012 2028年7月22日 宮内萌

 午前7時00分。横浜市保土ヶ谷区に住む宮内萌(35)は、目覚ましのアラームを聞いて目を覚ました。


 隣をみると、夫の順平はまだ眠っていた。

 順平は昨日の晩、咳が止まらず、だいぶ具合が悪そうだったので、もしかしたら今日観にいく予定だった映画は後日に持ち越しになるかもしれない。萌はとりあえず自分の布団を片付けて、洗面所で顔を洗った。


 本当なら、今日の朝食当番は順平なのだが、自分が代わりに作ることにした。フライパンに火をつけながら、テレビの電源をいれた。

「現在、成田空港や関西国際空港など、日本のすべての空港で立ち入り制限が行われており、国内線、国際線問わず、すべての便の運行が取りやめとなっています」

 若い女性キャスターが、緊張した顔で読み上げたそのニュースに、萌は耳を疑った。

 ――すべての空港ですべての便が運行取りやめ?

 これまで生きてきて、そんなニュースは聞いたことがなかった。聞き間違いではないのかと思って画面を見た。しかし、そこには大きな文字で「国内すべての空港で離発着便の運行中止」と、ニュースの見出しが表示されている。

 また、画面は災害発生時のように大きくL字に区切られ、次々に萌の知らない情報が流れていく。


『運行を取りやめている新幹線

 東海道新幹線/東北新幹線/上越新幹線/山陽新幹線

 北陸新幹線/山形新幹線


 運行を取りやめているリニア新幹線

 中央新幹線


 運行を取りやめている在来線

 京葉・武蔵野線/総武線/中央線/東海道本線

 上野東京ライン/山手線/横須賀線/京浜東北線/根岸線

 ―――』


 さらに、私鉄や地下鉄の名前がずらずらと右から左に通り過ぎていく。

 ニュースのほうも、東京駅を通過するJRや私鉄が、のきなみ運行をとりやめていることを告げている。


「なによこれ……」

 萌は口の中がカラカラに乾くのを感じながら、呟いた。

 ただごとではない。

 どこかからミサイルでも飛んでくるのか、それとも戦争でも始まるのか。そうでもなければ、こんなことは起こらないはずだ。

 だが、画面には運行を取り止める、その原因となる事象については書かれておらず、ただ大きな文字で画面の左端に、


『不要不急の外出は控えてください』


 としか書かれていない。

 萌は、これだけニュースで大騒ぎしておきながら、その原因が分からない状況に苛立ちを覚えた。常日頃から、国民の生命が第一だとか言っている国が、こういうときに情報を小出しにに、細切れにして、こそこそと被るダメージを小さくしようと躍起になっているのかと思うと、虫唾が走るのだ。なにか一大事が起こっているのなら、映画に出てくる正義の政府みたいに、どんと構えて格好よくあってほしいと思うものだ。


 ほとんど箇条書きに近いニュースを読み上げ終えたキャスターの前に、横から紙が一枚渡された。キャスターはそれを受け取りながら、読み上げる。

「えー、7時30分より、西脇官房長官より未明から行われている駅、空港の立ち入り制限について緊急記者会見が行われる模様です」

 画面上の時計は、7時10分になったところだ。


 萌は火をつけたまますっかり忘れていたフライパンをコンロから一旦おろし、ユニグラスとリングをつけた。

 なんと検索したものか、一瞬考えこんで、

『立ち入り制限 原因』

 と入力した。

 しかし、応答がすぐには戻らない。

 Wifiの通信状態を示すアンテナアイコンは全て点灯しているのに、なぜだろう。と思っていると、普段は全く気にしない、アンテナアイコンの隣についている雲のアイコンがになっていた。普段はのはずなのだが。

 そうだ。以前に順平が、これはクラウドサーバーとの通信状態を示すアイコンだと言っていた。たしか、ユニグラスにもリングも、昔のスマートフォンのようにそれ自体に処理機能が入っているわけではなくて、クラウドサーバーに処理を投げて、戻ってきた映像を表示しているんだったか。スマートフォンの頃にくらべて、端末価格が安くなったのも、そのお陰だと言っていた。


 しかし、そのせいで今は検索すらできない状態だ。おそらく、朝のニュースを見て驚いた沢山の人が、一斉に検索を始めたから、重くなったに違いない。

 と、思ったものの、萌はすぐに、その推測に若干の違和感を覚えた。

 しかし考えてもしかたないので、萌は結局応答の帰ってこないユニグラスを外して、昔買ったタブレットを探すことにした。あれはクラウド契約していないので、普通にネットが見られるはずだ。

 タブレットは寝室の机の中にしまっている。取りに行くついでに、順平の具合も聞いておこう。


 寝室に入ってすぐに、萌は膝をついて順平の額に手をあてた。

 そして、全く体温を感じないその冷たさに、萌は凍りついた。

「ちょっと、え?」

 萌は慌てて、順平の身体を揺すった。しかし、それは重たい塊を一方的に揺さぶっているような生きている手ごたえのないものだった。


 順平の上にかかっていたタオルケットをはがす。なぜか細かい砂がばらばらと飛び散ったが、気にしている場合ではない。萌は心臓に手を当てた。


 動いている気配がない。


 昨日、順平は風邪をうつされたといって、咳をしながら帰って来た。自分が帰ってきてわりとすぐだったのだから、19時ちょっと過ぎだ。

 本人はそれほど具合が悪いわけでもないと言っていたが、顔色がとても悪そうだったので、簡単な夕飯を食べさせたあと、萌が強引に布団に寝かせたのだ。


 そういえば――

 ついさっきの、順平の寝姿は、昨晩22時ごろに自分が布団に入ったときと、全く同じだったのではなかったか。

 もしかして、あの時既に、順平は死んでいたのだろうか。


 萌は混乱する思考をどうにか抑制し、とにかく救急車を呼ぶことにした。リングならばクラウドサーバーに繋がらなくとも、電話の機能だけは使えたはずだ。

 再びリビングへ戻ろうと、立ち上がろうとした萌の足が、唐突に引っ張られた。

 転びそうになったのを、どうにか片足で支えて振り返ると、順平が萌の右足を掴んでいた。青白い顔が、こちらを向いている。


「え?」萌は一瞬パニックに陥りかけたが、しかし順平が動いていたという事実を認識し安堵した。「ああ、ああ良かった! 死んじゃったのかと思ったのよ」

 が、順平は萌の言葉に反応している気配がなかった。


 ただ、右足だけが強い力で掴まれている。まるで、崖から落ちそうな人間が、木の枝を必死に掴んでいるような――

 不意に順平は上半身を起こし、萌の右くるぶしに噛り付いた。

 身体の皮膚表面が破壊される強烈な不快感と同時に、産まれてから一度も感じたことのない激しい痛みが萌を襲った。

 絶叫しながら拘束されていない方の足で、順平の顔を蹴りつける。

 最初こそ相手がまだ夫であるという感覚から手加減していたが、太ももめがけて歯をつきたてられそうになって、ついに渾身の力で順平の顔を蹴り込んだ。


 どうにか順平の手から逃れた萌は、痛みに堪えながら立ち上がり、必死の思いで寝室から逃れた。

 扉を閉め、開けられないように押さえながら、何かここを塞ぐものがないか探した。しかし、丁度よさそうなものは見つからなかった。

 向こう側から扉を引っかいている音がしている。

 萌はとにかく助けを呼ぼうと、痛む右足を引きずりながら、マンションの廊下へ出た。

 そうして、隣の老夫婦の部屋のインターホンを押した。

 何度か押しても反応がない。

「すいません! 助けてください! 夫の様子がおかしいんです!」

 そう訴えかけてみたが、中から人が出てくる気配もなかった。

 別の部屋に向かおうか、とも思ったが、しかしいよいよ右足が痛みだし、萌は思い切って扉のノブを回してみた。

 すると扉は何の抵抗もなく開いた。

「すいません、夫が――」

 叫ぼうとした萌の喉もとに、何者かが食らいついた。

 それ以上、萌が声を出すことはできなかった。


 もがいても、もがいても、もはやどうする事もできず、やがて萌は力尽きた。

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