030 2028年7月23日 渡河安曇
薄暗がりの中、無人のファミリーマートに侵入した
高速道路上を歩き続け、横浜横須賀道路、横浜新道と進み、保土ヶ谷で第三京浜に進もうというところまでやってきた。足はパンパンだったが、それでも明日には間違いなく自宅に到着できるだろう。
恐らく両親は自宅に篭っているに違いない。そうではなく、別の場所に避難している場合でも、きっと書置きをしてくれているはずだ。
包帯の女は床に腰をおろし、店内の棚からミネラルウォーターを取って、それを飲んでいる。安曇はまだ、彼女が名前はおろか、何者であるのかも聞いていなかった。そもそも、彼女自身があまり喋らないから、ということもあるのだが。
それ以外に、同行者はいない。たった2人で、ここまで歩いてきた。
逗子駅のそばで、どうにか医師の残っている病院を見つけることができた。
幸い、理沙の怪我はそれほど重いものではなかったので、痛み止めと念のための抗生剤を飲みながらであれば、そのままでも問題はないだろう、ということだった。
しかし、理沙はしばらく病院で休むと言い出した。
直接理由を口にはしなかったが、それまでの理沙の行動で、大体予想はついた。駅前で出会った、包帯の女が恐ろしくてたまらず、一緒に行くことを拒んでいるのだ。
包帯の女は、自分ならば外をうろついている危険な存在に気付かれずに外を歩くことが出来るし、自宅へ帰るまでの間ならば、一緒に行くこともやぶさかではないと提案してくれていた。
その提案は、安曇にとってとても心強いものだった。
朝、清水翔子の家から出たときは、たった数百メートル移動する間に、襲われてしまったのに、この包帯の女と行動をともにしてからは、サル化した人間に至近距離まで近づいても、まったく襲われる気配がないのだ。包帯の女と一緒であれば、東京まで戻るのも容易だろう。多少のことは我慢してでも、ここは一緒に行くべきである。
しかし、いくら安曇の考えを伝えても、理沙は一緒に行くとは言わなかった。
「渡河くんの言っていることは、よくわかる。わかるけど、私は無理。っていうか、渡河くんの方こそ、あの人からなにも感じないの? 本当に?」
理沙があの人と呼ぶ包帯の女は今、待合室の椅子に腰掛けて、壁に貼られたポスターを眺めている。
「僕はなにも……」
安曇はそう答えることしかできない。
一体理沙が何を感じ怯えているのか、安曇にはまったく分からなかった。ただ普通に座っているだけの人間を、直視することも出来ないほどに恐れるという感覚が、安曇には理解しがたい感覚だった。
「それなら、一緒に行ったほうがいいよ。私を気にして、あとで危ない目に会うこともないでしょ。――それに、渡河くんが行くって言えば、あの人もここから居なくなってくれるんでしょ? もう私、これ以上恐ろしいことに耐えられそうもないの」
理沙はそう言って、体を縮めた。
結局、理沙は病院に置いていくことになった。
辺見は自宅が近いこともあって、もうしばらく、理沙に付き添うと言った。そもそも、自宅に戻るよりも、病院の方が安全かもしれない、とも付け加えた。
外は完全な闇に包まれた。
店内は煌々とした白い光によって、隅までくまなく照らされている。
安曇はカップラーメンをふたつ持ってきて、それにお湯を注ぐと、ひとつを包帯の女に渡した。使い捨てのフォークと一緒に。
「これは?」
包帯の女は、渡されたカップラーメンを不思議そうに眺めている。
「ええっと、スープパスタ的な……? ものかな……」
安曇は、あのゲームの中に一体どんな食べ物があったのか思い出しながら答えた。そうして答えたあと、わざわざそんなことを考えている自分は、つまり目の前の相手が、ゲームの中から現れたデネッタ・アロックだと、完全に理解しているのだということに思い至って、苦笑した。
すべての出来事が、ゲームの中から現実に現れたのだと認めさえしなければ、いつかは元に戻るんじゃないかと、そんな風に考えていたものだったが、自分ひとりがそんな風に頑張ったところで、何一つとして変わりはしないのだ。そんなこと、分かりきっていることではないか。
そう思ってから、安曇は思い切って言った。
「いまさらですけど、その、自己紹介をしていなかったな、って思って……」安曇は自分を指さした。「僕は、渡河安曇。東京に住んでて……、それだけです」
女は、カップラーメンに注がれていた視線を、安曇へ向けた。
「ああ――、私はデネッタ・アロックだ。生まれはアリルゲダの、レッドリバー」
デネッタの口から出た答えは、安曇の想像を裏切らない、思った通りの答えだった。分かりきった答え合わせをするためだけに、聞いただけなのだ。
そんな風に考えていると、デネッタはさらに言った。
「――だけど、そんな町、この世界にはないんだな。ここは、私の暮らしていた、星王の守護のある、みんなのいるアリルゲダのある世界じゃなんだ」
そう、あなたはゲームの中の登場人物なのです。
安曇は心の中で、そう答えた。
しかし、口からそれを発することは、はばかられた。
彼女がゲームの中の登場人物であり、さらにはこの世界の人間によって考えられた存在なのだと告げることは、彼女の世界はこの世界の人間の娯楽のためだけに作られた世界だと教える行為に繋がるのだ。
そしてデネッタがいま居る世界は、彼女の世界を荒らし、破滅させることを喜んでやっていた人間たちが住む 彼女からしたら、悪魔が住む世界なのだ。
そんな事実を、自分の口から言いたくはなかった。
「わけがわからないよな。すまない」
小さく笑いながらデネッタが言った。そういわれて、安曇は自分が何も答えずに黙ったままだったことに気付いた。
「その、ここが自分の住む世界じゃないだなんて、どうして思ったんですか?」
安曇は、デネッタが一体どうしてそれに気がついたのか気になったので、尋ねた。
「アズミたちに出会う前に入った書店に、地図があったんだ。この世界の、世界地図が」
「なるほど。そこに、――あなたの住んでいた国の名前が、無かったんですね」
安曇は、デネッタ、と口に出すのが気恥ずかしくて一瞬口ごもった。
「名前どころか、大陸の形もなかった」
言われてみればその通りだ。国の名前どうこう以前に、世界地図で描かれている世界の形がまったく違うのだから、ひと目でおかしいと分かるだろう。
安曇は、うっかりゲームの中だとか、現実には存在しない地名なのだとか、そういうことを口走ってしまわないように、暗に伝えてしまわないように注意しながら、デネッタにかける言葉を探した。
そうして言葉に詰まっている姿を、デネッタは奇異なことを言われて返答に迷っていると取っているらしく、またフッと笑った。
「急にそんなこと言われても困るよな」
別に困ってもいるわけでもないのだが、あまりこのことについて喋りたくなかったので、安曇は黙ったままでいた。
そもそも、すでにデネッタが何の気なしに使っている知覚遮断自体が、彼女が別世界の人間であることを証明する最たる証拠であり、たとえアニマ・ムンディを知らなくとも、誰だって彼女がこの世界の人間ではないと首肯することだろう。
ため息をついて、デネッタはカップラーメンをすすった。
「すこし塩辛いけど、おいしいな、これ」
そういって、デネッタはミネラルウォーターを口にする。
一緒になってカップラーメンをすすりながら、安曇はコーラを飲んだ。
非現実の存在だった人物と一緒になってこうしてカップラーメンをすするというのは、とても妙な心地がするものだな、と安曇は思った。
「しかし、これとコーヒーをよく一緒に飲めるな」
デネッタは安曇の持っているペットボトルを怪訝な顔で見た。
「これは、コーヒーじゃなくて、コーラですよ」
そう答えつつ、どっちにしても、カップラーメンとの食べ合わせ問題的には、この組み合わせもそれなりに問題がありそうだな、と思った。
そういえば、アニマ・ムンディの世界には、コーラのような炭酸飲料はなかったが、こういう飲み物を飲んだら、彼女はどう思うのだろうか。
安曇の中に、そんな興味がわいてきて、棚から1本、コーラを取り出してデネッタに手渡した。
「合うかどうかは人によりますけど、僕は好きです」
デネッタはカップラーメンを床に置くと、ペットボトルの蓋を開けた。
プシュ、と音を立てて、ペットボトルの中に気泡が立った。デネッタはそれを不審な目で眺めながら、安曇の手に持っている、既に中身の減ったボトルとを見比べてから、意を決した様子で、口をつけた。
すぐに、目が大きく見開かれた。
「なんだこれは。中毒を起こしそうなほど甘いな」
そう言ってから、もう一口飲んだ。
「エールみたいに泡があるのに、酒じゃあないんだな」
そうして、またもう一口飲んだ。
デネッタはしげしげとコーラのボトルを眺めたあと、蓋を閉めて、何か恐ろしいものを遠ざけるように少し離れた場所に置いた。
「いや、しかしこれは、合わないな。塩辛かったり、甘すぎたり、両極端すぎる」
「まあ、そうですよね」
安曇は多少残念な気持ちになりながら言った。
食事を終えるとすぐ、デネッタは壁に背をつけて眠ってしまった。
一切口には出さなかったが、相当に疲れているはずだ。こんな見ず知らずの土地で、訳のわからないものに囲まれて、見知った人は一人も居ないのだ。
もし自分が同じ状況だったなら、どうなっていただろうか。想像しようとしてみたが、何も思い浮かばなかった。自分自身も、かなり疲れているのだろう。デネッタほどではないにしても、ゾンビやサンドワームに囲まれて、自分も訳のわからない世界に放り込まれたのだと言えなくも無い状況なのだ。
いくらかでも、元の現実に近づきたいと、安曇は思った。
明日になれば、そうなれるはずだ。
いつのまにか、安曇は眠りにおちていた。
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