が狂乱にかかり、社内はひどいありさまになった。命からがらドミトリィへ取って返したが、狂乱にかからず生き残っていたのは、自分と、耳に綿を詰めずっと両手で耳を塞いでいたトリスナだけだった。


 いまトリスナは、耳栓をしたその上から、それが絶対に外れないように、念押しでヘッドホンをつけている。どこまで厳重にすれば呪歌に対抗できるのか分からないが、少なくとも耳に綿を詰めていただけのトリスナの祖母やここの経営者は、容易く狂乱にかかってしまっていた。

 出来ることなら、ヘッドホンから何か音楽でも流して、より防御を強固にしておきたいところだったが、生憎手元にそういった道具はなかった。いまは、コミュニケーションを円滑にするために、ヘッドホンには上総の翻訳機が接続され、トリスナの首からぶら下がっている。耳栓をした状態でも翻訳機の音が聞こえるよう、ヘッドホンのボリュームは大きくしてあった。


「ここから逃げるなら今しかない。行こう」

 上総は椅子に腰かけていたトリスナへ手を差し伸べたが、しかしトリスナは首を横に振った。

「私は行かない」

 トリスナの首元にかかっていた翻訳機がトリスナの言葉を訳すと、機械音声となって、トリスナの発音より一瞬遅れてスピーカーから出力される。

「行かないって……、また奴らが戻ってくるかもしれないんだぞ。ここに残ってどうするんだ」

 上総はトリスナの思わぬ返事に驚いて尋ねた。

「何もしない。ただ、お婆さんの魂が、どこにも行けずにここに居るから、私も一緒に居てあげたい」

 トリスナは抑揚のない言葉で答えた。


「そんな……、そんな事、お祖母ちゃんは望んでないだろ。トリスナがどうにかして生き延びて欲しいって、もっと安全な場所があるなら、そこに行って欲しいって、思ってるはずさ」

 また魂の話か、というのを顔に出しては、魂を信じているトリスナを傷つけることになるし、会話に無駄な行き違いが発生する可能性がある。上総は努めてそれを表情にださないようにしながら言った。


「いまお婆さんが何を望んでいるのかは分からない。でも、お婆さんはもともと寂しがり屋だった。きっと、今も寂しいはず。だから私は一緒に居てあげるんだ。私のことは気にしないで、上総は自分の行きたいところに行ってほしい」

「いやいやいや……。子供の君を置いて、お互い頑張って、生きてたらまた会おう、じゃあな! ってやれっての? 絶対ないな。それはない。無理だな」

 いまの上総の今の言葉が正しく翻訳されなかったのだろう。トリスナは怪訝な顔をして首を傾げている。


「――俺は大人だから、子供の君をここに置き去りにはできない。だから、トリスナがここに絶対に、何が何でも残る、というのなら、俺も残らなきゃいけない」

 上総は強く断言するように言った。

 もしこれでも、トリスナがここに残ると言ったら、どうするつもりなのかについては、何も考えていなかった。言ってしまったことを引っ込めることはできないし、やはりどこまでいっても、こんな場所に子供を置き去りにしていくという選択肢は、なかった。


 トリスナは上総の目をみつめたまま、しばらく考え込んでいたが、再び口を開いた。

「私は子供だから、絶対に足手まといになるでしょう。だから、私は一緒に行くべきではないと思う」

「大丈夫。君はそこらの子供よりずっと利口だから、足手まといになんかならないよ」

 上総はそう言って、強く頷いた。


 トリスナは大きなため息をつくと、何やら諦めたような顔で立ち上がった。

「……分かった。行くしかないのでしょう」

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オムニシエンスの不在 なかいでけい @renetra

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