031 2028年7月24日 渡河安曇
翌朝。空が白み始める少し前から目を覚ましていた
第三京浜を東へ向かい、首都高へと進む。
下り車線では、渋滞したまま動かなくなった車が、隙間無く詰まっていた。東京から少しでも離れようとした人々が乗っていたのだろうが、ほぼすべての車は窓ガラスが割られ、そこで凄惨な出来事があったことが伺われる痕跡が残されている。少なからず、無残な残骸が転がり、いやな臭いを放っていた。
そんな車の上や、隙間やらを、多数のサル化した人間が、駆け回っている。
当然、安曇たちが歩いている上り車線側にも、縦横無尽に走り回るサル化した人間は大勢居た。しかし、彼らが安曇たちに気がつく気配は一切ない。デネッタが展開している、知覚遮断領域の内側にいる限り、絶対に襲われる心配はなかった。
しかし、万が一、車の中に生存者がいたとしても、彼らから安曇たちの姿は一切見えないだろう。こちらから気付ければ良いのだが――とはいっても、気付けたとして、車外にはゾンビパウダーが飛散しており、助けようがないのだが。
東京に近づいていくと、上空を不老の異邦人が飛んでいるのを見かけるようになった。基本的に、不老の異邦人も知覚遮断の内側にいる存在を見通すことは出来ないはずなので、安曇やデネッタがここを歩いていることは、彼らには分からないだろう。――一部、例外はあるが。
そもそも、彼らは一体なんなのだろうか。
ゲームの中では不老の異邦人はプレイヤーがゲーム世界に介入するためのアバターであり、彼らを操作していたのは、すべて現実の人間だった。それと同じように、今現実に現れている不老の異邦人も、その向こう側に操っている存在が居るのだろうか。それともそんな存在は居らず、不老の異邦人は単独で考え、行動しているのだろうか。
どちらにしても、彼らの目的が全く分からないということに、変わりはない。果たして人間たちの味方なのか、そうではないのかは、今は分からない。
ふと、安曇は気付いた。つまりいま自分が感じているものが、アニマ・ムンディの中で、NPC達が不老の異邦人に対して抱いていたのと同じような、不安なのだ。
もしも、彼らがデネッタが現実にいることを知ったら、どうするのだろうか。
見当もつかないが、良い結果に繋がるとは、とても思えなかった。
ゲームの中では、どちらの国に所属していようとも、不老の異邦人にとってデネッタは、単純により良い報酬を得るための、優れた駒に過ぎないのだ。いま現実に居る彼らの目的や行動原理は不明でも、彼らが不老の異邦人の姿である限り、デネッタに対する扱いが決して良いものではないと考えるほうが無難だろう。
そんな風に考えている安曇の横で、デネッタはただ目を細めて、飛び去る不老の異邦人を眺めるだけだった。
彼女が不老の異邦人に対して、どのような感情を抱いているのかは分からない。
「あれって、海だよな?」
不意に、隣を歩くデネッタが、朝の日差しにきらめく東京湾を指差して言った。
「ええ、そうですね」
安曇は頷いて答えた
「昨日も反対側に見えていたが――、そうか、やっぱりあれが海なのか」
デネッタは東京湾をみつめたまま、感慨深げに言った。
「この国は、小さな島国なので、四方が海に囲まれているんです」
「私の住んでたところは、砂ばかりだった。あんなふうに沢山の水があるところなんて、見たことがなかった」
デネッタの言うとおり、アリルゲダは内陸に位置する土地で、オアシスのように湧き出ている水のそばに町が作られているような場所だった。
そのあとも、デネッタの視線はしばらく東京湾に向けられていた。
多摩川を越えて、安曇たちはようやく東京都へ足を踏み入れた。
時刻すでに昼に近くになっており、日差しがかなり強くなってきていた。遮るもののない高速道路上では、日差しはとても厳しかったが、とにかく早く家に着いて、母と父の顔を見たいという一心で、安曇は汗だくになりながら、歩き続けた。
デネッタもさすがにこの日差しと、アスファルトで反射する熱はこたえる様子で、時おり大きく息を吐くのが聞こえた。
安曇はふと、デネッタは、自分を自宅へ送り届けたあとは、どうするつもりなのだろうか、と思った。
彼女は昨日、ここが自分の住む世界ではないと言っていた。
もはや単純な、徒歩や乗り物に乗るといった手段だけで、自分の世界に帰ることは不可能で、彼女がこうして現実に現れた、その難解な原因を突き止めることができなければ、元の世界へ戻れないことにも、きっと感づいているだろう。
そう、原因。原因を突き止めれば、アニマ・ムンディが最終フェーズを終えてエンディングを迎え、再度フェーズ1に戻るみたいに、全部なかった事になるというのなら、デネッタも元の世界に帰り、こちらの世界もこんな風になる前に戻ることができ、すべてが丸く収まるのに。
しかしそんなものは、ただの妄想の上に想像を重ねた、ただの願望でしかないことは、安曇もわかっていた。
平和島で高速道路を降り、そのまま品川方面を目指す。
街中も、高速道路上と大差はなく、そこら中で車が列を作ったまま停止し、いたるところをサル化した人々が跳ね回っている。ただ遺体の数は、高速道路上にくらべると、いくらか少ないように感じられた。
サル化した人間以外に、正常な人間の姿は、一切見当たらない。
病気にかからないという確証を得られていない人は、外に咳をする人の姿がなくとも、すでにそこら中に飛散した砂が、いつ風に煽られて自分に振りかかるかもわからないのだから、外に出られない。
安曇のように、病気にかからない確証を得られたとしても、常に視界内に10人近いサル人間が居るこの状況では、外をうろうろするのは恐ろしいというものだろう。
結局、どこかの誰かが、この状況の決定的な打開策を発見してくれない限り、安心して外を歩くことは出来ないのだ。
午後2時38分。安曇はついに、自宅のマンションに到着した。
マンション周辺は、止まっている車の窓が割られていることもなければ、転がっている遺体も見当たらず、一見すると普段とあまり変わりのないように見えた。それがより一層、家族は無事に違いないという安曇の願いを強くさせた。
無人のエントランスに入り、インターフォンから自宅を呼び出した。
そんなことをしなくとも、セキュリティの向こう側に入るためのカギは持っているのだが、ゾンビパウダーが全身についている可能性がある状態で、この向こう側へ足を踏み入れたくなかった。
いちど両親の無事を確認したら、どこかで全身を洗って、ゾンビパウダーを落とさなければならない。
しかし、いくら待っても、呼び出しに応じる声はなかった。
安曇の心に、不安が影を落とした。
これまで意識的に考えないようにしていたことが、一気に湧き上がって、それらしい話を頭の中で紡ぎ出す。
安曇は知人や隣人の部屋の番号を押して、呼び出していく。もしかしたら、そちらに逃げている可能性もある。
が、安曇の想像むなしく、そのいずれの部屋にも、呼び出しに答えるものはいなかった。
安曇は逡巡したのち、自分のカギを使って、エレベーターホールへ入った。
どうせ外廊下なのだ。この中に入るくらいならば、大差はないはずだ。
とにかく、両親の声が聴きたかった。
エレベーターを呼ぶ。
自宅のある8階のボタンを押すと、エレベーターは動き出した。いつも嗅いでいる、埃と洗剤が混じったような、かすかな香りがした。
エレベーターが目的階への到着を告げる。
安曇は駆け出したい気持ちを抑えながら、自宅である816号室を目指す。
途中、扉が開きっぱなしになったままの家があったが、安曇はつとめてそれを意識の外にやりながら、廊下を歩いた。
やがて見えてきた自宅の扉は、安曇の思いに答えるように、閉まっていた。
そこへ至ってようやく、安曇は足を速め、扉の前に立った。
そっとノブを動かすが、鍵が掛かっていて、開かない。
両親は篭城に成功したのだ。
呼び出しに応じなかったのは、きっと何か理由があっただけなのだ。
そうに違いない。
安曇はインターフォンを押す。
反応はない。
続いて、扉の外から、家の中へ呼びかけた。
「母さん! 父さん! 安曇だよ! 帰ってきたよ!」
しかし、それにも応じる声はなかった。
ただ、室内のどこかで、何かが倒れるような音がしたような気がした。
ついに安曇は堪えきれなくなり、自分の鍵で扉を開けると、ゆっくり扉を開けた。
次いで、中からふわりと、気分の悪くなる臭いが流れ出てきた。
そして、扉の開く音に反応するように、奥のほうから、バタンバタンと、騒々しく何かが跳ね回る音がし出した。
音の主は、騒々しい音を立てながら、リビングの方から出てきた。
パジャマを着た、父だった。
父は四肢を使って、気が狂ったようにチンパンジーの物まねをしながら、玄関に向かって突進してくる。
唐突に物凄い力で後ろから引っ張られて、安曇は廊下に引きずり出された。
父は玄関口で体を上下させながら、どうしてここから音がしたのか、不思議がるようにしばらくうろうろしたあと、開いていた扉から外に出て、手すりを乗り越えて下の建物の屋根へ飛び降り、どこかへ行ってしまった。
とても運動が苦手だったとは思えない身のこなしだ。
安曇はぼんやりと考えながら、いつのまにか自分がその場にへたり込んでいることに気がついた。
デネッタは、悲しそうな瞳で、そんな安曇のことを見下ろしていた。
家の中には、誰もいなかった。
あったのは、風呂場に残された、腐り始めた肉のへばりついた人の骨と、血だらけの母の服だけだった。
それですべてだった。
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フェーズ3へ続く
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