025 2028年7月23日 渡河安曇(逗子駅前③)

「私、ちょっと見てくる。助けられそうなら助けるし、無理そうなら戻ってくるから、2人ともそこで待ってて」

 渡河安曇とが あずみは、思いがけないその言葉に、驚いて振り返った。

 声の主――辺見という名札をつけた店員の女性は、自動扉を手で開けて、外へ出て行こうとした。


「え、いや、ちょっと危なくないですか、危ないですよ」

 古川理沙が、慌てて止めた。

「うん、まあ、危ないけど――でも、すぐそこでしょ? そこの広場は見通しもそれなりにあるし、サル人間が来そうだったら、すぐ逃げてくるから、大丈夫だよ」

 辺見は、駅前のロータリーへ視線を向けて言った。


「でも、でも――」

 理沙は、何かを言いかけて口をつぐんだ。

 安曇には、理沙が何をいいたいのか理解できた。あの叫んでいる人は、自分たちを、もしかしたら死んでいたかもしれないような状況の自分たちを助けてくれなかった相手の可能性がとても高いのだ。

 安曇の脳裏に、足から血を流し、痛みで涙を流す理沙に肩を貸しながら、どうにか辿りついたあのショウウィンドウの前で、向こう側から腕を交差してバツ印を作られたときの絶望が蘇ってきた。

 もしこのローソンがみつからなかったら、自分たちはどうなっていたのだろうか。


「うん、まあ、分かるよ。ムカつくよね。私もさ、怪我してる子がいるのに、どうして助けてあげなかったんだろう、酷いなあ。って思うよ」

 辺見は、額に浮かんだ汗を拭った。そして、なにか言葉を探すように、「あー……」と、しばらく考え込んだあと、すばやく、

「だから、2人はそこにいていいから」

 といって、叫び声のするほうへ向かって歩き出した。


 辺見は振り返ることなく、その背中は遠ざかろうとしていく。

 襲ってくるかもしれない相手は、野生の動物と変わらず、なんの躊躇もなく、こちらに牙をつきたててくるのだ。

 理沙の脚にかじりついたサル人間の後頭部と、飛び散る鮮血と、理沙の絶叫が、フラッシュバックする。

 

 安曇の足に、あの時思い切り踏み抜いた、サル人間の頭の感触が蘇った。

 何かが折れる感覚。

 あれは人間じゃない。

 だからしょうがないのだ。


 安曇は首を振った。

 違う。

 安曇は自分の脚を見下ろした。

 そうだ、自分はサル人間を撃退できたんじゃないか。

 少なくともリアルに、自分は人を1人、助けられたのだ。

 そうだ。

「――ごめん、古川さん。ちょっと待ってて」

 安曇はそう言って、外へ飛び出した。

 叫んでいる男はともかく、辺見が危険な目にあわないように、助ける必要はあるんじゃないのか。

 

 安曇が駆け寄っていくと、辺見は驚いた顔をしながら振り返った。

「僕も行きます。何があるか分からないから、2人のほうが良いと思います」

 すると、辺見は微笑みながら、「ありがとう」と応じた。

「やっぱり、こうやって建物から出て歩いてると、怖いよね。いままでずっと、中に居たから、なおさら」

 辺見の言葉に、安曇は頷いた。

 清水翔子の家を出るときよりも、遥かにいま外に足を踏み出すことのほうが恐ろしかったし、いまだに、辺見が『やっぱり戻ろう』と言い出してくれはしないかと思っていた。


 正面の街路樹の向こうには、しっかりとマツモトキヨシのオレンジ色の看板が見えている。もうそれほどでもない距離である。

「おーい! 誰か! 挟まって動けないんだ! 助けてくれ!」

 叫び声は、間違いなくそこからしている。

 地面はいたるところでひび割れ、アスファルトに段差ができていた。


 バス停の屋根と街路樹を過ぎると、薄暗いマツモトキヨシの店内がよく見えた。

 早足だった安曇と辺見の足取りが止まった。

 安曇は自然と自分の足元に視線が行く。

 何かを考えるよりも先に、という不安が強く襲ってきたからだ。


 そこには、大きな穴が口を開けていた。

「誰か! 誰かいないか! 助けてくれ!」

 声は穴の中からしている。

「今助けるから、もう叫ばないで! あいつらが来ちゃうから!」

 辺見が、口に手をあてて、穴の中へ叫び返した。


 穴の深さは身長の倍ほどあり、店の入口のすこし手前から、店内の奥に向かって開いていた。

 大きなアリ地獄のような窪地に似た形状をしている。鉄製のシャッターは足元が失われ宙ぶらりんになっており、穴の上で風でゆらゆら揺れていた。


 安曇は恐る恐る穴の淵へ近づいた。ただ、足を乗せた地面が、いつ崩れはじめるか分からないので、あまりギリギリまで近寄る気にはなれなかった。

 穴の中には、そこら中に商品と棚と床のタイルが散らばり、さながらゴミの埋め立て場のようである。その丁度中央あたりに、男がひとり、倒れていた。男の胸の上には、覆いかぶさるように、商品棚が乗っていた。


 男の目が安曇とあった。

 男は安堵の表情を浮かべたあと、すぐに安曇が数時間前に追い払った相手だと気付いた様子で、気まずそうに目をそらした。

 安曇は一瞬、男の態度に苛立ちを感じたが、すぐにそんな事をぐだぐだ考えている場合ではないと、男をどうやって上へ引き上げるのか考えた。


「ねえ、ちょっとあなた、それ自分で頑張って出られないの?」

 一緒になって覗き込んでいた辺見が、男へ言った。

 確かに、男の上の棚は空だし、少し頑張れば自力でどうにかなりそうにも見えた。ただ、両腕とも既に棚の下に入り込んでいて、おそらく力むことが出来ないのではないかと安曇は思った。

「無理だ! これ案外重いんだ!」

 男が答えると、辺見は「まあ、そうだよね」と呟いて、後頭部を掻いた。


 安曇と辺見は、穴の淵から少し距離を取った。

 辺見は、うーんと唸りながら、穴の方を見ている。

 あの男を救出する最も手っ取り早い方法は、穴の中におりていって、テコなりで棚を持ち上げる方法である。ただ、穴の中にいる最中に次の揺れが来た場合、逃げ場がない。次の揺れで、地盤が不安定になった建物が、穴に向かって崩れてこないとも限らない。

 それで、それじゃあ、何かそれ以外になにか良い方法があるのかといえば、まったく思い浮かばなかった。


 安曇は意を決して、穴に近づいた。

「下におりて、直接棚を持ち上げられないか、やってみます」

 安曇は穴の中に足をおろしながら言った。

 すると、辺見も近づいてきて、穴に降りようとしたので、安曇はそれを制した。

「何かあったときに、他に助けを呼んでもらわなきゃいけなくなるかもしれないので、とりあえず辺見さんは上に居てください。2人じゃないと持ち上がらなさそうだったら、その時お願いします」

「最初に助けに行くって言ったのは私だし、私が行くよ」と、辺見。

「いや、こういうのは男が行ったほうがいいですよね。それに、僕のほうが若者だし」

 その発言に、辺見は一瞬表情を硬化させたが、すぐに、渋々といった調子で上へ戻って行った。


 ゆっくりと、斜面を底にむかって降りていく。途中、安曇が踏みつけたシャンプーの詰め替えパックが、弾けるような軽い音を立てて破けた。

 底にたどり着いた安曇は、首を上へ向けた。辺見が心配そうにこちらを見下ろしていたるのが見えた。

 下敷きになっている男は、相変わらず気まずそうな顔をしながら、安曇に向けて、「ありがとう」と言って首を動かした。おそらく頭を下げる仕草だったのだろう。

 安曇はそれに、なんと返していいか分からなかったので、無言で棚に手をかけた。

 腰を落とし、腕に力を込める。


 一瞬、棚は自分の力なんかでは微動だにせず、結局辺見に助けを求めなければならないのではないか、という予感が脳裏をよぎった。

 しかし次の瞬間、棚はわずかに動く気配を見せた。

 安曇はそのまま、両足で踏ん張って、さらに腕に力をこめた。

 すると棚が十センチほど持ち上がった。

 隣で、男がもぞもぞと動くのが見えた。男が体を揺らすたびに、安曇の腕に負荷がかかる。安曇は目を瞑り、足を踏ん張り腕に力を込めることにだけ、意識を集中させる。


 やがて、男が「もう大丈夫。ありがとう」というのが聞こえ、安曇は目を開けた。

 男は棚の下から抜け出していた。男はわき腹を押えながら、もう一度、「本当にありがとう」と、気恥ずかしそうに言った。

 安曇は腕の力を抜いて、棚を地面に戻した。

「上に行きましょう。また揺れるかもしれない」

 安曇は男と視線を合わせることなくそういうと、今さっき降りてきたばかりの斜面をのぼりはじめた。

 それを見ていた辺見が、一瞬背後に視線を向けて、

「まだ遠いけど、あっちの方にあいつらが1人、来てるから気をつけて」

 と、小さな声で言った。

 

 安曇が再び上へもどると、確かに辺見が行ったとおり、少し離れた交差点の向こうを、素早くいったりきたりしているサル人間の姿が見えた。

 男はわき腹を怪我しているらしく、しきりに痛みに呻きながら、若干時間をかけて上へ上がってきた。

「このくらい離れてれば大丈夫だよね」辺見はサル人間の方を見ながら言った。「さっさと戻っちゃおう」

 安曇は頷いて、男に自分たちはこれからローソンへ戻るのだとうことを告げようと、振り返った。


 不意に安曇は、ごく近い場所から何かに強く見られているような感覚を覚えた。

 辺りを見回すが、自分たちのほかに、交差点の先にいるサル人間がいるくらいで、こちらを見ている存在がいるようには思えなかった。

 ただ、どうにもその視線のようなものが、こちらへ――いや、具体的にはこの辺りに、強い意識を向けているように感じられた。その感覚は消えることがなく、逆に徐々に強くなっていく。

 それは、あまりよくないものであるように思えた。

 そういえば、理沙がサル人間に襲われたときも、似たようなものを感じたのではなかったか。

 ただ、あの時感じたのは、今と比べるとかなり小さなものだったが。


「どうしたの」

 辺見が、安曇の様子をみて怪訝な顔で言った。

「いやあ、何かに見られているような――」

 瞬間、安曇の身体が、宙に跳ね上げられた。

 それは、ほんのわずかな高さだったが、安曇はバランスを失って、その場にしりもちをついた。


 周囲をあっという間に砂煙が覆い尽くす。

 その砂煙の中に、巨大な壁のような物体が現れるのを、安曇は見た。

 目の前でトンネルでも掘っているのかというような、激しい掘削音がして、安曇は思わず耳を塞ぐ。

 ほんの数メートル先に出現した壁のようなものは、どんどん上へ向かって伸びて行き、安曇を影で覆った。


 身体を縮め、耳を塞ぎ、目を細め、ただ揺れるに身を任せることしか出来ない。

 いつのまにか安曇は恐怖で涙を流していた。

 次の瞬間に自分の命が無造作に失われそうな気配が、周囲に充満しすぎている。

 安曇は何か自分でもよくわからない叫び声をあげて、とにかくこの状況が早く去ってくれることを祈った。


 気付くと、壁の上昇も、揺れも、音も、すべてが止まっていた。

 誰かが咳き込んでいるのが聞こえた。

 安曇は口の中がジャリジャリしているのが不快だったので、唾を吐いた。

 やがて砂煙がおさまりだすと、眼前に出現した壁が、とても異質なものであることがわかった。


 それは、表面がまるで像の肌のように、乾いた生物的な質感をしている。

 そして、わずかにだが、脈動していた。

 そのまま視線を上へ向けていくと、壁の末端部分で、大木ほどの太さのあるロープが、数本ゆらゆらと揺れているのが見えた。


 それは、意外にも、安曇に見覚えのあるものだった。

 自分は一体何をみているのだろうか。

 安曇はぼんやりと考えた。

 ついさっきまで感じていた恐怖が、今はもう頭の片隅に押しやられていた。

 頭の中を渦巻いているのは、たった一つの疑問。

 なぜ、

 なんで――


 どうして現実に、サンドワーム大ミミズがいるのだ。


「ちょっと、なによこれ」

 すぐ横でうずくまっていた辺見が、怯えた声をあげた。全身砂埃にまみれ、顔は涙と砂でぐしゃぐしゃになっている。

「う、う、うそだろ」

 男が上ずった声で言った。


 安曇の背後で、何かがどさりと地面に落ちる音がした。

 振り返ると、マツモトキヨシのとなりの建物の前で、スーツを着た男のサル人間が一匹、身体を上下させながらこちらを見ていた。


 安曇はそのサル人間の目を、真正面から捉えてしまった。

 間違いなく、目があった。

 全身が波のように粟立ち、呼吸が荒くなる。


 まずい。


 まずいまずいまずい。


 安曇は立ち上がろうとするが、腰が抜けて力が入らない。つま先が、かかとが、地面を滑る。


 安曇の様子に気付いた辺見が、振り返って息を飲むのが分かった。


 ぺたぺた、と音をたてながら、サル人間は両手両足を使って、一気に安曇に駆け寄ってくる。


 立ち上がれない。


 立ち上がれない!!!


 息が抜ける嗚咽が、安曇の口から漏れる。


 短く刈りあげた顔の下、張り付いたように見開いた瞳で、こちらを捉えたまま、まるでもともとそういう動物であったかのように、ごく自然な動きで、片方だけになった革靴で地面を蹴り、跳びあがり、口を開け、首を奇妙な方向に曲げ、砕けた歯をいくつか飛び散らせながら、真横に向かって勢いよく吹き飛んだ。


 周囲の空気が陽炎のように歪む。

 ぼんやりと、陽炎の中から人影が現れた。

 人影は、手に持った鉄パイプをフルスイングした格好で現れ、大きく息を吐いて、それをおろした。


 吹き飛んだサル人間は、痙攣するように動いているが、再び襲ってくる気配はない。


 外国人だ、と思った。

 金色の髪に、ジーンズをはいた、大柄の女性の外国人だ。

「全員、動くな。こいつはまだ、誰の気配にも気がついていない。いまならまだ、逃げられる」

 女はそう言うと、地面から突き出た巨大な物体――サンドワームのようなものに向かって数歩近づいた。

「いまこいつの意識を逸らす」


 女はこめかみに手をあてると、短くなにかを呟いた。

 すると安曇は、自身とその周囲が、何か目に見えない存在に包まれるのを感じた。

 そうして女は振り返った。


 その時はじめて、安曇は女の顔を見た。

 顔の半分が包帯に覆われ、腕のも包帯が巻かれ、何か大きなけがをしている様子だった。


「もう大丈夫だ。とりあえず、ここを離れたほうがいい」

 女はそう言って、倒れたままの辺見に手を伸ばした。

 辺見は、その包帯の巻かれた手を恐る恐る取って、立ち上がった。


 安曇は、その女が何者であるのか、知っていた。

 しかし同時に、そんなはずがない、間違っている、とも思った。


 彼女が、デネッタ・アロックが、現実に存在するはずがないのだ。

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