013 2028年7月22日 渡河安曇
午前8時13分。
昨日の夕方、クラスメートである清水翔子の祖父母の家へとやってきた安曇たち、夏休み小旅行の一行は、翔子の祖母が半日近くかけて作った豪勢な夕食を食べたあと、堀直輝がバックパックに大量に詰め込んできた、テレビゲームやらボードゲームやらカードゲームで、夜遅くまで遊びに遊んで盛り上がったのだった。もし、翔子の祖母に注意されなければ、そのまま完徹していたかもしれない。声がかれる程笑ったのは久しぶりだった。
顔を拭いて廊下へ出ると、翔子の祖父に背後から声をかけられた。
「おう、おはよう。渡河くんだっけ?」
安曇はこの、浅黒い肌をした声の大きい大柄の、大きく年の離れた老人のことが苦手だった。
「昨日は夜遅くまで騒いですいませんでした」
安曇は頭を下げながら、先手を打って謝った。
しかし、翔子の祖父は昨晩のことは全く意に介していなかった様子で、ニヤニヤしながら顔を近づけて、
「そんなことより、渡河君はあの三人の中で誰が好きなんだ?」
と聞いてきた。
そんなことを聞かれるなんて思いもしなかった安曇は、面食らって口ごもった。
「まあでも、翔子はガサツで色気がないからなあ」
翔子の祖父は自分の孫に対して随分なことを言いながら、安曇が答えるのを待っている。しかし、安曇は生まれてこのかた、誰かに恋愛感情のようなものを抱いたことがなかった。そういうものは自分とはまったく関係のない出来事のように感じていたのだ。
いつか、自分は誰かと結婚するかもしれないし、子供を持つかもしれない、というような想像を漠然とすることはあったが、それを今の自分自身に具体的に重ねあわせて考えることはとても難しいことだった。
聞かれたきり、薄ぼんやりとそんな事を考えていると、唐突に背中を思い切り叩かれた。
「そんな顔するなよ、冗談だって!」
翔子の祖父は、大きな声で笑いながら去っていった。そのなにやら運動部めいた勢いに辟易しながら、安曇は苦笑いした。
リビングに入ると、テレビの前のソファに眠そうな顔の雄太が座っていた。安曇の家の2倍はあろうかという広いリビングの壁にかけられた大きなテレビでは、会見中の険しい顔をした初老の男が、記者の質問に答えている。テレビ画面の上のほうを、電車が止まっているだとかいった情報が流れていた。
「おはよう」
安曇の声に、雄太は首を回して頷いた。
「おはよう。なんかさ、ネット見れないんだよ」
そういわれて、安曇はソーシャルログを起動しようとしたが、そもそもアプリケーションが立ち上がらなかった。
「ほんとだ」
もしかしたらこの家のWifiが遅いだけなのかもしれないと思い、キャリア回線に切り替えたが、安曇の視界には時計と電波状態が表示されているばかりで、どのアプリケーションも立ち上がってこない。
「うーん、だめだ。ぜんぜん繋がらないね」
何が原因なのか、どうしてこんなことになっているのか、どうすれば解決するのか、誰に聞けばいいのか、調べたくてもユニグラスが使えない今、安曇にはどんな手段を用いれば自分の疑問が解決するのか、見当もつかなかった。
どんなときでも無意識に使えていた機能群が使えなくなるのは、まるで身体の半分を失うような不安感だった。一時間後の天気も分からないし、どこかへ出かけるにしても、出先でなにか重大な事故が起こっていないかを先んじて調べることもできないのだ。
安曇が諦めきれずにアプリケーションが立ち上がらないものかと、手首を捻って同じ操作を繰り返していると、翔子ら女子3人がリビングへやってきた。彼女達も、ネットが見られないことを不安がっていたが、祖母に尋ねてみても解決法はみつからなかった。結局、どうしようもないものは、どうしようもないのだ、ということで復旧するまでネットのことは忘れよう、という事になった。
「そういえば、直輝は?」
真愛はリビングを見回しながら尋ねた。
「そういえば、もう起きる、って唸ってたけど、結局起きてこないな」
安曇はそう言って、直輝を起こしに行こうと、ソファから立ち上がろうとした。しかし、それよりも早く真愛が、
「しかたない、起こしてくるか」
といって廊下へ出て行った。
安曇は浮かせたまま所在の無くなった腰を、しかたなくソファへ戻した。
「病気の話はいいから、おれはオリンピックの開会式が見たいんだよなあ」
いつの間にかダイニングテーブルについていた翔子の祖父が、苛立たしげな声をあげながらチャンネルをいくつも切り替えていった。結局チャンネルはケーブルテレビのスポーツチャンネルに落ち着いた。画面には、巨大なスタジアムのような場所で大勢のダンサーが狂ったように踊っている映像が映っていた。
「そっか、昨日開会式だったんだっけ」
翔子は祖父の隣に腰掛けながら言った。
「昨日っていうか、いまだな。いいか? オリンピックの開会式なんていうのはな、人生の間に40回しか見られないんだからな。見られるときに見ておかないと損するからな」
そういえば、安曇の両親も、今年の夏はロサンゼルスでオリンピックをやるのだとしきりに騒いでいたのを思い出した。安曇にとってはオリンピックというと、8年前の夏休みを台無しにした東京オリンピックの印象が強く、あまり興味を持ちたい対象ではなかった。
しばらくして、直輝と真愛の二人がリビングへ入ってきた。
「それじゃあ、朝ごはんにしましょうか」
翔子の祖母にそう促がされ、一同は席についた。
「そういえば、安曇の兄ちゃんってまだ旅行から帰ってきてないの?」
朝食に出されたトマトを齧りながら、思い出したように直輝が尋ねた。
「まだ当分帰ってこないんじゃないかな」
安曇の7歳年上の兄、
「大陸を横断するんだっけ、バックッパッカーってやつだよね。今はどこにいるの?」と、翔子。
「一週間くらい前に、カトマンズってところに居るんだって写真が送られてきたよ」
答えながら、その写真を出そうとして、ストレージにも接続できない状況に、安曇はうんざりした。次から写真くらいはローカルストレージを買って保存しておく必要がありそうだ。
「ネパールかあ、いいねえ。エベレストとかも見てくるのかな」
すでに朝食を食べ終えていた翔子の祖父が、コーヒーをすすりながら言った。
「見られる場所まで行くみたいです」
上総から送られてきたメッセージには、その場所の具体的な名前も書いてあったはずだが、それは思い出せなかった。3文字くらいの短い名前の地名だったはずだ。
「だけどさ、さっき飛行機が全部止まってるってテレビに出てたけど、兄ちゃん帰ってこれんの?」
雄太が言うと、翔子の祖父が、「空港閉鎖なんて、一週間もやらんだろう。渡河くんのお兄さんが帰ってくるころには普通に戻ってるさ」と答えた。
「え、空港が閉鎖してるんですか?」
真愛が驚いた顔をして言った。
「うん。さっきテレビに出てたね」
雄太が頷いた。
「閉鎖って、なんで? 普通はそんなこと、簡単にしないですよね?」
怯えた顔で尋ねた真愛を見て、テーブルに座っていた全員の手が止まった。
「電車も止まってるんだって、流れてたね」
安曇はついさっき、ちらりと見えたテレビの画面を思い出しながら言った。電車も飛行機も止まっている、というのはどういう状況なのだろうか。たしかに普通ではないかもしれない。何か大きな事故だとか、テロの予告だとかがあったのだろうか。
「変わった病気が流行ってるから、広がらないように一旦止めるんだってよ」
翔子の祖父が、軽い調子で答えた。
「変わった病気って、どんなの?」
怪訝な顔をして翔子が言った。何人かリングをつけている腕を動かしていたが、答えを得られるはずもなく、頭をかいたり、不機嫌そうな顔をするしかなかった。
すると翔子の祖父が、大きくため息をついた。
「なにをそんなに心配してるんだ。テレビでやってたことなんかでいちいち怖がってたら、楽しいことも楽しくなくなるぞ。さっさと食べて、海に行ってきなさい。今日は最高に天気がいいぞ」
直輝もそれに続いて、
「そうそう、早く海行こうぜ海!」
と声をあげて、クロワッサンを口に詰め込んだ。
皆の頭の片隅に漠然と不安は残っていたものの、しかし折角来たのだから、海にいくべきだという意見に反対しようとするものは現れなかった。
騒々しい音を立てているテレビには、スタジアムに入場する選手団がうつされていた。
朝食を終えた安曇たちは、歩いて20分ほどのところにある逗子海岸へやってきた。
たしかに、翔子の祖父の言ったとおり天気はすばらしく、雲ひとつない空の下で、海がきらきらと輝いていた。
浜辺にはいくつもパラソルが広げられ、子供達が走り回っていた。ただ安曇には、これだけ天気がいいわりには、浜辺の広さに対して少し人気が少ないように感じられた。とはいっても、普段の状態を知っているわけではないので、単純にさっきの話に気持ちが引きずられているだけなのかもしれない。
安曇はかついできたパラソルを砂浜に設置した。直輝はその下へクーラーボックスをおろす。どちらも翔子の祖父宅にあったものだった。
「なんかね、おじいちゃんが、今日のために買ってくれてたっぽいんだよねえ」
と、道すがら翔子が言っていた。
直輝と雄太は、羽織っていたシャツを脱ぎ捨てると海に向かって走っていった。安曇もそれに続こうと、シャツを脱いだ。
しかし、走りだそうとした安曇を、「ねえねえ渡河くん」と言って、理沙が呼び止めた。
「これだけたくさん砂があると、なんだかアレっぽいよね」
理沙が愉快そうに言った。
「アレ?」
安曇はピンとこず、首をかしげた。
「ほら、アレだよ。アニマ・ムンディの、ゾンビパウダー」
そういって、理沙は足元の砂をすくって、さらさらと足元へ落とした。
「ああ、たしかに」
安曇はゾンビパウダーに埋もれたアリルゲダの景色を思い出しながら頷いた。
しかし安曇は、いちいち現実とゲームとをごちゃ混ぜにして喋ることが、どうにも子供じみて感じられ、好きになれなかった。だから理沙がそれ以上に話を続ける前に、二人の足跡の上を走りだした。
そもそも、安曇はもう、あのゲームのことを思い出したくなどなかった。
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