029 2028年7月23日 渡河上総

 ネパール、ポカラのドミトリーの一室で、渡河上総とが かずさ(23)は染みだらけベッドに寝転がりながら、大きなため息をついた。


 ユーラシア大陸を横断するのだと勢い込んで日本を飛び出してはや3ヵ月、ようやく身一つの生活にも慣れてきたと思った矢先にこれである。

 この旅行のためだけにわざわざ用意したスマートフォンを、置き引きにあってしまったのだ。


 ユニリングは通信サイズが大きいため、ネットワークの行き届いていない場所だと色々と不便だという話を先輩から聞かされていた。だから、ユニリングを一旦解約して、安価なスマートフォンを購入したのだが、それをうっかりテーブルに置きっぱなしにしたままトイレに行っていたら、盗られてしまったのだ。

 安価だろうがなんだろうが、決して安いモノではないし、中に入っているデータはオンリーワンだ。この3ヶ月の間に撮影した写真のすべてが、あの中に入っている。

 写真を撮ることが目的じゃないから、などと格好つけてカメラを持たずに旅に出たが、結局自分は見慣れないものや珍しいもの、綺麗なものや不思議なものを見かけるたびに写真を撮りたくなる性分らしく、スマートフォンで撮影した写真の数はかなりの量になっていた。帰国したら、弟の安曇や友人に見せてやろうと思っていたのに。

 一応、警察へは盗難届けを出してはいたが、見つかる見込みは薄いだろうといわれていた。万が一、見つかることがあったら、滞在しているドミトリーへ連絡してくれるようお願いしているのだが。


 部屋に他に客はおらず、上総のまわりには無人の寝床が5つならんでいる。このドミトリーへやってきたときは、ドイツ人の男子学生2人組みが先客として居たのだが、彼らは2日前にカトマンズへ向けて旅立っていってしまっていた。

 部屋の中には愚痴る相手もおらず自分だけ、というこの状況が、上総の気分をさらに暗くさせた。

 部屋の入口にかけられた時計を見ると、昼を過ぎて2時になろうとしていた。

「飯でも食うか……」

 

 上総はサンダルにスウェットという格好で、滞在しているドミトリーの4軒隣にある食堂へとやってきた。ポカラにやってきて1週間ほど経つが、ほとんどの食事をこの食堂でとっていた。一昨日の昼も、ここで食事をしていれば、あんなことにはならなかったかもしれない、と再び後悔が脳裏によぎる。


「カズサ、スマホは見つかった?」

 店に入るとすぐ、店の女将が訪ねてきた。

 上総は首を横に振る。

「見つからない。もうバラバラにされてそう」

 上総の言葉は、首にかけている自動同時翻訳機を通してネパール語に翻訳され、翻訳機のスピーカーからアウトプットされる。女将が発したネパール語は日本語訳され、上総が左耳につけているイヤホンから聞こえてきていた。

 この自動同時翻訳機はアウトプットする声質がまだ最適化十分とは言いがたい一世代前のものだったが、先輩が譲ってくれたので、ありがたくそのまま使わせてもらっていた。

 スマートフォンも、この翻訳機と同じようにウェアラブルだったなら、盗まれることもなかったのに、と、あの古臭い端末のことを呪う上総であった。


 上総が魚のカレーを注文すると、女将はキッチンへ引っ込んでいった。

 入口に近いテーブルに腰掛ける。

 テーブルはかなり年季の入ったプラスチック製のもので、上には分厚く透明のビニールがかけられている。ついさっき拭いたばかり、というような湿り気を帯びていて、うっすら生乾きの雑巾のような臭いがしている。

 昼食時を少しすぎていることもあり、店の中には上総のほかに1人しか客がいない。

 店の周囲には広域Wifiが来ているので、普段であれば注文したものがやってくるまで、ネットをして時間を潰すのだが、当然、今日はそれができない。かといって、偶然店に居合わせただけの客と雑談するほど、コミュニケーションが得意なわけでもない。

 しかたなく、上総は外の景色を眺めて待つことにした。

 外とはいっても、別段綺麗、な景色が見えるというわけではなく、ただ向いのペンキが剥がれた建物と舗装のくたびれた路地が見えているだけである。水はけがあまりよくないらしく、3日前に降った雨でできた水溜りが、まだ残っている。


 そんな店のすぐ外側で、子供達が大声でわいわいと騒いでいるのが聞こえた。

 一体どんな会話をしているのだろう、と試しに翻訳機を向けてみるが、案の定、何人もが同時にああだこうだと喋っている状況では、旧世代の翻訳機はわずかな単語を拾うばかりで、具体的に何を言っているのか分からなかった。

 ただ、拾った単語の中にひとつ、トリスナ、という見知った少女の名があったので、上総は窓から顔を出して、喋っている子供達の姿を探した。

 果たして、トリスナが3人の同世代の子供に罵られている光景が目に入った。


 トリスナは、滞在しているドミトリーの隣の家に住んでいる今年10歳になった少女で、上総がこの町にやってきた最初の日も、同じように他の子供に絡まれていた。どうやら、彼女自身の言動がその状況を呼び寄せているらしく、そのあとも、たった1週間の間に何度か似たような光景を目にしていた。

 上総はいつものように、彼らへ呼びかけた。

「おーい、どうしたの」

 すると絡んでいた子供たちは、またよくわからない外国人がしゃしゃり出てきた、というような顔をして散っていった。

 上総はしゃがみこんでいたトリスナに手招きした。


「今日はどうしたの」

 向かいの席に腰掛けたトリスナに、上総はたずねた。

 トリスナは絵に描いたような据わった目をしていて、ほとんど表情を変えることがない。そんな仮面じみた顔をわずかに傾けて答えた。

「どうせまた、私が気に入らない答えを返すだけなんだから、私達は会話をしないほうがいいんじゃないのか、って言ったの」

 トリスナはそれだけ言って、視線を外へ向けた。

「それなのにまた、ああやっていじめられたの?」

「それで終わらなくて、また私が余計なことを言っちゃったの」トリスナはそう言って、とてもつまらなそうにため息をついた。「黙っていても、本当のことをいっても、嘘をついても同じようになるのなら、本当のことを言ったほうがいいと思ったのよ。それが一番正気でしょう?」

 トリスナは外を眺めたまま言った。


 とても10歳の少女が言ったとは思えない発言に、上総は舌を巻いた。

 上総が耳にしているトリスナの言葉は、翻訳機が日本語訳した言葉であり、実際に100パーセントそのままのことを彼女が言ったわけではない。しかし、それは若干の言い回しや語調が違うというだけのことで、意味は変わらない。


「そうだね、嘘をつくのは良くないし、黙っているのも失礼だし、本当のことを言うのが、一番いいのかもしれないね。ただ――うーん、難しいね。何か丁度バランスのいい言葉が、もしかしたらあるかもしれないけど、それじゃあ本当に、相手のご機嫌とりをするだけになっちゃうしね」

 上総は答えになっているのか、なっていないのか、よくわからない、ぼんやりしたことを言った。


「どっちにしたって、私をバカにしたいだけなのよ。私がどういう人格であるかは、彼らの中ではもう決まっていて、友達同士で共通の笑いの種として、私を見ているだけの。頭がイカレたヤツだってね」

 女将がやってきて、上総の前に魚のカレーを置いた。

 上総はトリスナにも何か頼むか尋ねたが、要らない、と首を振られた。

 女将は何も言わず、怪訝な視線だけをトリスナに投げかけながら、見えないところに引っ込んだ。


「ちなみに、本当のことって、何を言ったの」

 上総は質問の中に、興味の気配を悟られないよう、カレーを口に運びながら何気なく言ってみた。

 ――が、結局トリスナが聞くのは翻訳機からアウトプットされた言葉であり、上総が何気なさを装うためにやった仕草やニュアンスが彼女に通じたのかは分からなかった。


「お前は魂が見えるっていうけれど、それじゃあお前には、そこら中で死にまくっている、ダニやアリや鳥の魂も見えるのか。見えているのなら、お前の視界は魂だらけで埋め尽くされて、他のものは何も見えなくなってしまうじゃないか。そんなことはあるはずないんだから、つまりお前の言ってることは嘘だ。なんとか言ってみろ。って言われたから――」

 トリスナはそこまで一息に言ってから、一瞬間を置いて、さらに続けた。

「ダニにもアリにも鳥にも、魂は無い。無いものは見えない。魂があるのは人間だけだって答えたの」

 トリスナはため息をつく。

「――そしたら、虫や鳥に魂がないなんて有り得ない。人間にしか魂がないなんて話、大人が言っているのを聞いたことがない、やっぱりお前は嘘つきだ、って」


 上総はなんと答えたらいいのか言葉につまり、とりあえず、「なるほど」と答えた。

 トリスナが以前から、魂が見えるのだ、という話をしていて、それのせいでいじめられていたことは分かっていた。しかし――

 魂があるのは人間だけだ、という世界観で世の中を見ているトリスナは、一体どういう成り行きで、そんな考えに取りつかれてしまったのだろう。

 先日、近所の人に聞いたところによると、どうやらトリスナは幼いころに両親を亡くしてしまったのだというが――


「魂は人間にしかない、って話、前におばあちゃんにだけ、したことがあった。その時のおばあちゃんの顔と、カズサは同じ顔をしている」トリスナは目だけこちらに向けて言った。「小さい頃にお父さんとお母さんが死んでしまったから、そんな変なことを考えるようになったんだって、思ってるでしょう」

 トリスナはまたため息をついた。誰にも話しが通じない、とでも言うような、疲れた果てたため息だった。


「いや、そんなことは……」

 と、上総は言いかけながら、しかし年長者としてなんと声をかけたらいいのか分からず、適当なことを言っても、逆に傷つけてしまうことになりそうだ、などと考えているうちに、いよいよ言葉が見つからなくなった。


「追っ払ってくれて、ありがとう。スマートフォン、見つかるといいね」

 トリスナはそう言って、席を立った。

 上総は遠ざかっていくトリスナの背中に、結局なにも言葉をかけられず、見ていることしか出来なかった。

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