027 2028年7月23日 俯瞰
午後1時17分。大手町の地下深くに極秘裏に敷設された三号臨時避難施設の一室で、代議士の堂田繁(63)は物憂げにテレビカメラのレンズを見つめていた。
20畳ほどの部屋の中には、放送用の機材設備がぎっしりと詰め込まれている。しかし、これらの使い方を知るものは、ここには居ない。
堂田の隣に置かれた国旗が、空調によって微かに揺れている。
本来であれば、ここから国民へ向けて情報を発信するはずだったのだが、その役目を果たすことは永久にないだろう。
ここはとても静かだった。
外界の音は一切届かず、中から音を発するものも、自分ひとり。
ここに砂が入り込めばどうなるのかも想像できなかった愚か者によって、莫大な金を投じて造られたこの場所も、いまやただの死体置き場に成り果てた。
あまりにも早い。
これほどの速さで、思考力を奪い、決定力を奪い、伝達力を奪い、命を奪うものが現れるとは、誰が想像できたであろうか。
懸命に自らの使命を果たそうとしたものほど早く逝き、自分のように使命を忘れ、年老いた人間が、辛うじてこうして地下で生きながらえている。
もはやここから、この惨状を立て直すのが不可能なことは、誰の目にも明白だった。
もうすべては終わったのだ。
たとえ、衣類越しでも致死の病気を媒介する砂を打開する手段がみつかったとしても、その頃には日本という国をもとあった状態に戻せるほど、日本の破片が残っては居まい。
よしんば奇跡が起こり、もとの状態に戻せるのだ、となったとしても、自分の居場所はそこにはないだろう。
堂田は手の中にある拳銃を、所在無くもてあそんだ。
部屋の外に転がる死体の頭をいくつも、これで撃ち抜いてきた。そうしないと、自分の命が脅かされるのだから、仕方あるまい。
何の因果か、堂田はあの病気に感染せずにすんでいた。
もしも自分も獣のように成り果てるのであれば、すぐにでも自死を選んだところだが、こうなってしまうと、一体どこで自分自身に引導を渡せばいいのか、堂田には分からなかった。
堂田の乾いた笑いは、東京の地下に吸い込まれていった。
******
早朝、パリ。市内の共同住宅に住むケヴィン・ドミ(17)は、隣室からの叫び声を聞いて飛び起きた。
叫び声は母のものだった。
隣室からは、物が倒れる音や、床を慌しく鳴らす音がひっきりなしに聞こえてくる。
どうしたの。ケヴィンがそう尋ねようとしたとき、隣室との境の壁が激しく揺れ、続いて父の嗚咽が聞こえた。
ケヴィンは何が起こったのかを悟った。
強盗が入ったのだ。
心臓が早鐘を打つのを感じながら、音をたてないよう、静かにベッドサイドに置いてあるライトを手に取った。台座がずしりと重い。
隣室からは殴りあうような音が聞こえてくる。
ケヴィンは足音を立てないよう、ゆっくりと隣室の扉へ近づいた。
部屋の中をイメージする。扉を開けて、悪漢の後頭部へライトを振り下ろすのだ。
扉の向こうからは、床に何かを激しく叩きつける音がしてきている。
どのタイミングで踏み込むべきか逡巡したが、急がないと両親が危ないのだという焦りに駆られ、勢いよく扉を開けた。
ライトを振り上げる。
しかし、部屋の中には、2人分の人影しか存在しなかった。
ケヴィンはとっさに、扉の物陰に悪漢が隠れているのではないかと、身を硬くしながらそちらへ視線をむけたが、誰も隠れていることはなかった。
一瞬思考の空白に至ったケヴィンの耳が、この状況の中で不釣合いなものを聞いた。
実のところ目を覚ましたときから、ずっと聞こえていたのだが、両親の危機を感じて、ケヴィンが意識の外へ締め出していたものだった。
それは口笛だった。
血まみれの寝室で、口笛を吹いているのは、母だった。
母は、父の上に馬乗りになり、髪の毛を掴んで、何度も何度も、父の頭を床に叩きつけながら、口笛を吹いていた。
ケヴィンが気付いたときには、まだ抵抗しようと緩慢に動いていた父は、すぐに小さく痙攣して動かなくなった。
母はゆっくりと立ち上がり、こちらへ振り返った。
口笛は止まない。
母の手の指は、いくつかなくなっていた。
ふらついた足取りで、こちらへ近づいてくる。
ベッドの上に置かれた母のスマートフォンからも、母の口笛と同じメロディがしていることに、ケヴィンは気付いた。
ケヴィンはそっと扉を閉じた。
続いて、その扉が内側から激しく叩かれた。
破壊することもいとわない勢いで。
奇妙なメロディを、口笛で奏でながら。
ケヴィンはその場にへたりこみながら、母が吹いている口笛のメロディに聞き覚えがあることに思い至った。
ひときわ大きな音がして、母の腕が扉を破り、こちらへ伸びてきた。
そのメロディは、アニマ・ムンディのなかで、重篤なステータス異常である狂乱をもたらす、呪歌のメロディだった。
******
午後3時41分。浦部純は、小さなユニットバスの中で、浴槽にもたれながら、ゆっくりと水が溜まっていくのを、ただぼんやりと眺めていた。
蛇口から落ちる水が水面を打つ音が、狭い空間の中で異様に大きく響いている。
こうして、ひとつの音に支配されるように包まれていると、純はとても落ち着いた。
それはヘッドフォンをつけている時には感じられない、不思議な感覚だった。
身体に伝わる浴槽のわずかな振動と、飛び散る細かな水滴の冷たさが、この状況を強く演出していいるのだろうかと、純は分析した。
指先に水面が触れる。
長谷弘毅の「頼む」という声が、水面の向こうから聞こえてきたような気がした。
少しでも生き延びるための工夫をしようと水を溜めているのだが、しかし、たった1人、こんな小さなワンルームの中で、明日も明後日も、来週も再来週も、救いがないのなら死ぬまで永遠に、こうしていなければならないというのを想像すると、窓をあけて、全部終わりにしてしまいたい衝動に駆られる。
そもそも、どんなに頑張っても、自分はこの部屋の中でひと月程度しか閉じこもっていられないのだ。そんな短期間で、服の上からでも触っただけで病気に感染する砂、なんていうものの打開策が見つかるとは、到底思えない。
多少、死を先延ばしにしているに過ぎないのだ。
浴槽一杯に水が溜まり、純は蛇口を閉めた。
びしょびしょになった右腕をタオルで拭いて、パソコンの前に腰掛ける。
コップに注いだ、鉄臭い水道水を飲み下す。ミネラルウォーターを飲みたいところだが、あれは水道が止まったときのために、取っておかなくてはならない。
頑張れるところまで、頑張ろうとは思う。ただ、それがいつまで続くかは、自分でもわからない。
純はため息をつくと、気分を紛らわせるために、最近の仕事では殆ど使わなくなってしまった
画面には、趣味で作っている
細部が終わったら、細部の細部へ。細部の細部が終わったら、細部の細部の細部へ。もはや自分にしか絶対に分からない秘密のようなものを掘り込んでいく作業は、曼荼羅を描く行為にも似て、純の心の中から、あらゆる感情を取り払ってくれる。
作業をはじめてしばらくしたころ、遠くで不気味な地響きが鳴るのを聞いて、純の手は止まった。
音は徐々に大きくなっていく。
ついに建物自体が、小さく揺れ出した。机の上のコップが、カタカタと音を立てる。背後の棚で、フィギュアが倒れる音がした。
机の下に隠れるべきだろうか、と純が思った矢先、揺れと音は、ぱたりと止んだ。
大きな地震でなくてよかった。純はほっと胸をなでおろした。
倒れたフィギュアは一体だけだった。幸いそれも、とくに何処かが欠けてしまうようなことはなかった。
それは、以前に仕事で作成したゲームのキャラクターモデルを、こっそり3Dプリンターで出力したものだった。
純はゲームに興味がなかったので、もはやその仕事で携わったゲームの名前はさっぱり忘れてしまっていた。ただ、この女のキャラクターは、いくつもの異なる容姿のバージョンを、数ヶ月かけて作ったので、とても愛着があったのだ。手前味噌だが、とてもよく出来たとも思っている。
3Dプリンターで出力したのは、その女の、憤怒と呼ばれるバージョン――だったはずだ。
女は両手を頭にあて、掻き毟るように爪を立てている。
血と埃に汚れた金髪は波打つように逆立ち、瞳はこちらを強く睨みつけ、歯は砕けんばかりにかみ締められている。
クライアントから渡されたイメージボードと同じポーズをとらせているが、このモデルが実際のゲームでどのように使われたのかは謎である。
純はそのフィギュアを、元あった場所に置いた。髪の毛が逆立っているせいで、上部が重く、それがバランスの悪い原因なのだろう。倒れるときは、いつもコレである。何か対策をしようと思いながら、結局やれずじまいだった。
そういえば、このキャラクターはなんと言う名前だったか。
純はフィギュアケースの戸を閉めながら、記憶を探った。
しばらく考えて、ようやく思い出した。
デネッタ、という名だ。
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