015 2028年7月22日 熊井修
午前11時07分。神奈川県秦野市の渋沢交番に勤める熊井修(51)は、隣家から悲鳴が聞こえたという通報をうけて、住宅街の一角へやってきた。
熊井は乗ってきた原付から降りると、額から落ちてくる汗を拭いた。雲ひとつない空からは、真夏の強烈な日差しが照りつけている。黒々とした富士山が、こちらを見下ろすように聳えているのが、くっきりと見えていた。
「おまわりさん、この家です」
30代半ばほどの男が、不安そうな顔をしながら熊井に駆け寄ってくると、そばに建っている家の一軒を指差して言った。すぐ後ろでは、通報して来た男の妻が同じように不安そうな顔をしながら、熊井へ頭を下げた。
藤戸という表札がかけられたその家へ近づいて、熊井は中で物音がしていないか耳を澄ました。
「通報したあとも、しばらく叫び声がしてたんですけど、ちょっと前から全然聞こえなくなっちゃいましたね……」
通報してきた男は、熊井と一緒になって藤戸家を覗きこみながら言った。
「こちらのお宅はどういった方が住まれているのか、ご存知ですか?」
熊井が尋ねると、男は、
「もうすぐ定年近そうな旦那さんと、奥さんと、大学生の娘さんと、おじいちゃんとおばあちゃんの五人だったと思います」
と答えた。後ろで妻が何度も首を縦に振って肯定した。
「悲鳴は何人かがあげている感じでした?」
「いえ、おそらく娘さんが、一人でずっと叫んでました」
男が答え、妻が首を縦に振った。
ベージュ色の二階建ての家の中からは音がしている気配がない。胸ほどの高さのガレージゲートの向こうには、車が二台止まっている。インターフォン横のポストには、朝刊がささったままだった。
熊井はインターフォンを押した。
室内で呼鈴が鳴ったのが微かに聞こえる。
念のためもう一度押してみるが、反応はなかった。
熊井は門を開けようとしたが、内側から施錠されていて開かなかった。しかたなく、ガレージゲートを乗り越えて敷地へ入った。玄関は当然、開かない。
壁にそって歩いていくと、庭へ出た。
小さな庭を囲む生垣の向こうはすぐに隣の家のようで、姿は見えないが犬がいるらしい音がしている。
藤戸家の短く刈り込まれた芝生の上におかれた物干し竿には、何もかかっていない。窓ガラスの日よけに立てかけられたグリーンカーテンではしおれ気味のアサガオがどうにか太陽のほうを向いている。
緑で隠された裏の窓は開け放たれ、網戸になっていた。夜中は冷房を使わずに過ごす主義のようだ。
熊井は網戸の向こうを覗き込んだ。
ベッドが二つと、そばに引きずられたように放置されたタオルケットが見えた。人影はない。
網戸をそっと開け、身体を室内へ入れる。
室内は一見綺麗に片付けられているように見えたが、しかし床の上にはまるで天井裏の掃除でもしたのかというような多量の砂が散乱していた。
そこに足跡を残しながら、数歩奥へ進んだときだった。どこか近くで、ピチャピチャと小さな音がしているのが聞こえた。それは熊井に、犬が皿から水を飲んでいる姿を想像させた。
しかし思い返してみて、この家の入口には狂犬病予防接種済みを示すシールは貼られていなかった。
開けっ放しになっていた扉を越えて、廊下に出ると、音はいよいよ大きくなった。さらに、時折小枝を折るような音もしている。
正面にはすぐ、トイレの扉が見えていた。音はその扉を突き当たって曲がった先からしている。
そちらにあるのは、犬の気配ではなく、人間の気配に近い何かだった。
これまで、努めて冷静であろうとしていた熊井だったが、勤続30年近い自分の警官としての勘が、これは何か良くないことが待ち受けていると、強く警鐘を鳴らしていた。
一度帰って、応援を呼ぶべきじゃないのか。
なんと言って?
嫌な予感がするから、誰か来てくれ、とでもいうのか?
ガキみたいなことを言うんじゃないと、常日頃いっているのは自分じゃあないか。
冗談はよしてくれ。
熊井は意を決して一歩進む。
水をすする音は止まない。
耳を研ぎ澄ますと、布ずれの音も聞こえた。
一歩進む。もう、次の一歩で、自分は廊下の向こう側に身をさらすことになる。
不意に熊井は気付く。
音を出しているのが、一匹の犬ではない、ということを。
角の向こうに、不特定多数の犬が――
ばきん!
大きな木の枝を折る音とともに、わずかに男がうめく声が聞こえた。
熊井は腰の拳銃に手をかけながら、一気に身体を出した。
玄関まで続く一直線の廊下の中ほど、階段の下に、蠢く影の塊があった。
それは、チンパンジーのように床に座りこんだ、4つの人影だった。
人影は、上半身を突き出して、互いの顔がぶつかることもいとわずに、一心不乱に何かを貪っている。
彼らがベチャベチャと音を立てながら貪っているのは、もはや元がなんだったのか分からない、食い荒らされた肉の残骸だった。
熊井は狼狽しながら一歩下がった。
ひじが壁にあたって、鈍い音が鳴る。
4つの顔面が、8つの瞳が、一斉にこちらを向いた。
熊井は跳ねるように先ほど出てきたばかりの、タオルケットと砂が散乱する部屋に飛び込むと、そのままの勢いで庭へ出た。
――なんだあれは。陰になってよく見えなかったが、座り込んでいたやつらは、全員普通に服を着た人間だった。まさか、叫んでいた大学生の娘を、それ以外の家族で食っていたのか? とにかく、相手は4人。これは応援を要請しなければどうにもできない事態だ。
そうして、表へまわろうとして、何かにつまづいて、おもいきり転んだ。
見ると、散水用のホースが束ねられたものに足を取られたようだった。
悪態をつきながら立ち上がろうとして――
生垣の向こうにいた何かと、目があった。
大きく見開かれた瞳が、真っ赤に濡れた顔の上についている。
その瞳が、瞬きひとつせずに、じっと熊井を捕らえていた。
それは、数十センチほどの生垣の向こう側で、チンパンジーのような姿勢で座り込んでいる人間の目だった。
熊井は飛び退こうとしたが、それよりもはやく、向こうから腕が伸びてきて、地面についていた熊井の左腕を掴んだ。
そのまま恐ろしい力で一気に生垣に向かって引きずり込まれる。顔や腕に小枝が突き刺さった。そうこうしている間に、掴まれていた左腕に歯を付きたてられ、激痛が走る。
「クソが!」
熊井は腰の拳銃を引き抜いて、相手の眉間を撃ち抜いた。職を失うことよりも、腕のほうが遥かに大切だった熊井は、それでもなお鈍く動き続ける相手にの横っ面にもう一発撃ち込んだ。
それでようやく拘束が解かれた。
ほっと息を吐くが、噛み付かれた左腕は酷く痛んだ。
とにかく拳銃をしまおうと、右腕を引っ込めようとした。
しかし、その腕が何者かによって強くつかまれ、引き抜くことができない。
一度緩やかになろうとした熊井の心音が、一気に早鐘を打つ。
すぐ右手にもうひとつ、熊井を見つめる瞳があった。
熊井が何かを考えるよりも早く、その瞳の下で閉ざされていた口が大きく開かれ、熊井の右手に喰らい付いた。
熊井は悲鳴と共に、拳銃を手放してしまった。
腕を引き抜こうにも、相手の恐るべき握力によって、びくともしない。
「助けてくれ! こいつをどうにかしてくれ!」
熊井はあらんかぎりの声で叫んだ。この期に及んで、女のように叫ぶ自分の姿を情けなく思う熊井だったが、背に腹は変えられない。このままでは、右手の先が無くなってしまうのだ。
その時だった。
突如視界が真っ白になったかと思うと、正面で大きく何かが弾ける音がした。続いて、有機的なモノが焦げた嫌な臭いが鼻をついた。
もう右手を拘束する力は失われていて、生垣から腕を引き抜いた熊井は、まぶしくて何も見えないながらも生垣から数歩離れた。
耳はさきほどの音のせいで、耳鳴りのような音が鳴り続けていて、ほとんど何も聞こえない。
やがて目が慣れてくると、生垣の向こうから微かに煙があがっているのが見えた。
何が起こったのか分からないが、とにかく助かったのだ。
ほっとすると同時に、熊井は頭上に何者かの気配を感じ、首をあげた。
十数メートル上空に人影がひとつ、浮いていた。
黒いウェットスーツをまとったようなその人影は、大きな対物ライフルのようなものと一緒に、空中で静止したまま、こちらを見下ろしていた。
あれが自分を助けてくれたのだろうか。
熊井はぽかんと口を開けたまま、その非現実的な物体をよく観察しようと、立ち上がろうとした。
が、右足を思い切り掬われ、しりもちをついた。
いつのまにか家の中から出てきていた、先ほどの4人のうちの1人――老婆が、熊井の右足を掴んでいたのだ。
目もきちんと見えず、耳もほとんど聞こえない状態でぼんやりしていた自分を呪いながら、熊井は上空の人影に向かって叫んだ。
「助けてくれ! たのむ!」
一体どうやって先ほどの光と音とを引き起こしたのか分からないが、間違いなくあの浮いているヤツが自分を助けてくれたのだ。
今度も助けてくれるに違いない。
そう思って空を見上げた。
人影は、先ほどと同じ格好で、超然とした気配をまとって浮かんでいた。
熊井の右足に激痛が走る。
老婆が足首に喰らいついている。うんざりする程の痛みが、熊井の全身を駆け巡る。
室内からさらにもう1人、壮年の女がサルのようにひょこひょこした動きで庭に出てきた。熊井は足元の老婆の顔を思い切り蹴り付けようとしたが、その足を壮年の女に掴まれてしまった。
「おい! なにしてんだよ! 早く助けてくれ!」
熊井はもういちど叫んだ。
左足にも痛みが走る。
腰に銃を探すが、見つからない。生垣の先のフェンスの向こうだ。腰ベルトから繋がるストラップを引っ張るが、何かに引っかかって手元にこない。
徐々に聞こえ始めていた耳が、ガラスを硬貨で削るような、不快な音を捉えた。
さらにもう1人、室内から老人が現れた。
音の調子は、早くなったり、高くなったり、低くなったりしながらも鳴り続ける。
熊井は身体を捻って拘束から逃れようとするが、上手くいかない。
音はどんどん大きくなる。
室内から、駄目押しとばかりにもう1人、現れた。
最後の瞬間、熊井はようやく気付いた。
あれは、浮いているヤツが笑っている音なのだと。
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