026 2028年7月23日 古川理沙(逗子駅前④)

 まだ辛うじて割れていないガラス越しに、駅前ロータリーから空に向かって伸びるサンドワームを見上げながら、古川理沙は思った。

 やはり、ゲームが――アニマ・ムンディが現実になっているのだ、と。

 一体それが、どういう理屈で、どういう仕組みで、そうなったのかは分からないが、少なくとも渡河安曇とが あずみが言っていたような、ゲームの元ネタにあった出来事が、偶然組み合わさって事件になっているだけだ、なんていう理屈はもはや通用しない。


 なにせ、現実にはこんな生き物は存在しないのだ。

 こんな巨大な生き物が昔々から地球にいたのなら、とっくに発見されて、ゾウやクジラなどと同じような、実際にはみたことないけど知識として知っている動物の一種になっているはずなのだ。

 こんな馬鹿でかい、大きな地震まで起こす生き物が、よりにもよってこの狭い日本で、今日の今日まで秘密でいられたはずがないのだ。

 だからこれは、原理は不明だけれども、ゲームの中から現れたのだ。


 理沙はとても幸せだった。

 サル人間に襲われたときの恐怖や、家族がいまどうなっているのだろうといった不安は、一時的に意識の外に追いやられて、純粋に、涙が出そうなほど感動していた。

 目の前で脈動する、横幅はバス1台以上あり、高さは100メートルちかくもある、この圧倒的に巨大な非現実的な存在が――

 自分の慣れ親しんだ、人生を投げ打ってもいいと思えるくらいにのめりこんだゲームの中から現れた存在が――

 いまこうして、自分の目の前に、圧倒的な存在感を持って、圧倒的な力で出現しているという、事実そのものが、理沙を激しく高揚させた。

 

 何かが大きく変わったのだ。

 これからは、歴史の本に出てくるような古臭いルールは通用しなくなる。

 まったく新しい、現実を大きく変革させるルールがすべてを塗り替わって、自分たちは古いルールに縛られず、新しいルールの中で、新しい歴史を築いていくのだ。

 そんな漠然とした予感が理沙の中で拡がり、さらに気持ちを高揚させた。


 地面から顔を出したきり、サンドワームは動く気配がない。

 これがゲームの中なら、NPCに遺物を発見させるために遺跡へ誘導したり、物資の運搬を妨げるため街道を破壊させたりと、使い道がいろいろあるのだが、いまの理沙には、この巨大な生物に対して、どうやってアプローチを取ればいいのか、さっぱり分からなかった。

 サンドワームが絡む物語の分岐は、最終的に地殻変動を伴うような派手なものが多く、とにかく演出が派手だった。


 理沙の脳裏に、アリルゲダの町のひとつが、地中深くへ、ゆっくりと飲み込まれていく光景が蘇った。

 ゲームの中でも重要な土地、アリルゲダをめぐる激しい戦いは、いくつもの物語分岐が発生し、ゲームの勝敗に重大な影響を及ぼすことから、プレイヤー達からアリルゲダ決戦と呼ばれていた。

 数ヶ月前に、理沙がアリルゲダ決戦に参加した際に実行されたのがその、町を地中へ沈める、という作戦だった。敵対プレイヤー達に気付かれないように、複数のサンドワームや、サンドワームの親玉を懐柔し、一気に町の地盤を破壊するのだ。

 あれに成功したときは、たった一人のNPCのためだけに、随分と凝った演出を用意するものだと、友人たちと驚きあったものだった。


 たった一人のNPCのために用意された物語の分岐。


 


 ぼんやり考えていた理沙の眼前で、サンドワームはゆっくりとした速度で、出てきた穴へ下降をはじめた。

 おさまりかけていた砂埃が、再び巻き上がる。理沙は砂埃を吸い込まないよう口元を覆いながら、窓から数歩退いた。


 そういえば、助けを呼ぶ声に応じて出て行った2人は無事だろうか。

 サンドワームが飛び出してきた拍子に、怪我などしていないだろうか。

 そんな風に考えていると徐々に、今しがた起こった非現実的な出来事は、怪我なんていう話しではなく、もっと酷い結果を生む可能性が十分にあるのだという考えに至り、理沙は背筋が冷たくなった。


 まだ砂埃はもうもうと立ちこめていたが、理沙は窓へ近づくと、サンドワームによって遮られ見えなかったロータリーの向こうを見ようと目を細めた。

 しかし、いくら目を凝らしてみても、そちらの方で何かが動いているような気配は見当たらなかった。


 やはり何かあったのだ。

 理沙はごくりと唾を飲み込んだ。

 こうなってしまっては、助けにいけるのは自分だけだ。

 理沙は自分の脚を見下ろした。

 辺見に巻いてもらった包帯からは、血が滲んでいる。

 薬で抑えられているとはいえ、傷ぐちは鼓動にあわせてずきずきと痛んだ。そちらへ思い切り体重をかけることは、到底できない。


 どうしよう。

 砂埃は徐々に晴れていく。

 ロータリーの中央にぽっかりと開いた、巨大な穴がはっきりと見えた。


 その時、理沙の視界の片隅で、砂埃が奇妙に歪んだ気がした。

 そちらへ視線を向けるが、何もおかしなところは見当たらない。

 しかし再び、視界の隅で、砂埃が――景色が、わずかに膨張し、収縮するような動きをみせた。それは注意していなければ分からない程度にわずかな変化だったが、しかし明らかに、異常な動きだった。

 それはもう、このコンビニのすぐ近くに迫ってきていた。


 あれは何だろうか。分からないが、とにかく様子を見るためにも、隠れるべきじゃあないのか。

 そう考えた理沙は、窓から体を離し、棚の裏へ隠れようとした。しかし、怪我をした脚は思うように動かず、理沙はつまづいて、しりもちをついてしまった。

 店のすぐ外で、パキリ、と硝子が踏まれ割れる音がした。

 驚いて顔をあげると、景色のわずかな歪みが、自動扉を越えたのが分かった。

 理沙は、もうどうしていいのか分からず、息を飲んだ。


 目の前で、陽炎のように景色がゆらゆらと揺れたかと思うと突然、店内にいくつもの人影が現れた。

 一瞬、何が自分の前に出てきたのか分からなかった理沙だったが、すぐに現れた人影のうち2つが、渡河と辺見だということに気がついた。

 渡河が、「古川さん、大丈夫?」と言っている向こうで、マツモトキヨシに居た男が、居心地悪そうな顔をして、きょろきょろと店内を見回していた。


 人影はさらにもうひとつあった。

 それは金髪の女だった。

 女は現れたときからずっと、店の外に警戒するような視線を向けている。

 理沙は、その女をどこかで見たことがあるような気がした。

 そして同時に、その女が、とてもイライラして、腹をたてて、周囲にを撒き散らしていると感じた。

 なぜ背中を見ているだけで、そう感じるのかは、自分でも分からなかった。


「あのさ、いま私達って、どういう風に見えてたの?」

 辺見は床に腰をおろしながら言った。

 理沙は金髪の女のことが気にかかって、辺見に尋ねられたことにすぐ気がつかなかったが、もう一度辺見から質問されて、ようやく答えた。

「え、えっと、お店の中に急に出てきました。ちょっとだけ、なんだかボヤっとしたものがこっちに近づいてきてるかも? とは思いましたけど、ほとんど何も見えなかったのに、急に4人、パッと出てきました」

 理沙は答えながら、徐々に声が小さくなっていった。それは、入口に立つ金髪の女が発散させているに影響されたためで、それ以上あの女を、と思ってのことだった。


「あの女の人は?」

 理沙は小さな声で尋ねた。

 すると辺見は、女の方を一瞬見たあと、

「分からないけど、私達を助けてくれたの。なんかよく分からないけど、サル人間に見つからないようにする……、道具? みたいなのを持ってるみたい」

 と、答えた。

 見つからないようにする道具、というのが良く分からないが、おそらくいま、姿が急に現れた現象を引き起こした何かを、持っているということなのだろう。


「それでね、あの人がいれば、外をわりと安全に歩けるみたいだから、その怪我を診てもらいに病院に行こうと思うんだけど、どうかな」

 辺見は理沙の怪我へ視線を向けながら言った。

 理沙は、その提案を喜んで受けたかった。

 本当なら、行きましょう! と言って、すぐにでも仕度に取り掛かりたいところだった。

 しかし、いま店の入口でこちらに背中を向けている女から発散されているがあまりにも強く、そんな人物と一緒に行かねばならないということが、嫌でたまらなかった。

 金髪の女は、この状況に不満があるのではないか。

 ひとりで逃げたかったのに、場の流れで人助けしなければならず、自分が不味い状況に陥りそうになって、イライラしているのではないか。

 理沙は、そんな想像をしたが、しかし金髪の女から感じる怒りの気配は、そんなものよりもずっと強いものだった。

 威圧され、気圧され、隅で小さくなったまま、どうにか自分に矛先を向けられないまま、通り過ぎてはくれないか、と思いたくなるようなを、女はばら撒いている。


「その……、あの人、なんであんなに怒ってるんですか?」

 理沙は辺見へ顔を近づけると、ささやくような声で尋ねた。

「怒ってる? 誰が?」

 辺見は、理沙の言っていることがまったく分からないといった様子で、しかし理沙に合わせて小声で答えた。

「あの、入口の女の人」

 理沙は一瞬、女へ視線を向けた。

 瞬間、女が怒りに任せて壁を殴りつけ、怒鳴り散らし出すのではないか、という予感がしたが、そんなことは起こらなかった。


「え、あの人が怒ってる? ぜんぜん怒ってないと思うよ。めちゃくちゃ優しかったよ。病院まで一緒に行こうって提案してくれたのも、あの人だし」

 辺見は意外そうな顔をして言った。そして、渡河のズボンの裾を引っ張って呼び寄せると、「ねえ、あの女の人、怒ってる?」と、渡河へ聞いた。

 すると渡河もそんなことをまったく思ってもみなかったというような顔で、「えっ? そんなことないと思うけど」と答えた。


 2人は、あの尋常ではないを感じていない。

 そんなことがあるだろうか。

 もしもあんな気配を漂わせた人が、電車の同じ車両にいたら、間違いなく自分は別の車両に移動するだろうし、道を歩いていたら避けるだろう。引き返すかもしれない。

 ――いや、そんなものではない。

 あの金髪の女が発散し、振りまいている怒りは、理沙がこれまで見たことがない、自分の言葉に変換できないものだ。

 どうしたら、あんなに怒ることができるのだろう。

 どうしたら、背中だけであれほどの怒りをまき散らすことができるのだろう。

 いくら考えても答えはでなかったが、しかし、こうしている間にも、まき散らされていく怒りは強まっていく。息が苦しくなるほどに。

 あの強烈な、眩暈がするような、未知の激しい怒りを、2人は感じていないというのか。


 しかし結局、理沙の恐怖は2人に伝わらず、なによりも早く医者に怪我を診てもらうべきだろう、ということで、金髪の女の力を借りて、病院へ向かうことになった。

 店のカウンターに置かれていた近隣施設の地図を頼りに、しらみつぶしに医者がいる病院を探そう、という方針になった。


「準備はいいのか」

 ずっと外を警戒していた金髪の女が、この時はじめて、店内に視線を向けた。

 理沙は、女の顔を見た。

 理沙は、女が何者であるのかを知った。


 女が、ゾンビパウダーや不老の異邦人、サンドワームなどと同じ、非現実の存在であることを知った。


 デネッタ・アロック。


 神を呪う宿命を与えられた女。


 崩れ行く町を見下ろしながら、

 業火に焼かれる友人の手を握りながら、

 串刺しにされた家族へ必死に呼びかけながら、


 神を呪う言葉を呟く彼女を、理沙は見てきた。

 あらゆる物語の分岐の中で。


 それが、ゲームに勝利するのに、もっとも効率がよかったから。

 それが、優れた報酬を得るために必要なプロセスだったから。

 

 

 理沙は我に返りながら、すぐにその理由に思い至った。

 簡単なことだった。

 デネッタが怒っているからだ。

 死よりも酷い仕打ちを与えた人間を、理沙を、恨んでいるからだ。

 さきほどからずっと感じていた、正体不明の怒りの正体が、はっきりと理解できると同時に、激しい恐怖が襲ってきた。


「おれは、おれはここに残る」

 理沙の背後で、不意にマツモトキヨシにいた男が、吐き捨てるように言った。

 振り返ると、男は体をぶるぶると震わせ、誰とも目を合わせないようにしながら、何度も何度も、おれは行かない、おれは残る、と繰り返す。

 理沙は直観で、この男も自分と同じように、デネッタに恐怖を感じているのだということが分かった。

 辺見は、とくにそれを止めることもなく、「そうですか」といってうなずいた。


 デネッタがこめかみに手を当て、小さな声で何かを呟いた。

 周囲を陽炎のようなものが包みこんでいく。

 これは、だ。

 そうか、さっき皆が店にやってくるまで姿が見えなかったのは、それのせいだったのか。たしかに、それを用いれば、サル人間に見つからずに外を歩くことができる。


 しかし、この激しい怒りを身に受けながら、デネッタとともに行動する気にはなれなかった。

「それじゃあ、私からあまり離れるな」

 デネッタは、そう言って外へ出ていく。


「あの……」

 理沙は意を決して、自分もいかないと、そう言おうとした。

 しかし、理沙の小さな声に気が付かなかったらしい渡河が、理沙に肩を貸そうと腕をとった。

「それじゃあ古川さん、行こう」

 渡河はそういうと、歩き出そうとする。


 本当に、渡河はデネッタになにも感じていないのか。そんなことってありえるのか。渡河だって、あのゲームをやっていたはずなのに。

 しかし、その問いは、恐怖に震える口から出てこなかった。

 それに、デネッタにその問いをしているということを知られることが何より恐ろしくて、結局理沙は口をつぐんだ。

 理沙は渡河に引っ張られ、一歩一歩、進んでいく。

 渡河や辺見が、何も感じていないのなら、きっと自分が感じているこの恐怖は、自分の勘違いなのだ。


 理沙は眼をつむって、ただただ早く、病院に着いてくれと思いながら、渡河の歩みに合わせて足を動かした。

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