035 2028年8月1日 浦部純
浦部純は、水を張った浴槽に体を沈めて、時間が過ぎるのを待った。
時間が過ぎ続けていけば、いつか自分は助かるのだ。
だから、できるだけ多くの時間が過ぎてほしかった。出来る限り遠い時間へ到達できれば、自分が助かっている可能性が高いのだから。
漂流している船だって、いつかはどこかの海岸へ到着するものだ。
遭難している人だって、いつかは誰かに発見されるものだ。
閉じ込められている人だって、いつかは誰かに助けてもらえるものなのだ。
永久にそうならないものなんて、あるはずがないのだ。
相応に時間が過ぎれば、かならずどこかへ到着し、発見され、助けてもらえるのだ。
だから、純は祈った。
とにかく時間が過ぎてくれることを祈った。
しかし、その思いに反比例するように、時間は無限に引き延ばされていくようで、一向に進まなかった。1時間が、1分が、1秒が、不必要なほどに冗長な演出で満たされて、こちらを馬鹿にしている。
お腹が空いた。
何かを胃に入れたくてたまらない。だけれども、もう少し我慢しなければならない。出来るかぎり長い時間を過ごすためには、出来る限り我慢しなければいけないからだ。以前に保存食にしようとAmazonでまとめ買いしたカロリーメイトを、おととい開けたばかりだ。1日1箱で我慢しつづければ、まだ1ヶ月は耐えられる。
しかし、1日に食べる量がそれだけしかないと、これほど空腹で辛い思いをしなければならないとは、思いもしなかった。
自分はもっと、我慢できる人間だと思っていた。
ともすれば、絶食して1週間だって、乗り切れる人間だと思っていた。
それがどうだろう、1日に1箱のカロリーメイトなんていう、絶食から比べれば遥かに豪華な食事をしているにも関らず、この体たらくである。
胃が空であることを訴えてくるたびに、自分の境遇を振り返り、悲観して気分を滅入らせていく。
これ以上、お腹が空いたら、本当に頭がどうにかなってしまいそうだった。
――駄目だ、こんなことを考えていたって、良くない考えが浮かぶだけなのだ。
純はそう思って、気分を変えようと、浴槽から上がった。
なぜか妙に体が重く、どうしてだろうと自分の体を見下ろして、服を着たままだったことを思い出した。
水をたっぷり吸ったシャツが、重たそうにだらしなく延び、水を滴らせている。
自分でそうしようと思ってやったことなのに、すっかり忘れてしまっていた。
純はシャツとスウェットを大雑把に絞って、薄暗い灼熱のリビングに入った。締め切られたカーテンが、陽の光で明るく透けている。
純が一歩足を踏み出すたびに、熱気が体にまとわりついてくる。
テーブルの上で充電器と繋がっているユニリングは、充電中を示すオレンジのランプも、充電完了を示す緑のランプも、灯していない。
乾いた笑いが漏れる。
純はテーブルの上に放られたコントローラーから、エアコンの起動を試みるが、つくはずもない。
分かっているが、この状況への当て付けのように、やらずにはいられなかった。
電気は戻らない。
そもそも、この電気はどこで止まったのだろうか。
このマンションと電線との接続が絶たれたから?
どこかで電柱が倒れたから?
どこかで鉄塔が破壊されたから?
それとも、発電所が停止したから?
インターネットにも繋がらなくなり、停電の原因を探ることもできない。
純には何がどうだったとしても直すことはできないのだから、原因がなんだって同じことなのだが。
すでに電気が途絶えてから、2日以上が経過している。
もう2度と、電気は戻らないのだろうか。
きっとそうなのだろう。
外を誰も歩くことができないのなら、そうならざるを得ないのだ。
純は陽の光によって室温が上昇するのをを少しでも和らげようと閉めていたカーテンの隙間から、外を覗いた。
雲ひとつない空の下、街路樹が風に揺れている。
肌を撫でる、涼しくさわやかな風を夢想する。風はきっと心地よいだろう。
思い切って、窓を開けてしまおうか。
それは愚かなことだろうか。
どうせ結末が同じなら、何をしたって同じじゃあないか。
電気が途絶えてから2日。
たったの2日だ。
でも、世界がこうなってしまってからの2日は、とてつもなく長いものだった。
なにせ助けがくる見込みなんかないのだ。
笑えるじゃないか。
何かぼんやり妄想しながら、いつかは助かるはずだなんて思っているけど、そんなのはやっぱり妄想でしかないのだ。
この数日続いたことは、このさきずっと無期限に容赦なく延長され続けるし、より確実に悪くなっていくしかないのだ。
息を大きく吸い込んで、深呼吸して、頭をすっきりさせて出てくる、理路整然とした未来予測は、たったひとつ、そういう未来だけだった。
今やることは、明日やったって同じなのだ。
だったら今やったっていいってことだ。
窓を開けて風を浴びて、ついでにお腹一杯カロリーメイトを食べればいい。
いや、窓を開けたのなら、外に出て、もう少しマシなものを探したっていいんだ。
純は頭を振った。
それはまだ、いまやることじゃない。
自分はまだ、そこまで追い詰められてはいないはずだ。純は、わずかに力をかければ解除できてしまう窓の鍵を睨みつけながら、そう自分を律した。
鍵を開けたいという誘惑を断ち切るため、カーテンを閉めようとした。
不意に、外が薄暗くなった。
見上げると、ついさきほどまで晴れ渡っていた空に、黒雲が立ち込め始めていた。
雨でも降るのだろうか。それならば、ありがたいことだ。少なくとも、これでしばらくは涼しくなるはずだから。
やがて、ゴロゴロと雷が鳴り始めたかと思うと、強い光が室内を照らし、脳天を貫かんばかりの轟音が部屋を揺らした。
かなり近い場所に落ちたようだ。
建物の中にいれば、何も恐れることはないのだが、自然が放つ大きな音と光と振動は、純に妙な居心地悪さを与えた。
強い雨が降り出し、窓を打ちはじめた。
窓ガラスに打ち付ける水滴を眺めていると、唐突に雷鳴と雨音が、分厚い壁の向こう側にいってしまったかのように遠くなった。
そう思ったときには、窓の外に見えていた、雨空の薄い陽の光は消えて失せ、窓の向こうが真っ暗になった。
「えっ、なに?」
純は窓に額をくっつけて、向こう側を覗きみた。
向こう側は、窓についた水滴でぼやけ、よく見えないが、すぐ向こうのごく近いところに、どういうわけか棚のようなものが並んでいるように見えた。
しかし、窓の向こう側も暗いが、純の周りも同じように、カーテンを閉め切った夕暮れ時のように暗く――
強い違和感を覚え、純は振り返った。
そうして、真後ろにあった壁に、即頭部を思い切り打ち付けた。
「痛っ……」
純はぶつけたところを押えようとするが、その腕も壁に思い切りぶつけてしまい、ひどく痛い思いをした。どういうわけか背後にあった壁と、今まで見ていた窓側にある壁が、邪魔をしているのだ。
「は? え?」
純は自分がいま置かれている状況が、さっぱり飲み込めなかった。
ただ、はっきりしているのは、突然自分は、壁と壁との間に、挟まれてしまい、まったく身動きが取れなくなっている、ということだった。
後ろに突如現れたのは、茶色いレンガで出来た壁。
壁と壁との間で押しつぶされているわけではなく、幾らかの余裕はあるのだが、それでも隙間は30cmほどしかない。
純は背後のレンガ壁が何なのかは分からないが、とにかくこの状況から抜け出そうと、このレンガ壁にどこか隙間がないものか、首を苦心しながら左右に回して、周囲を確認する。
「――うそでしょ」
見える範囲に、レンガ壁から向こう側へ出られそうな、穴のようなものも、窓のようなものも、扉のようなものも、そういった逃げ場が、一切見当たらなかった。
どちらを向いても、30cmほどの暗い隙間が続いており、どちらの突き当たりにも、純の元いた部屋の壁が、見えているだけだった。
背後の壁は幻覚などではなく、明らかに実体としてそこに存在しており、純が呼吸したり、身じろぎするたびに、背中に当たった。
一体何が起こったのだ。純は考えをめぐらせるが、こんな状況が起こる理屈が、まったく想像できなかった。
一度落ち着こうと、深呼吸をする。
気持ちを静めるために額を押えたかった。
しかし、腕は注意深くあげなければ、再び壁にぶつかり擦り傷を作る羽目になるため、慎重にならざるを得ない。しゃがもうにも、横を向いて腰を下ろしたが最後、2度と立ち上がれなくなるのではないか、というほどにスペースに余裕がなく、座ることも許されない。
この不条理な状況は、一体なんなのだ。純は苛立ちを覚えた。
とにかく、どうにかして、この場から抜け出さなければならない。
純は苦心して、体を反転させてレンガ壁の方を向いた。
穴は無いが、思い切り押したら倒れたり、レンガのひとつが外れるなり、してくれはしないかと、手当たり次第にレンガに力を加えてみた。
しかし、部屋の端から端まで順に押してみるが、壁が倒れる気配もなければ、どれかが外れるようなこともない。
いつのまにか外でしていた雷の音も雨音も止んでいる。
しかし、明るさが変化した気配はない。雲が晴れ明るくなったのか、それともまだ雲が太陽を覆い隠しているのか、この場所では分からなかった。ここは、ただただ仄暗いだけだった。
純はレンガ壁に両手をつきながら、途方に暮れていた。
この空間に押し込められてから、まだ2時間と経っていないはずだが、不自然な姿勢を余儀なくされて、純の身体は悲鳴を上げ始めていた。身動きが取れなくなろうとも、このまましゃがみ込んでしまいたかった。
もしかして、自分はこのまま、壁と壁に唐突に挟まれたまま、なすすべも無く衰えて死んでいく運命なのか。
この状況がこのまま好転しないなら、そうなるのだろう。
結局部屋の中で衰弱死するという結末は変わらないかもしれないが、純はこんな狭い場所で死ぬのは、たまらなく嫌だった。
自分の好きなものに囲まれたまま死ねるのだから、もっと悪い状況で死ぬ人に比べれば、いくらかマシだなんて思っていたのに、この状況はなんだ。好きなものどころか、好きな姿勢になることすら出来ないじゃないか。
そんな風に考えながら、純は再び体を反転させ、窓のほうへ向き直った。
先ほどにくらべて水滴が少なくなったことで、向こう側がよく見えた。
純が挟まれている空間と大差ない明るさの、部屋の一室が、そこにあった。
いくつも本棚が並べられ、部屋の中央には立派な書斎机がひとつ、置かれている。
ついさっきまでは、そちらは3階の高さの空中で、2階建の家を一軒挟んで、向こうに2車線の道路が走っていたはずなのだ。
しかし、今見えているのは、明らかに書斎だった。しかも、多少アンティークな。
純は目を瞑った。
窓を開けなければ、自分は早晩、ここで無様に朽ちて死ぬことになる。
残されたわずかな時間に望みを託してここまで生きてきたのに、そのリミットは鉈で断ち割られたように短くなってしまった。
純は窓の鍵に手をかけた。
――そう。
窓の向こうには、もうあの危ない砂は、ない可能性もある。
昔読んだ漫画みたいに、この部屋の外は異世界になっているのだ。
病気の原因になる砂のあった東京ではなく、どこかの異世界なのだ。
自分のその考えを、どのくらい支持していたのか、純には結局わからなかった。
ただ、もうあらゆることが限界にきていて、とにかく現状から逃げ出したかった。
純は窓のロックを解除して、取っ手に手をかけた。
窓を開けたら、ここまでの苦労がすべて、水の泡になる。
そんなことは分かっている。
自分がいま、生き延びるための最善手はなんなのだろう。
もう一度考えてみようとするが、この隙間で挟まったまま無様に朽ち果ててみる、という案は、頭の片隅に打ち捨てられていて、見たくもないアイデアだった。
純は窓を勢いよくスライドさせ、開けた。
向こうから、かすかに黴臭いような匂いが漂ってきた。
純は迷うことなく、薄暗い書斎の中へ足を踏み入れた。
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