034 2028年8月1日 遠野健二

 品川シーサイドの駅ビルの案内板を、遠野健二(25)は友人2人と共に、眺めていた。ビルの中は電気がついておらず、薄暗い。


「残念ながら、電機屋はなさそうだな」

 3人の中で一番年齢が高く身長も高い清水が、小太りの井口へ振り返って言った。

「マジかよ。せっかくここまで来たのに、ショックでかいな」

 井口はそういって、激しく肩を落とした。そのオーバーなリアクションは、遠野にとても自分と同い年とは思えないな、と思わせた。

「大井町なら、ヤマダ電機があったけど、あそこまでは行きたくないね」

 遠野は、井口を見ながら言った。井口は映画の俳優みたいに首を振っている。

 ここまで来て、別の場所への移動は、もうこりごりだった。

 すぐそばの、篭城していた清水の自宅のマンションからここまでやって来るのにも、3人で周囲に目を光らせ、慎重に慎重を重ねて、やっとの思いだったのだ。


「大井町、大井町なあ、りんかい線の線路を通って……、いけないかなあ……」

 井口は未練がましく言う。

「危ないな。りんかい線は地下線路だ。長い一本道で、逃げ場がない。万が一があったら、おしまいだぞ」

 清水が言った。

「そうだね」

 遠野は頷いた。

「それじゃあ、やっぱり車で行くのは?」

 井口は、それが即座に否定される提案であるのを分かっているようで、恐る恐るといった顔で、遠野と清水を見上げた。

「分かってるんだろ? 太陽電池の扇風機は、そこまで危ない思いをして、必死になって手に入れるようなもんじゃない。あとしばらくの我慢だ。東京を出たら、いくらでも探すチャンスがある。今はとにかく、準備を終わらせちまおう」

 清水はそう言って井口の肩を叩くと、割れた自動扉をくぐった。

 遠野もそのあとを続く。


 いま、都内の短い距離を車で移動することは非常にリスクが大きい。

 音を立てながら動き回る大きな物体は、サル化した人間の目を強く引く。そうして集まってきたサル化した人間を撒くには、いまの都内の路上は、障害物が多すぎるのだ。走行不可能とまではいかないが、撒くほど速度が出せず、結果、目的地についてもサル化した人間に囲まれて、襲われる羽目になる。

 遠野たちは、すでに何人も、そうして命を落とした人々を見てきていた。


 ビルの中に足を踏み入れた遠野は、強く耳を澄ました。

 どこかで、サル化した人間が跳ね回る音がしはしないか、何かの倒れる音や、踏み鳴らされる音がしないか、聞き逃さないように、意識を研ぎ澄ました。

 他の2人も、同じようにこわばった表情で顔を傾け、周囲の音に集中している。

 しばらくして、3人で目を合わせた。

「大丈夫そうだね」

 遠野の言葉に、友人2人は頷いた。

「食料品は後回しにして、これから数日、車の中で生活するのに、何か役に立ちそうな道具はないか、探していこう」

 清水はそう言うと、慎重な足取りで薄暗い通路を進んでいく。


 遠野たちは、日中、気が狂いそうなほど暑い上に、サル化した人間で溢れ、生活することが困難な東京を離れ、どこか地方の過ごしやすそうな場所へ、居住場所を移動しようとしていた。東京を離れれば道路はずっと走りやすいはずだし、サル化した人間の数もぐっと減るだろう。

 いまやインターネットも使えなくなり、ここ以外の場所がどのような状態になっているのか全くわからなかったが、すくなくとも東京にくらべれば、どこだってマシだろうと思えた。


 遠野は天井を見上げた。

 そこには、消えた電灯が並んでいる。2日前に、電気が来なくなったのだ。

 よくよく考えてみれば、それまでどうして電気がついていたのかも不思議だったのだが、電気がきているあいだは、それはもう周囲に空気があるのと同じくらい自然なことで、どうして電気が来ているんだろう、なんて疑問に口に出すものはいなかった。

 

 1階をぐるりと回るが、目ぼしいものは見つからなかった。遠野たちは、動かなくなったエスカレーターを上り、2階へ上がった。

「あっ、本屋」

 エスカレーターを上り終えた遠野の視界の先に書店が見え、思わず声がでた。

「本屋がどうした?」

 清水が振り返って言った、

「いやあ、ほら、アプリが使えなくなってさ、ダウンロードした本が読めなくなっちゃっただろ? だから、暇つぶしに何冊か持っていければいいなあ、なんてさ」

 遠野はそう言っているそばから、なんだかその要求が非常に子供じみた緊張感のないもののように思え、「いや、やっぱりいいや」と手を振った。

「遠野お前、いいコトいうじゃん! そうだよ、俺、ハンターハンターの43巻、まだ読んでなかったんだよ」

 井口は急に元気な声で言うと、本屋へ足を向けた。

 遠野は清水と顔を見合わせると、肩をすくめた。


 その時、建物の外で、ゴロゴロと雷が鳴るのが聞こえた。

 音はビルの壁越しで、かなりくぐもってはいるものの、はっきり雷の音だと分かったのだから、かなり大きな雷だったようだ。

「さっきまで天気良かったのにね」

 井口が呟いた。

「そういやずっと雨降ってなかったからな。これでいくらか涼しくなるといいんだが」

 清水が言っている間に、外で大きく雨が降り出したらしい音が聞こえてきた。


 店内には多くの本が並んでいる。

 遠野は高校のときの図書室以来、こんなに紙の本がある場所は見ていなかったので、とても懐かしい気持ちになった。

 遠野は適当になにか面白そうな文庫はないかと、文庫コーナーへ入った。


 そうして足を踏み入れるなり、遠野は足を止めた。

 突き当たりの棚の前に、金髪の背の高い女がひとり、立っていたのだ。

 まったくの予想外のことに、遠野は思わず小さく悲鳴をあげた。


 金髪の女の姿はこちらに背を向けていたが、なにか体には力が入っておらず、その場で呆けているように見えた。

 そうやって女を観察しているうちに、遠野の中に素早く、喉元を締め付けるような恐怖感がやってきた。

 その恐怖がどこからやってきたものなのかも分からないまま、遠野はガタガタと体を震わせ、女の背中をただ眺めていることしか出来なくなっていた。


 バサリ、と音がした。

 女が手にもっていた本が、床に落ちたのだ。

 ごく近くに雷が落ちたらしく、激しい雷音が響いた。

 遠野は驚いて、再び悲鳴をあげた。


 思わず閉じていた目を開くと、背を向けていた女が、いままさに、こちらへ振り向こうとしている瞬間だった。

 全身に波打つよな鳥肌が立ち、息ができなくなる。

 いつのまにか床に座り込んでいた遠野は、耐え難い恐怖から逃れようと、この場から離れようと、女へ目を合わせたまま後退しようとした。しかし、後ろに壁があって、後退出来なかった。背中が、レンガ造りらしい、ざらざらとした壁にこすりつけられる。


 女の顔が、こちらを向こうとしている。金色の長く美しい髪が、まるで演出されたようにふわりと揺れて、その向こうにある瞳を見え隠れさせる。

 逃げなくてはいけない。

 遠野の深層心理が、今目の前で展開されている視覚情報を分かりやすく翻訳しようとするが、それはあまりにもとりとめがなく、具体的な意味をなさない。


 遠野は立ち上がろうと、机に手をつく。

 上に置いてあった皿と、ナイフとフォークが床におち、皿が割れる。乗っていた油っぽいベーコンが、床へべちゃりと投げ出される。


 女はついに、呆けたように驚愕の表情を浮かべながら、こちらへ振り向き終えた。

 それは、遠野がよく知っている人物だった。

 遠野がよく知っているNPCだった。

 遠野がよく知っているゲームのキャラクターだった。

 それは、外天げてん聖痕せいこんをもつ使徒の1人――


 アリルゲダのデネッタ・アロックだった。


 デネッタは、わずかに口を動かし何事かを呟いた。

 しかし、遠野にはなんと言ったのか聞こえなかった。


 遠野はデネッタから目をそらすことなく、この場から早く、立ち去りたかった。これ以上、恐ろしいという感情を抱き続けたら、自分がどうにかなってしまいそうだった。

 ようやく立ち上がった遠野のつま先が、大きな瓶を蹴った。

 瓶の中から、赤い色をした液体がこぼれ、床の薄汚い木に染みをつける。

 瓶はそのままゴロゴロと転がっていき、ベッドの下へ入り込んだ。


 遠野はたったいま、曲がったばかりの本棚に身を隠そうとした。

 しかし、その文庫コーナーと新書コーナーとの間にあったはずの通路は、木の壁で塞がれてしまっていた。

 遠野は急速に違和感を覚え、肩越しに振り返った。


 そちらには、雑誌コーナーがあるはずだった。


 しかし、あったのはレンガ造りの暖炉だった。


 灰の上に、鍋がくべられたまま放置されている。


 その暖炉の端からは、先ほどまで見えいた書店の本棚が、飛び出していて、スポーツ雑誌が陳列されている。その本棚の一旦、スポーツ年間が置かれている辺りから、傾いた木製の椅子の背もたれだけが、こちらに向かって飛び出している。


 右手を見ると、講談社文庫の棚の上に食い込むように現れた、埃っぽい木製テーブルがあり、そこにはマグカップが置かれ、足元にはさっき遠野が落とした、スプーンとフォークと、ベーコンが散乱している。


 少し離れた場所に、黄ばんだシーツがだらしなく垂れたベッドがあり、その上に新潮文庫の棚が飛び出している。


 遠野は、木造の汚らしい家の中に、書店の本棚が並んだ、奇妙な空間にいた。


 本屋にあったものも、突如現れた木造家屋の品々も、どちらの物体も、まるで物理法則を無視したように重なりあい、飛び出し、食い込み、まるでそれが一番自然な存在のしかただとでもいうように、互いの位置を譲らずに、重なり合っている。


「どうなんってんだこれ! おい!」

 少し離れた場所で、清水が叫ぶのが聞こえた。

「なんか、急に壁が生えてきたんだけど、これ、みんな見えてるよね?!」

 反対側で、井口が叫んだ。


 遠野は友人たちの声を聞いて、いくらか体を支配していた緊張が和らいだ。

「みんな、ちょっとこっちに来てくれ!」

 遠野は、姿の見えない友人たちに向けて、叫んだ。

 自分の目の前で立ち尽くしているデネッタ・アロックが、本当にそこに実在しているのか、確かめたかったのだ。


 しかし、そんな遠野の叫び声で我に返ったらしいデネッタは、その場で頭を振ると、額に手を当てた。すると、デネッタの周囲の空間が陽炎のように歪みだした。

 それは、知覚遮断を実行した際のエフェクト演出効果だった。そうしてデネッタは、そのエフェクトと共に、姿を消した。

 デネッタの姿が見えなくなると同時に、ずっと遠野の首を締め上げていた、凍てつくような恐怖は、どこかへ霧散していた。


「ちくしょう、これ、どうやってそっちに行けばいいんだ……」

 清水の苛立った声が、文庫コーナーと新書コーナーの間に出現した木の壁の向こうから聞こえた。

 もはや見てもらいたかったものは消えてしまったのだが、友人たちと合流するために、遠野はこの板を壊せそうなものはないか、周囲を見渡した。


 そんな遠野の目が、さきほど、デネッタが手から落とした、大判の本に留まった。

 遠野は吸い寄せられるように、その落ちている本へ歩み寄った。本は開かれたまま、表紙を上にして、落ちていた。

 本のタイトルは――


『アニマ・ムンディ オフィシャルガイド バージョン2.65対応版』


 ――だった。

 数ヶ月前に発売された、アニマ・ムンディの攻略本だ。アバターの特殊なパーツが貰える購入者特典のついているもので、遠野はこのデジタル版を持っていた。本の内容はどうでもよく、単純に特典のチョーカーのパーツが欲しかったのだ。いまどき攻略情報などネットで見ればよく、攻略本などただのファンアイテムに過ぎない。

 遠野は、それを拾い上げた。

 開かれていたページが、デネッタが読んでいたページなのかは定かではないが――

 ただ、きっとこのページを開いていたのだろうな、と思わずにはいられないページが、落ちたはずみで折れて曲がっていた。


 それは、ゲームの中で特に重要なNPCについて、詳細情報が纏められた章の1ページだった。


『デネッタ・アロック。外天の使徒』


 そう厳しいフォントで書かれたページタイトルの下に、デネッタのイメージイラストが数枚と、ゲームの中での色々な姿のデネッタが写ったスクリーンショットが数枚、掲載されていた。


 


 遠野はそう思いながら、なんだかその響きが面白くて、思わず吹きだした。

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